『Sweet Eden』
1
真っ白な世界。
光につつまれてるのか。
なにもないだけなのか。
白い世界だった。
ぼんやりと白い世界を見ている。
真っ白だから、なにもないから、なにを見ているというわけでもないけど。
パチパチと。
音が響いた。
白い世界に、小さな火花が散る。
弾けるような、なにか燃えているような音と、光。
ああ、花火だ。
そう思った瞬間、暗転し、白い世界は消えた。
「夏希ー!? なにボーっとしてんのよー!」
蒸し暑くて、肌にまとわりつくような空気。
首筋や背中がじんわり汗でぬれている。
茅瀬夏希は背中にはりついたシャツをつかんで空気をいれながら、あくび混じりに見上げた。
「なに」
無愛想このうえない声。
「なにって、寝てるんじゃないわよー」
友人の由比が眉をよせて、憮然とした顔で夏希をにらむ。
「あんたねー、花火してる最中に居眠りってどういう神経よ」
夏希は首をかしげ、そして目の前にある、由比のもった花火を見つめた。
夜の公園に花火の光が明るく散っている。
「しょうがないよ。夏希ちゃんは今日一日中バイトだったんだからさ。疲れてんだよ」
そう笑いながら助け舟をだしたのは同じく友人の一志だった。
「えー? 疲れてるにしても花火もったまま寝るー?」
もともと声の大きい由比はさらに大きな声で言いながら、新しい花火に火をつける。
苦笑する一志。
そしてもう一つの声が、ため息混じりに呟いた。
「夏希はどこでもすぐ寝れるのが特技だから」
ベンチから腰をあげて夏希は声の主に視線を向けた。
生温い風に、栗色の髪が微かに揺れている。
二重のはっきりとした目が夏希を見ていた。
夏希はツンと顔を背け、再度のあくびをしながら、
「うるさい、伊織」
と、そっけなく呟く。
わずかな時間の居眠りは妙に身体をだるくさせる。
頬杖をついて、なにもする気が起きずにあっというまに燃え散ってしまう花火を見つめていた。
眠気でぼうっとする視界に映る花火の残骸が、なにか寂しかった。
夏希は倦怠感をとりはらうように軽く首を振り、大きく伸びをして立ち上がる。
「帰る」
そう告げると、「はぁ?!」と大きく不満の声を上げる由比。
一志も伊織もきょとんとして夏希を見た。
「ちょっとー!」
「だってもう眠くってしょうがないんだもん」
軽く手を振り、身を翻す。
ったくもう勝手なんだからー、と由比のため息混じりの呟きが聞こえてくる。
「じゃーねー」
とりあえず笑顔を残し、夏希は歩き出した。
「おい、伊織。お前も帰れば?」
後方で一志の声が響く。
「別にいいよ」と返す伊織。「でも夜道は危ないだろ」そう諭す一志。「いいよ、伊織くん。夏希と一緒に帰って」と、由比が言って、伊織のため息が聞こえた。
立ち止まらず、夏希は細々と聞こえてくる会話に耳をそばだてる。
そして渋々といった風に歩き出したもうひとつの足音に、夏希はほっと息をつきながら、歩く速度を速めた。
夏希を追いかけてくる足音は、すこし小走りになって、夏希においついた。
夏希はちらり視線を向ける。
憮然とした表情の伊織は前だけを見ていた。
穏やかで優しいと仲間内では言われている伊織だが、夏希にだけは態度が違う。
「このワガママ女」
夏希の視線に気づいているらしく、ため息混じりに伊織が言った。
「だって眠かったからしょうがないじゃん」
「はいはい」
気のない返事に、ムッとして視線をそらせる。
冷たいヤツ、そう内心呟きながら、地面を見て歩く。
しばらく無言で歩き、夏希は立ち止まった。
数歩行って伊織もようやく足をとめ振り返る。
「なに」
伊織の言葉に、夏希はそっぽを向きながら、「歩けない」と返した。
おそらく伊織はうんざりした顔をしているだろう、見てはいないがわかる。
自分のワガママに伊織はいつも迷惑そうにするから。
「おんぶしてよ」
「は? バカ? いくつだよ」
「うっるさいなー。勉強だけしかしてない伊織と違って、私はずーっとバイト忙しくて疲れてんの」
「あっそ」
冷ややかな声に、夏希は仏頂面で伊織を見た。
