
4
――――ジェルヴェ。ジェルヴェ!
遠くから声が聞こえてきた。
もやがかかったような意識の中で、声は徐々に近づいてくる。
「――――ジェルヴェ! おい! 起きろよ!!」
ゆらゆらと身体を揺さぶられ、そして唐突に頭にガンガンと響いてくる大きな声。
ぱちり、とジェルヴェは目を開けた。
目前に若い男がいる。
「ジェルヴェ!?」
男はホッとしたように、ジェルヴェを揺する手を止めた。
(………エドモン? なんだうるさいな)
ジェルヴェは眉を寄せた。
なんだどうした、と言おうとして、身体を動かすことができないことに気付く。
背にはひんやりとした固い感触。どうやら地面に横たわっているようだ。
なんともいえない倦怠感が全身を覆っているようだ。
「おい、大丈夫か?」
エドモンはパタパタとジェルヴェの顔を手で仰ぐ。
「……………なんだ?」
しばらくしてようやくの思いでジェルヴェは声を絞り出した。
「なんだってお前がなんなんだよ。姿が見えないから、てっきりどこぞのご婦人としけこんでいるのかと思っていたのに。なんでこんなところで倒れてるんだ」
エドモンに引っぱられ、これまたようやくの思いで半身だけ起こした。
改めてあたりを見てみる。
そこはテラスから出た庭先だった。
一体なぜこんなとこにいるのだろう。
ジェルヴェははっきりしない意識を辿る。
「……なんで俺が倒れてる」
「……だからそれは俺のセリフだって」
呆れたようにエドモンがため息をつく。が、ふとなにかを思いついたようににやけた笑いを浮かべた。
「もしかして、女を口説いたはいいが、抵抗にあってここで気絶してたとかじゃないんだろうな」
「は? 俺様に口説かれて抵抗する女がいるか! だいたいもう少しで―――」
言いかけて、ハッとしてジェルヴェは自分の唇に触れた。
(………そうだ……あの領主の娘アデール。あの娘とキスをしていて……)
柔らかなアデールの唇の感触がまざまざと甦ってくる。
(なかなか感度はよさそうな娘だったな………)
などと不届きなことを考えつつ、再び思考はもやがかかる。
キスをし、それから先になにかあったような気がした。
だがはっきりと思い出せないのだ。
考えれば考えるほど、全身の疲労が増してくるようだった。
ほんの数十秒逡巡しただけだというのに、ジェルヴェは面倒くささと抗いがたい倦怠感に再び後ろに倒れた。
「……おいっ!? ジェルヴェ!??」
倒れた際に意識が軽く飛びかけたが、なんとかジェルヴェはエドモンに視線を留めた。
「……俺を家まで送っておけ。眠い。寝る」
エドモンにそれだけを言うと、再びジェルヴェは意識を手離したのだった。
「………送っておけって……。何様だ、お前は」
大きなエドモンのため息が暗い夜闇に響いた。
***
馬車はまるで何かに追われているかのような速さで走っていた。
揺れる車内。
困惑気味に、そして哀しそうに妹が兄を見つめている。
「……ジェルヴェ様、大丈夫かしら」
アデールの呟きに、アルテュールはほんの一瞬眼光を鋭くするも、優しい微笑を浮かべる。
「大丈夫だよ。私があの屋敷の者に介抱するように頼んでおいたからね」
真赤な嘘を平然とつきながら、アルテュールは宥めるようにアデールの髪を撫でた。
「心配することはない」
「……でもっ。なぜアルお兄様……あんなことを」
アデールは目を潤ませた。
アルテュールはわずかに眉を寄せ、ため息をついた。
「あの場ではしょうがなかった。アデール……、もしあの場に私以外の者が来ていたらどうなっていたと思う? お前があの男の血を吸っているのを"人間"に見られてしまったら」
穏やかに、だがたしなめるようにアルテュールが言う。
先日社交界デビューとともに、"こちら側"の世界に出てきたばかりのアデールは若干危機感が薄いところがあった。
アデールはハッとしたようにうなだれる。
「……ごめんなさい、アルお兄様」
声をしぼませて、呟くアデールの肩をそっとアルテュールは抱き寄せた。
「わかってくれればいいんだよ。それに、今回のことはあの男が悪いのだからね」
「ジェルヴェ様は悪くないですわ!」
すかさず反応したアデールに、わずかにアルテュールは眉を寄せる。
アデールは大きな声を出してしまったことを恥じるようにした。だがその時のことを思い出すように目を細め、頬を染める。
「………ジェルヴェ様はすごくお優しくて……本当に私が幼い頃から夢に見ていたとおりの王子様のような方なのです」
そう、アデールは祈るように手を握って、うっとりと言った。
二人は初めて会ったばかり、しかもあの男は女癖が悪すぎて都を追放されたのだ。
アルテュールにしてみれば優しいなどもってのほか、指一本たりとも妹に触れることなど許せる人物ではない。
だが平静を装って微笑を浮かべると、「そうだね」と優しく相槌をうつ。
アルテュールはアデールの髪を撫でながら、さりげなく聞いた。
「ところで……。ジェルヴェ殿の"誓いの儀式"は済んだのかい?」
アデールを探して辿り着いたとき、すでにジェルヴェの首筋に牙を立てていたところだった。
小さなため息をつき、アデールが兄を見つめる。
「……いいえ。まだジェルヴェ様の"血"をいただこうとしたところだったのです。ですから……まだ。明日改めてジェルヴェ様のところへ行かなくては」
早く行きたい、そんな思いをはらんだ眼差しだった。
「そう―――」
アルテュールは自然に頬を緩ませる。
"誓いの儀式"はギリギリのところで中断されていた。
その事実にアルテュールは心の底から安堵した。
そして同時に心の中で、
(アデールより先に……あの男に会っておかなければならんな)
冷ややかに呟いたのだった。
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2006,9,24
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