『BABY BED』








 最終の特急電車が通るのはもうそろそろだったろうか。
 美夜(みや)はまだ下りていない目の前の踏み切りを見て、思った。
 暗く冷たい夜風が頬をなでる。
 ふと目の前を通り過ぎた小さな影に空を見上げると、雪が舞いはじめていた。
「美夜――――!」
 夜闇に響く聞きなれた男の声。
 美夜はゆっくりと振り返る。
 冬の寒さにも関わらず美夜から2メートルほど離れた場所に立つ男の頬は真っ赤だった。
 弾んだ息が暗闇の中はっきりと白く吐き出されるのが見える。
 よほど急いで追いかけてきたのだろう。
「先生」
 美夜は男とは対照的に真っ白な頬に笑みを浮かべた。
「どうしたの? 先生」
 男は―――――雅貴は呼吸を必死に静めながら、苦しげな表情で美夜を見つめる。
「どうしたの? それは俺のセリフだよ! どうしたんだ、急に別れるって!」
 顔を歪め言った雅貴に、美夜は口に指を当てて可笑しそうに笑う。
「急にも何も、別におかくないじゃない? だって先生には奥さんがいるし。それに私は先生の、生徒なんだし」
 雅貴はその言葉にぐっと唇をかみ締めうつむいた。
 沈黙が流れる。
 美夜は笑みをたたえたまま、雅貴を、舞う雪を眺めた。
 しばらくして、雅貴は真っ直ぐに美夜を見据えた。
「あいつとは、別れる」
 重々しく吐かれた言葉に美夜は首を傾げる。
「無理だよ」
「別れる!」
「だって、奥さん、子供ができたんでしょう?」
「………それは……」
 美夜はふっと口元を緩め、また笑みを浮かべる。
「よかったじゃない。先生、子供大好きだもんね」
 雅貴は顔を強張らせた。
 ゆっくりと首を横に振る。
「俺は………お前が……」
 その先は言葉にならず、消えていく。
 美夜は細い吐息をついて、笑みを消した。
 目を細め夜空を見上げる。
「私も先生のこと……大好きだよ」
 穏やかな声で美夜は言った。
 でもね、と悲しげな眼差しで雅貴を見つめる。
「もう無理だよ。だって奥さんに子供ができちゃったんだから。先生、子供を見捨てられないでしょ?」
 雅貴は口を開きかけ、だがなにも言うことができず、視線を落とした。
「もう、いいの。今は別れるけど、でもずっと先生のこと好きだから」
 ―――――美夜。
 雅貴の呟きが小さく響く。
 美夜はちらり腕時計に目を落とし、ゆっくりと視線を線路のほうへと向けた。
「ねぇ、先生?」


 最終電車が通るのはあと―――――。
 雅貴に呼びかけながら、時刻表を思い出す。
 そして、ちょうど踏切の閉じる音が、響きだした。

 カンカンカンカン―――――――。
 甲高い音が、響き渡る。


「生まれ変わったら、今度はずっと一緒にいようね、って言ったの覚えてる?」
 最後にもう一度雅貴に視線を向けて、美夜は笑いかけた。
 踏切の音にかき消されない様に、少しだけ声を大きくした。
「ああ。覚えてる………」
 美夜は良かった、と呟く。
「約束ね、先生。"いま"は別れてあげる。だけど」
 雅貴に向けられた笑顔は悲しみなどひとかけらもない、さわやかなもの。
「だけど、生まれ変わったら、ずっと、ずっと一緒だよ」
 噛み締めるように言われた言葉に、雅貴は訝しげに眉を寄せた。
 美夜は雅貴に背を向け、そして歩き出した。
 踏切はすでにおりてしまった。
 その中に、線路の真ん中へと、美夜は向かう。
「美夜!?」
 雅貴が叫ぶ。
 美夜は線路の中に立ち、雅貴を振り返った。
「ぜったいに約束だよ、先生」
 艶やかな笑顔。
 生まれ変わったら、その時は―――。
 声なく、唇だけを動かす美夜。
 雅貴は呆然と美夜を見つめた。
 美夜はすっと右を見た。
 雅貴もつられて同じ方を見る。
 一つの明かりが、あった。
 徐々に大きくなってくる光。
 そして、音。
 地面に響く振動。
 雅貴は大きく目を見開く。
「またね、先生」
 まるで下校時間、校舎で別れを告げるかのように、気軽な口調で、美夜は手を振って笑った。


 生まれ変わったら―――――。


 電車が、近づいてくる。
 ほんの一瞬のこと。
 あっという間に電車は通り過ぎるだろう。

 美夜は微笑み続け、電車を待った。





 そして。


「美夜ッ!!!」


 ドン、と美夜の体が線路の向こうへと弾き飛ばされた。
 視線を向けると、いまさっき美夜がたっていた場所に雅貴がいる。
 電車は目前。
 強張った表情の雅貴が自分も線路を跳び越そうと足を踏み出しかけた。
「先生」
 いやにはっきりとした美夜の声が響いた。

「待ってるね」


 何?
 そう言おうとした。
 だが次の瞬間、雅貴は自分を包むように迫ってきた光に気づいた。
 横を向く。
 そして、雅貴の体に衝撃が走った。




















 雪がひどくなってきていた。
 髪をわずかに湿らせる雪を振り払い、美夜はゆっくりと立ち上がる。
 あたりを見回すが、暗くてなにも見えなかった。幸いともいうように足元に転がった"左腕"を美夜は冷たく見下ろす。無表情にその手にはめられた指輪をはずすと、線路脇の草むらに投げ捨てた。
 そして"左腕"を美夜は自分の腹部に当てる。
「ねぇ、先生。じつはね……あたしも、妊娠してたの」
 うっすらと笑みが浮かぶ。
「奥さんと同じ2ヶ月目」
 愛しそうに"左腕"を撫で、美夜は楽しそうに笑い出した。






 ねぇ、先生?

 どっちから生まれてくる?

 あたしから?

 それとも奥さんから?


 でもどっちでもいいよ。
 どっちでも。



 だって次に会うときは、ぜったいに離れないから――――。




 生まれ変わったら、
 今度は、
 ずっと。




「一緒だよ」







 遠くでサイレンが響いてきた。
 美夜は左腕を投げ捨てると、家へと帰っていった。











2005,1,12

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