「ケチ」
「ケチで結構です」
「あーあ。昔はさぁ『夏希、だいじょうぶ?』ってすぐに心配してくれてたのに」
「昔は可愛かったから」
「今も可愛いよ」
即切り返すと、伊織は今日何度目かわからないため息をわざとらしいほど大きくついた。
夏希に歩み寄って、その手を引っ張る。
「ほら、引っぱってやるから。行くぞ」
8月半ばをすぎて、夜になればだいぶ暑さは緩和されてきていた。だが手をつなぐとじんわりと汗がにじむ。
暖かな伊織の手。
黙って夏希を引っぱってあるく背中を、じっと眺める。
人の体温はあまり好きじゃない。だが伊織は別だった。伊織が自分に触れることなどめったにないが、伊織の体温は好きだった。
会話はない。
だが流れる空気は重くない。
時折、自然と手が離れかけると夏希は立ち止まる。むずがる子供をあやすように、再びしっかりと夏希の手を握り締め歩き出す伊織。
つかず離れずの距離をとりながら、二人は街灯に照らされた歩道を歩いていった。
やがて不意に伊織が手を離した。顔を上げ、夏希は内心落胆する。
もう家の前だった。
『茅瀬』の表札がかかった玄関。伊織は一人さっさとドアを開け、中へ入っていく。
「………着くの早い」
ぼそり呟きながら、開けっ放しにされたドアを閉めながら夏希も家へ入った。
「早かったのねー、二人とも」
リビングから母親が顔を覗かせて言った。
伊織はため息をつきながらリビングへ向かう。
「また夏希のワガママ発動。眠いからって、切り上げてきた」
「まぁ、夏希っ。由比ちゃんたちに今度ちゃんと謝りなさいよ。あんたって子はほんとにマイペースなんだから」
眉間にシワを寄せ、しみじみと言う母親に、同じように眉を寄せながらミュールを脱ぎ捨てる。
きちんと脱ぎ並べられた伊織のクツ。
脱ぎっぱなしで片方は裏返しにひっくり返った夏希のミュール。
夏希はそのままリビングへ行きかけて、だがその二人のクツを見つめた。
だが結局揃えるでもなく、リビングへ向かう。
「夏希? あんたちゃんとクツそろえたのー?」
まるで行動を見ていたかのような母親の言葉。返事をせずに冷蔵庫から麦茶を取り出す。
「ほんと、夏希、女の子なんだからもうちょっとちゃんとしなさい。男の子の伊織のほうがきちんとしてるわよ」
なんで母親というのはこんなにも些細なことでうるさいんだろう、そう思いながらグラスについだ麦茶を一気に飲み干す。
ふとTVの音が大きくなる。
騒がしい笑い声。お笑い番組にでも変えたのだろうか。
「どうしてこうも違うのかしらね。双子の兄妹なのに」
TVの音量に混じって、母親のため息混じりの声が、言った。
夏希はグラスを流しに置き、「寝る」と一言残してリビングを出る。
TVの前のソファーには伊織の後姿。
それを軽くにらむように見て、夏希は2階へと駆け上っていった。
――――――――誰も好きで双子に生まれたわけじゃない。
薄暗い部屋の中。
電気をつけることもせず、ベッドに身を投げ出す。
枕を抱き寄せて、目を閉じた。
ピッ――――。
小さな音が響き、クーラーが稼動しはじめた。
リモコンを握り締めたまま、夏希は枕に顔をふせる。
タイマーで自動的にクーラーは切れるようにして寝る。そして朝になれば暑さに目が覚め、クーラーをつけて2度寝する。これが夏希の夏休みの毎日だった。
きのうは朝早くから夕方までファミレスのバイトで忙しく、今日はいつもよりもだるく眠かった。
再び眠りにつくのはたやすく、あっというまに夏希は夢の中へと沈んだ。
どれくらいか、しばらくしてケータイが鳴り出して眠りは妨げられた。
面倒くさそうに手だけをばたつかせケータイを捜す。ベッド下に落ちていたのを広い上げ、誰からかも見ずに受話ボタンを押した。
「おーい、夏希ー?」
明るく大きな声が耳をつく。
枕に顔を伏せたまま、夏希は返事もしない。
「もしもしー? おいー? なつー?? おいってば!! お前寝てんだろ!」
さらに大きくなっていく声に数秒、
「うっさい! なんなのよ!!」
