
9
粉々に砕け散ったガラスの破片が足元まで飛んできた。
綺麗になくなった窓ガラス。
ジェルヴェは大口を開けて、ただ唖然とするしかできない。
何が起こったのか、それさえも考える余裕がなかった。
だが音もなく窓から入り込み、現れた黒い影に、小さな悲鳴を思わず上げていた。
黒い影はゆっくりと人型をとっていく。
「あら?」
茫然自失のジェルヴェに反し、嬉しそうなアデールの声が響いた。
ジェルヴェが視線を向けるとアデールは割れた窓ガラスのことなど、まして黒い影など気にもとめていないようだ。
それどころか自ら怪しい黒い影に近づいていった。
「どうなさいましたの?」
アデールの声とともに、暗闇のヴェールが剥がれる。
黒い影から現れたのは美しい白銀の髪と、美しい顔をした男。
「アルお兄様」
そう、アデールの兄アルテュールだった。
アルテュールは昨夜とはまったく違う優しい微笑を浮かべている。
「儀式が滞りなく進んでいるか心配になって、様子を見にきたんだよ」
「まぁ、アルお兄様ったら、心配性なのね」
くすくすとアデールは笑い、ふと気づいたようにジェルヴェを振り返った。
と、アデールが背を向けた途端に、アルテュールの眼差しが凍てつくようなものに変わる。
「ジェルヴェ様、私の兄アルテュールです」
そう紹介してくるアデールの声を聞きながら、ジェルヴェは後退りした。
「違うぞ! 俺は、違うんだからな」
ジェルヴェは悲鳴のような声でアルテュールに向かって叫んだ。
心配で見に来たというが、嘘だろう。
なぜアデールが気づかないのか不思議なくらいにアルテュールは突き刺すような殺気を滲ませている。
泡を食ったように言い、首を振るジェルヴェにアデールが「どうなさいましたの?」と首を傾げる。
「ニンニクの匂いに気分が悪くなってしまっているのではないかな?」
答えるアルテュールの口調は穏やかだ。
だがその視線は呆れたようにたくさんの鏡やニンニクに埋もれた部屋を見渡していた。
「まぁ、そうなのですか?」
「ち、違う!」
こいつのせいだ! お前らのせいだ!、と想いを乗せて叫ぶ。
「よろしく、ジェルヴェ殿」
そんなうろたえているジェルヴェのことなど気にもとめない様子で、アルテュールが歩みよった。
アデールからはアルテュールの表情は見えない。
優しさのかけらもない、冷酷極まりない真顔と眼差しがジェルヴェに向けられる。
無理やり手をとられ、傍目には友好的に見える握手。
だが折れるのではないかというくらいに力を入れられ、ジェルヴェは低くうめいた。
『儀式を完了させるのではないぞ』
昨夜と同じく、不意に頭の中に響く声。
ギョッとして顔を強張らせる。
やはりこの二人は人ではないのだ。と、そう実感する。
「しょうがないだろ!」
恐怖半分、だがどうしようもない事態にやけくそ気味にジェルヴェは吐き出した。
後方で、アデールがどうしたのだろうか、と目をしばたたかせている。
『口に出さず、頭の中で言え』
アルテュールの声が響く。
ジェルヴェは一瞬呆け、そして難しい顔をして頭の中で考えるように言ってみる。
『しかたないだろ! お前の妹が儀式儀式言うんだから! 儀式が終わったら、逃げる。それでいいだろ!!』
『駄目だ。逃げるまでもない。儀式はできないと言え。誓いは破棄する、と言えばお前はアデールから解放される』
『……本当に?』
『ああ』
そんなことでこの状況が回避できるのか、と思うも、すぐに安堵感が広がる。
『なんだ、それだけでいいのなら、きのうのうちに言っておけばよかったのだ』
わずかだが気持ちに余裕ができ、ジェルヴェは忌々しげに頭の中で悪態つく。
返ってきたのは冷ややかな視線のみ。
「どうかなさいましたの? お二人とも」
黙りこくって見詰め合っているジェルヴェとアルテュールに、アデールが怪訝そうに声をかけた。
「いや、なんでもないよ。とても良い方のようだね」
思わず見惚れてしまうほどの優しく美しい笑みを浮かべてアルテュールがアデールの傍らにたつ。
アデールは兄の言葉に嬉しそうに頷いていた。
『さぁ、ジェルヴェ。言うのだ』
にこやかな雰囲気ながら、ジェルヴェの頭の中に響く声は背筋を凍らすほどに冷たい。
