『夢のはじまり・1』












 雨が降っていた。
 10月に入り、すでに肌寒いのが、雨のせいで余計に冷え込んでいる。
 ガラス窓にトントンと打ち付ける雨粒。
 夏木和久は参考書を抱えたまま、雨の具合を見ようと窓越しに暗い空を見上げた。
「止みそうにないですねー」
 湿った空気の職員室に夏木の声が静かに響く。
「今日は夕方から80%って言ってましたよ」
 デスクで、答案をチェックしていた女講師がわずかに顔を上げる。
「そうだったんですか。――――あーあ、あいつら濡れながら来てるよ」
 窓に額をつけ、夏木はビルの下に視線を移した。
 駅から、この「有沢予備校」のあるビルまで数人の高校生たちがカバンを傘代わりに慌てて走ってきている。
「なんで若い子って傘持たないのが多いんでしょうね」
 思わず笑みを浮かべながら、夏木が言うと、女講師が声を立てて笑った。
「若いって…、夏木先生まだ二十歳じゃないですか」
 すでに30歳を最近迎えた女講師が言ったので、夏木はちょっと照れくさそうに笑んで、首を振った。
「まあ、確かに若いですけど高校生には負けますよ。俺のことおっさん、呼ばわりするんですから。あいつら」
 あらまぁ、と女講師が笑ったとき、予鈴が鳴った。
「さあ、若い子のエネルギーでももらってきましょうか」
 手早く答案をまとめて、女講師が席を立つ。
「俺は全部吸い取られそうですよ」
 苦笑しながら夏木は言って、窓のそばを離れようとした。
 その時、ビルの向かい側の道路にたたずんだ赤い傘が目に入った。
 なんとなく視線を向ける。
 赤い傘を持った女性がこのビルを見上げていた。
 このビルの、そう、今自分のいる、この場所を見ているようだった。
 顔ははっきり見えなかった。
 だけど 。
 目が、合ったような気がした。
 ほんの数秒、夏木は赤い傘をじっと見つめていた。
「夏木先生? 遅れますよ?」
「え、あ、」
 はっと我に返って、ドアを開けてこちらを見ていた女講師を振り向く。
「すいません。いま、行きます」
 慌てて言い、身をひるがえす。
 女講師が先に講師室を出て行く。
 夏木もその後を追うとして、だが後ろ髪を引かれる思いでもう一度だけ、赤い傘を見ようとした。
 しかし、すでにそこにはもう赤い傘はなかった。
 夏木は人々の行き交う雨に濡れた道路を眺め、そして職員室を出て行った。

 