と、叫び返した。
「なんなのよってなぁ、そりゃこっちのセリフ!!」
ムッとしたような声に、夏希はようやく身を起こし、ケータイを耳から離し見下ろす。
いま喋っている相手は木下充。
相手の顔を思い浮かべ、そして再びケータイを耳元へ持ってくる。
「ああ、ごめん。忘れてた」
さっきの叫びはどこへやら、平坦な声で夏希は言った。
「忘れてたってな。俺、もう30分待ってんだけど。ずっとメールしてもなんの返事もねーし」
そう、今日は充と約束をしていたのだ。彼氏である充とデートの約束を。
時計を見ると午後1時をさしていた。2度寝して少ししか経っていないと思っていたら、数時間は経っていたらしい。
「寝てたし」
「寝てたし、って。反省の色なし?」
「ごめーん」
気のない声に、充の大げさなため息が返る。
「ったく。とりあえず待ってるから、早く支度して来いよ」
「んーーー」
「んーってな、今日お前が映画見に行くって言ったから、もうチケット買ってんだぞ」
「ああ、そうだったね」
「映画3時からだからなー。早く来いよ。俺まだ昼メシも食ってないんだからな」
「はいはい。わかりましたー」
「2度寝すんなよ!」
「はーい」
するとしたら3度寝だけどね、そう思いながら返事もそこそこにケータイを切った。
大きくため息をつき、また横になる。
目を閉じて数秒、しかたなく夏希は準備を始めた。
ジーンズにライトグリーンのカットソーといういたってラフな格好。顔を洗いに下に行くと母親の姿はなかった。買い物にでもでかけているのだろう。大雑把に歯と顔を洗い、手櫛で髪を整える。簡単に化粧をして、玄関へ向かった。
クツを履いていると、伊織が降りてきた。
特別言葉をかわすこともなく、伊織も夏希と一緒に家を出る。
自転車にまたがる伊織にようやく夏希は声をかけた。
「どこ行くの」
「図書館」
また勉強か、とうんざりしたような目を向けつつ、伊織の後ろへと座る。
わずかに軋む音を立てた自転車に、伊織は眉を寄せて夏希を振り返る。
「なに」
「駅」
「歩けよ」
「いいじゃん、同じ方向なんだから」
むっとした表情の伊織に夏希はそ知らぬ顔で言う。
「ほら、早くー。あたし急いでるの」
背中を叩くと、伊織は大きなため息をつきながらペダルをこぎ出した。
最初はゆっくりと、だがじょじょにスピードはあがっていき、わずかな熱をはらんだ風がそれでも爽やかに通り過ぎていく。
「ねぇ、伊織ー」
「なに」
「今度宿題見せて」
「自分でしろ」
「ケチ」
他愛のない会話。
「ねーこのまま、どっか行こうよ」
伊織の背中を見つめながら、言った。
数秒間があいて、
「お前、約束あるんだろ」
「べつに」
「俺はあるから」
約束があるから無理、そう言う声は、最初から夏希の誘いに応じるつもりなどないというような、そんな感じがした。
友達と集まって勉強するだけのくせに、と心の中で呟く。
急に自転車が止まった。
見ると、図書館と駅への分かれ道。
「あとは歩いていけよ」
降りるよう手を振られ、夏希は頬を膨らます。
「ええ? あとちょっとじゃない。送ってってよ」
「だから俺も約束あるって言ってんだろ」
「図書館で勉強するだけでしょ」
「そうだけど、集まる時間決めてんだから遅れたくないんだよ」
「真面目人間」
自転車から降りず、そっぽを向いて悪態つく。
「夏希」
「伊織くん」
ため息混じりの伊織の声と、まったく別な女の声がかぶさった。
夏希と伊織はそろって声のほうをみた。
黒髪の綺麗な少女がいた。
「広瀬」
そう呼ばれた少女は笑顔を浮かべて走りよる。そして伊織から夏希に視線を向けた。
「こんにちわ」
にこにこと笑顔で言われ、だが夏希はいたって無表情に挨拶を返した。
伊織がちらり夏希を見て、「妹の夏希」と紹介した。夏希は無表情のまま自転車から降りる。
背の高さは同じくらいだった。夏希は広瀬を一瞬、見定めるように眺める。
「私、広瀬綾。伊織くんとは生徒会で一緒なの」
「ふーん」
誰もそんなこと聞いてない、と思いながら儀礼的な笑みを浮かべ、適当な相槌をうつ。