ジェルヴェはごくりと唾を飲み込んで、一歩アデールの前へと踏み出した。
恐怖はあっという間に薄らいでいた。吸血鬼である彼らは畏怖する存在ではあるが、兄であるアルテュールが自分の味方についているのである。
今の状況さえ片付けば、また明日からいつもどおりの日々が戻るのだ。
「アデール。君に言わなければならないことがある」
昨日今日、味わされた恐怖の文句を言いたい。二度とくるな!、誓いなどするか!、と叫んで追い出したいが、アルテュールの手前穏やかに終わらせるのを選んだ。
なんでしょうか?、と瞳を輝かせ愛らしく見つめてくるアデール。
どうせならこの美しい少女を味わっておけばよかった、などといつものペースを取り戻しつつあるジェルヴェは考えながら、また一歩アデールのもとへ踏み出した。
「儀式のことなのだがな。俺は誓いを――――」
破棄する。
そう頭の中では言っていた。
だが言葉自体は途切れる。
チリ、と焼けるような微かな痛みが、言葉を止まらせた。
なにか、いやな感じがした。
なんだろう、と妙な不安を覚えつつ、再度口を開く。
「俺は、誓いを、は――――」
「間に合ったようですね」
ジェルヴェの言葉に重なるように、ひとつのしゃがれた声が響いた。
アルテュールとはまったく違う、男の声。
ジェルヴェだけでなく、アデールもアルテュールも一瞬動きを止めた。
ジェルヴェとアデールは呆けたように、アルテュールは血の気の引いた顔で、声のしたほうをみた。
それは天井。
ちょうど三人の頭上に、それはいた。
暗い灰色のマントのようなものを頭から着た小さな身体が、天井に脚をつけ逆さ釣りになった状態で立っていた。
ひぃっ!、一歩後退りするジェルヴェ。
アデールは驚くではなく、ただ誰だろうといった表情をしている。
「お初にお目にかかります。アデール・ローペルヌ嬢、ジェルヴェ・アルダーソン殿……」
低い声だ。陰気さをまとわせた響がある。
男は音もなく天井を移動する。
三人がそれぞれの面持ちでそれを見ていると、スッと姿が消えた。
「私、立会人のバールベリトと申します」
そう名乗った声は、唐突に三人のすぐそばでした。
気配なく男は、ジェルヴェとアデールの相中に立っていた。またもやジェルヴェは短い悲鳴をあげ、一歩後退りする。
近くにきた男の身の丈はアデールの腰ほどしかなかった。
頭からかぶったマントから覗く顔も暗く、はっきりと判別できない。
「儀式の報告を先ほど受けまして、慌ててやってまいりました」
抑揚のない声は、そう言って不気味な笑いのようなものを漏らした。
どこに連絡だ、と思うものの、それを訊けるほどの冷静さはまだジェルヴェにはなかった。
「まぁ。そうでしたの! そういえば立会人が必要だと聞いておりましたのに。連絡が遅くなって申し訳ありません」
アデールはようやく納得がいったようで、バールベルトの暗さを吹き飛ばす華やかな笑顔を浮かべ、お辞儀をする。
「いえ、こうして間に合ったのでありますから良しといたしましょう……」
感情のまったく感じられない調子で言い、バールベリトがゆっくりと右手を上げた。
なにも持っていなかったはずの右手に鈍い輝きを放つ杖が現れる。
そしてその杖を、ドン、と床についた。
次の瞬間、床についた杖の先から溢れるように暗い色が溢れ出す。
床を侵食していくように赤黒い色が絨毯のように床や壁、天井を覆う。そしてその上を蛇がはいずるようにして棘のある蔦が四人の立つ場所を避け、縦横無尽に張り巡る。
つい数分前とはまったく違う部屋。
ただひたすら顎が外れるのではないかというくらいに大口を開けて立ち尽くすジェルヴェの前で、再度バールベリトが杖を突いた。
「さて、それでは儀式の続きをいたしましょうか」
バールベリトの声に、ギシリ、と軋むように部屋が蠢いたような気が―――ジェルヴェはした。
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2007 ,1,18
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