「先生」
 車に乗り込もうとしていた夏木に声がかかった。
 よく知った声に顔を上げると、塾の生徒の西野拓弥が小さく手を振って走ってきた。
 そして勝手に車に乗り込む。
「おい、拓弥ー」
「傘忘れちゃってさー。家近いんだし送ってってよ。お袋がご飯食べさせてくれるかもよ」
 なんの悪びれもなく、日に焼けた顔で爽やかに笑う。
「ったく、しょうがないなー。天気予報で雨っていってただろー」
 ため息をつきながら、夏木も車に乗り、エンジンをかける。
「ところで、今日の夕ご飯は?」
「しょうが焼きだって」
 二人は塾の講師生徒という以前からの知り合いだ。
 夏木は幼い頃に両親を亡くしていた。両親の友人だった拓弥の父は弁護士で、夏木にとって親代わりのようなもの。
 拓弥とは兄弟のように育てられた。
 夏木が予備校講師のバイトを始める前は、ずっと拓弥の家庭教師もしていた。
 拓弥の父に何度助けられたかわからない。
 夏木にとって、とても大切な恩人だった。
「あ〜、腹減ったー」
 リクライニングを最大まで倒して、拓弥が大きく伸びをしながら、叫ぶ。
「家に帰ればあったかいご飯だ」
 笑いながら言って、車を走らせる。
 拓弥は窓にへばりつくようにして、過ぎ去る雨の中の街を見ている。
「なー、ファーストフードでも買って、食べながら帰んない?」
 よっぽどお腹がすいているらしく、拓弥はお腹をさすりながら呟いた。
「いま、食べたら、はいんなくなるだろ? 晩メシ」
「入るよ。成長期だぞ? 和兄はおっさんだからわかんないだろうけどさ」
「おっさんじゃねーって」
「コンビニでいいよ! 肉まん食べたい!」
 勢いよく夏木のほうに向き直って言う拓弥に、夏木はため息をついた。
「しょーがないなー」
 拓弥の熱意に降参した夏木は、近くにあったコンビニに車を止めた。
 拓弥はさっさと降りて、コンビニの中に走っていく。夏木も鍵をかけると、中に入っていった。
 肉まんだけと言ってた拓弥はすでにおにぎりとパンを一個づつ手に持っている。
「おい、あんま買いすぎんなよ。おばさんに怒られるぞ」
「はいはーい」
 返事だけ。拓弥の目は真剣になんのジュースを買うか迷っている。
(…ったく)
 夏木は心の中でため息をついて、コーヒーを取った。レジに持っていき一緒にタバコも買う。
 そして会計が済むと、拓弥の姿を探した。
 拓弥はまだジュース売り場にいた。
 そばに行くと、拓弥のとなりに一人の少女がいた。
 見覚えのある制服に、拓弥の学校のものであることに気づく。
「同級生?」
 夏木は拓弥に声をかける。
 すると一瞬、びくっとして拓弥が振り返った。
「あ…。先生」
 いくぶん強ばった顔で、拓弥は夏木を見た。
「?」
「う、うん…。同じクラスの相原香奈さん」
 拓弥は、ちらりと香奈のほうを見て、言った。
 夏木は拓弥の言葉に一瞬引っかかりを感じたが、すぐに忘れる。
 相原香奈はにっこりと笑って、夏木にお辞儀をした。
「初めまして、相原といいます」
 かわいらしい少女だった。
 日に焼けた拓弥とは対照的で、とても色が白く、二重の大きな目が笑みを含んで夏木を見ている。
「こんにちは。夏木といいます」
 軽く会釈をする。
 香奈は笑顔のままで夏木を見つめていた。
「どこかで会ったことある?」
 不意に夏木の口をついて出た。
 拓弥が眉を寄せ、夏木をにらむようにして見た。だが夏木はそれに気づかない。
 そして香奈はきょとんとして首を振った。
「…なーに、ナンパしてんだよ」
と軽い口調で言いながら、拓弥が夏木の背を叩いた。
「は? ナンパ?」
と、今度は夏木がキョトンとして、呟いた。
(………たしかに今のセリフはナンパっぽい)
 はっと気づいた夏木は、慌てて笑顔を作って首を振る。
「あ、いや、変な意味じゃないんだ。ごめんね」
「ったく、おっさんは」
 わざとらしく大きなため息をつくと、拓弥は「じゃあな」と香奈のほうを見もせずに言って、レジのほうに歩いていってしまった。
 夏木も会釈すると、拓弥の後を追う。
「女の子には、もうちょっと優しくしろよ」
 財布からお金を出している拓弥に、夏木はそっと言った。
 店員から商品を受け取ると、拓弥はさっさと店を出る。
(なんだ、あいつ)
 夏木は少し、首を傾げ、店を出た。
 雨が、ドシャ降りになっていた。
「ひどいなぁ」
「和兄、カギ」
「あ、ああ」
 小走りに車に駆け寄り、急いであけて、中に乗り込む。
 2メートルほどの距離で、洋服はかなり濡れてしまった。
 キーを差し込んで、エンジンをかける夏木の目に、赤い傘が映った。
 コンビニの傘立てに、赤い傘があった。
 その赤い傘が持ち上がる。
 視線をずらすと、相原香奈が赤い傘を広げた。
(あの子…)
 夏木は車を発進させると、コンビニの入り口の前で、止まらせた。
 すぐそばに相原香奈がいる。
 それに気づいた拓弥の顔が強ばった。
 そんなことはお構いなしに、夏木は窓を開けると、香奈に声をかけた。
「こんなひどい雨じゃ、傘さしてても濡れるよ。もし、よかったら送ってってあげようか?」
 と、夏木は出来るだけ爽やかさを心がけて微笑む。
 香奈は少し戸惑った表情をした。
(まあ、確かに初対面だし…。怪しいおっさんとか思われてたらどうしよ)
 内心、そんなことを心配しながら夏木は香奈の返事を待った。
 だが香奈が返事をするより先に、拓弥が香奈を見た。
「乗れよ。相原の家って、どうせ帰り道だし」
 ため息をついて、拓弥が言った。
 香奈は小首を傾げ、そして笑顔で頷いた。