生徒会役員。確かに伊織と並んで遜色のない知的な雰囲気を綾はしていた。
人に好かれそうな、先生受けのよさそうな、優等生。
そう、夏希は判断する。
「それにしても、ほんと―――――」
綾が小首を傾げ、夏希と伊織を見比べた。
「ほんとうに、似てないのね。ちょっと目元のところとか似てるけど」
なにがおかしいのか笑う綾。
すっと表情を消した夏希に対して、伊織は小さく笑った。
「そりゃ二卵性だからな。瓜二つじゃないよ」
「そうなんだけど、双子っていうと、ついソックリって思い込んじゃうのよね」
まぁね、と返す伊織。
夏希は無理やり笑顔を作って、二人の会話にわりこむ。
「あたし、もう行くから」
「あ、ああ」
「ま、勉強頑張って」
そう言って背を向ける。
「またね、夏希さん」
綾の声がかかって、手を振ってそれに応じた。
少しして自転車を押して歩きだした音が聞こえてきた。
夏希はぐっと唇をかみ締めながら、宙をにらむようにして歩く。
「―――――似てなくて悪かったわね」
冷たい声で夏希は呟いた。
頭がズキズキと痛み出す。
違う高校だから、伊織がどんな学校生活を送っているのか、詳しくは知らない。
誰にでも優しくて気さくな性格をしている伊織は中学のころからクラス委員をしていたりしていた。
高校に入ってから生徒会に推薦され、難なく生徒会に入った。
学校でも今のように親しげに女生徒と話しているのだろうか。
W伊織"なんて、呼ばれているのだろうか。
そんな考えが頭の中を締め付けるように、蔓延する。
中学のころだったら、いつも一緒だった。
でも今は違う。
今は―――――。
うだるような暑さと、軋むような頭痛に、苦しげに吐息をついて立ち止まった。
ピピピ……。
メールの着信音が鳴った。
充からのメールで、どこそこのショップで待っているということだった。
じっとその文面を見つめる。
付き合っている"彼氏”からのメール。
だが、頭痛は治まらない。
目を閉じ、太陽の光を浴びるように青空を仰いだ。
「また…………だめかな」
誰に言うでもない呟きがこぼれる。
ひとつため息をつき、待ち合わせ場所へと向かった。
憮然とした表情で木下充は夏希を見ていた。
二人の間には食べかけのハンバーガーとポテト、水滴をたくさん浮き上がらせたジュースがある。
充は塩のききすぎだったポテトをとる。だが食べるでもなく、意味なく眺め、ため息をついた。
「あのさ、まじで?」
窓際の席に座っている二人。そとを見ている夏希に充は言った。
「うん」
本来の待ち合わせ時間から遅れること1時間と少し。ようやく会って、ファーストフード店に入り遅い昼食をとっているところだった。
楽しいはずのデートは重苦しい空気に包まれている。
「俺たち付き合いだしてまだ2週間だと思うんだけど」
イスの背もたれに体重をかけよりかかり、充は眉をよせて夏希を見つめる。
「ていうかさ、会ってそうそう別れ話ってどーなんだよ?」
そう、会って、充がハンバーガーを食べ始めた途端、まるで世間話でもするかのように夏希が切り出したのだった。
『別れよ』
あっさりとした口調で。
にらむような充の視線を、まるで気にするでもなく夏希は軽く首を振る。
「早いほうがいいじゃない」
「意味わかんねーんですけど」
ストローを噛みながらコーラを飲み、憮然とした表情の充にため息をつく。
「まだ2週間だから、別れたってそう寂しくないでしょ」
充は呆けたように目を見開き、夏希よりも深いため息をはきだした。
「てか、付き合って2週間だけど。俺、結構前からお前のこと好きだったんだぜ? だから1ヶ月前、お前が彼氏と別れたって言ったから告ったんだろ」
言いながら、充は眉をよせ、考え込んだ。
「…………そういや、確か前の男とも1ヶ月ぐらいで別れてなかったっけ」
夏季はなにも答えず、沈黙が流れる。 「お前ってさ……。まさかいつもこうやって突然振ってるわけ?」 不審気な眼差しを向け充は言った。 夏希はぼんやりと視線を揺らし、何度目かわからないため息をつく。 充が怒るのももっともな話。そして充がいま言ったことも当たっていた。 ”いつも”振ってしまう。付き合って1ヶ月とたたずに。 「―――――別に……軽い気持ちだったわけじゃないよ」 これもまた”いつも”のセリフだった。
ずっと噛みながら飲んでいたせいで、ストローは先端が平べったくなってしまっている。
「キライな人と付き合おうなんて思わないし。それなりに楽しかったし。いつか、本当に好きになるようにって、努力も……」 「もういいよ」 充の冷えた声が遮った。 もとは充からの告白でスタートした付き合い。 徐々に好きになっていけば、と強引にアプローチしたのも事実。 「結局……努力しても好きにはならないって、分かったってことなんだろ」 ぶっきらぼうに充が言って、夏希は充をじっと見つめた。 努力して好きになる。 それに何の意味があるんだろう。
夏希ははじめて目を伏せ、「ごめんね」と呟いた。
充は無言で冷めかけたハンバーガーをつかむと勢い良く食べ始めた。喉に詰まらせそうなほど詰め込むように食べていく。 そしてジュースですべてをいっきに飲み込んで、充はごちそうさま、とでも言うようにパンと手を叩いた。
全部食べ終え、トレイを手にして立ち上がる充。 「じゃ、俺行くわ。とりあえずフラれたんだしこれ以上一緒にいても意味ないしな」 言いながら充はポケットから今日見るはずだった映画のチケットをテーブルに置いた。 「見るんだったら見ていけよ。せっかく買っておいたんだしさ」 軽く笑って充は背を向けた。 「んじゃな」 つい数時間前までは『彼氏』であった充。 つい数時間前までは『彼女』だったはず。
だけど、そんな関係などあっというまに壊れてしまうのだ。 「バイバイ」 感情のない夏希の声が充の背にかかる。 数歩行って、ふと充が振り向きかけた。 顔を半分向け、だが夏希を見ずに口を開いた。 「なぁ……。お前さ」 皮肉や、暴言の言葉を言われても仕方ない。 そう、夏希は黙って充の言葉を待つ。 「――――――本当は」 だが予想に反して充の声は優しく、だがどこか哀れむようなものだった。
「他に好きなやついるんだろ」
驚いて顔を上げる夏希に今度こそ本当に背を向け、充は店を出て行った。 取り残された夏希は頬杖をついて、窓の外を見た。 通りを行く人々のなかにはたくさんのカップルがいる。 幸せそうに、楽しそうに、たまにケンカをしたりしながら歩いている。 「”好き”ってなに」 ぽつり、夏希は呟いた。 特別、ってなに、と心の中で続ける。 もしかしたら、とそう思って付き合って、だがやはり違う、と別れを告げる。 一体何回そんなことを繰り返しただろう。 胸の奥が針で刺されたように痛んで、夏希は眉を寄せる。 相手を傷つけているのに、なぜ自分が傷ついているのか。 ぐっと唇をかみ締めてすべての感情を封じ込めるように唾を飲み込み、そして重いため息をついた。 「別に好きな人なんていない」 充はもういないのに、言い訳するように呟く。 「好きな人なんて―――――――」 宙をにらむ。 その言葉の先に思い出すのは、つい2時間ほど前の出来事。 そしてそう遠くなく来るはずだった充との別れを早めた出来事。
『広瀬』 そう名を呼び、親しげな笑みを浮かべていた伊織を思い出す。
図書館で勉強って言ってたけど、あの”女”と二人っきりなんだろうか。
ついさっき、自分のことを好きでいてくれた充を振ったばかりだというのに、そんな想いが、胸を占めている。
誰かのことを好きになれたら。 そんな儚い願いを抱えて付き合って。 だが”無理”だということに気づいて別れて。
傷つくのだ。
振っているのは自分なのに。 付き合う相手のことを好きになれない、”特別”だと思えない自分に傷つけられるのだ。
「誰も好きなんかじゃない」
低く言って、夏希は冷えたポテトを食べ始めた。
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