 濡れた赤い傘がなるべく車の中を濡らさないように香奈は気をつけていた。
 その様子をミラー越しに見て、夏木はなかなかしっかりした子だなぁ、と思った。
 拓弥はといえば、ずっと黙り込んでいる。
「学校の勉強は楽しい?」
 少し香奈の方を見て、夏木が訊いた。
 香奈は小さく笑う。
「う〜ん…。好きな教科は楽しいですけど、なかなか…。来年は受験だし、きちんと勉強しなきゃと思ってるんですけど、あんまり出来ないです」
 夏木は頷きながら、
「相原さんは、うちの予備校に入るのかな?」
と言った。
「え?」
 香奈と拓弥が思い思いに夏木を見た。
 運転している夏木には二人の表情は見えず、話を続ける。
「7時頃かな、相原さん、うちの塾の近くにいなかった?」
 わずかに香奈が目を見開いて、夏木を見る。
「窓から赤い傘が見えてて、こっちを見てた人がいて。違うかな?」
 赤い傘なんていっぱいあるしね、と夏木は笑った。
「いえ、それ、私です…。入ろうかな、と思って」
「やっぱり。そっかぁ。うちの予備校は楽しいよな、拓弥」
「…ふつう」
「おいー、普通ってなんだよ。だれのおかげで今の高校に合格できたんだ」
「実力」
「おまえ〜」
 二人の会話に、香奈が吹きだした。
「仲がいいんですね」
「あ、ああ。こいつとは昔からの知り合いなんだ。俺の恩人の息子でね。まあ、しょーのない弟みたいなもんだね」
 笑いながら夏木が言った。
 拓弥は「なんだ、しょーのないって」と、小さく呟く。
「そうなんですか…。いいなぁ…」
「相原さんは一人っ子?」
 いいなぁ、と香奈が言ったから、普通に夏木は聞いた。
 拓弥は正面を向いたまま、フロントガラスに打ち付ける雨を見つめる。
 香奈もまた、静かに窓の外へと目を移し、ガラスに映る自分の顔をぼんやり見る。
「姉が一人」
「お姉さんがいるんだ。それなら女の子同士で仲いいんだろうね」
 香奈はゆっくりと正面に向き直り、微笑んだ。
「ええ、とっても仲が良かったですよ」
 本当に仲がよく、姉のことが大好きなのだろう。香奈の笑顔にはそう思わせる姉への愛情が溢れていた。
 その笑みに、夏木も思わず微笑んだ。
 だから、夏木は香奈の言葉の中の、あることに気が付かなかった。
 それからしばらくして、香奈の家の近くだという駅で車が止まった。
「ほんとうにここでいいのかい?」
 車から降りた香奈に夏木が声をかける。
「はい。もう雨も降ってないし。それにちょっとよりたいところもあるので」
「そう。それじゃあ、気をつけてね」
「はい。わざわざ、ありがとうございました」
 深々とお辞儀をした香奈に、夏木は笑顔でこたえる。
「それじゃあ、失礼します」
 そう言って、香奈は歩き出し、夏木も発車させた。
 香奈と車の距離はあっという間に離れてゆく。
「可愛いこだなぁ。礼儀もちゃんとしてるし」
 夏木の言葉に拓弥はなんの反応もしめさない。
 香奈が乗っているあいだ、夏木が見たこともないくらい拓弥は無口だった。
「なんだよ、拓弥。クラスメイトなんだろ? もっと仲良くしろよ。それにうちの塾に来るかもしれないんだしさ」
「………」
「へんなヤツ。………あ、わかった。お前、あの子のことが好きで、恥ずかしいからなにも喋れなかったとかじゃないのか?」
 笑みを含んで、夏木は茶化すように言った。
 拓弥はまったく表情を変えず、その口を開く。
「相原の姉さんのことは、もう話題にだすなよ」
 抑揚のない声。
「ん?」
「相原の姉さん………、2ヶ月前に亡くなったんだ」
 夏木は驚いて拓弥を見る。
 そして外ではまた、雨が降り始めていた。













 赤い傘が、大きく揺れている。
 早歩きをしているせい。そして手が震えているから。
 また振り出した雨を、赤い傘はすべてを防ぐことができず、香奈はところどころ濡れていた。
 家につき、ガチャガチャとせわしなく、鍵を開ける。
 後ろ手にドアを閉めて、傘を放り出し、そして二階の部屋へと駆け上がる。
 部屋に入ると電気もつけずに、香奈はベッドに倒れこんだ。
 大きく、震えるため息。
 枕に強く顔を押し当て、香奈はゆっくりと気を静めた。
 家には誰もいない。
 両親は一年前から海外赴任をしていて、家には香奈と姉の二人だけだった。
 だが、姉が死んで、父親についていっていた母は、日本に戻ってきていた。そしてすべての荷物の整理をするため、1週間ほどまた、父の所へと行っているのである。
 雨の音と、時計の針の音が、暗く静かな部屋に響く。
 香奈は、ゆっくりと枕から顔をあげ、ベッドサイドにおいてある写真立てをとった。
 そこには香奈と、香奈に抱きつく姉の姿がある。
「―――――お姉ちゃん」
 写真の中の姉へ、語りかける。
 柔らかな微笑が浮かぶ。
「今日ね…………あの男にあったよ……」
 冷たい声。
「待っててね。お姉ちゃん…」
 微笑のまま。
 だけど、その言葉に『あの男』へのたくさんの憎しみを込めて、香奈は呟いた。