like or love or...







初めて会ったとき、特別なものを感じた。
高校で再会したとき、特別なものが確かであることを感じた。
他愛のない会話の中で、たまに向けられる言葉や視線が、なにか特別なものであるかのようにも感じた。
そのことに浮かれた時期もあった。
だけど、あの日――。
"あの光景"を見てから。

私は――――。










『TEXT.5』


 重苦しい気分をそのまま空に映したような天気だった。
 厚く暗い雲で覆われた空が雨を降らせ始めたのは下校間際のことだった。
 あっというまに雨は強くアスファルトを打ちつけ始める。
 帰宅の途につく生徒たちは、突然のどしゃ降りの雨に不満をぼやきながらも傘もなしに走り帰る。
 綾は軒下でそんな生徒たちの後姿を眺めながら手に持つ折り畳み傘を意味なく触っていた。
 ロッカーに置いていた折り畳み傘のお陰でずぶ濡れにはならずに帰れそうだった。
 だがザァザァと大きな雨音を聞いていると、傘をさしてでも帰る気になれない。
 雨に飲み込まれて、どこかに流されてしまう。
 そんな馬鹿なことを考え、綾は自嘲気味に苦笑した。
 しばらく逡巡し、結局綾は身を翻し校舎に入っていった。
 だがすぐにどこへ行こうか立ち止まる。
 放課後立ち寄るところといえばいつもなら図書室か生徒会室だ。
 ふたつの場所を思い浮かべ、綾の顔は一層暗く翳る。
 どちらとも行きたくない、というのが今の心境だった。
 どちらかと言えば図書室がましのような気がしたが、できれば避けたい。
 会う確立は少しでもないほうがいい。
 そんなことをどれくらい考えていたのだろうか。
 下校時間だということをうっかり忘れてしまっていた。
「広瀬?」
 生徒たちが帰っていくのだ。その中に見たくない顔が入っているかもしれないことはいつもならわかる。
 馬鹿のように突っ立って悩んでいた自分に内心ため息をつきながら、綾は声の主を見た。
 あまり顔を合わせたくない、そう思っていた伊織がいた。
「ひどい雨だな」
 そうね、と綾は外に視線を向ける。
「小ぶりになるまで待つのか?」
 問われて、再び思考が巡る。
 女生徒でさえぬれるのをいとわず帰っているのだ。あきらかに伊織は傘を持っていなかったが、きっと帰るだろう。
 それとも自分と同じで雨宿りを考えるだろうか?
 たとえば図書室で?
 綾はちらりと伊織の顔を見て、迷いながらも微笑し答える。
「折り畳み傘は持ってきてるんだけど、さしても濡れそうな勢いだし。教室で時間でもつぶしていこうかなと思って。……伊織くんは? もう帰るんでしょう」
 できるだけ自然に振舞う。
 伊織が察しいいことを知っているから、自分の暗い胸の内を気づかれたくなかった。
「ああ。もう帰る」
 思わずホッとした。
 だが「俺も折り畳み傘置いてるの忘れてて、教室に戻るよ」と言われ、一瞬落胆したのを伊織は気づいただろうか。
 綾と伊織は隣のクラスだ。どうしてもそこまでは一緒になってしまう。
 綾は笑みを取り繕いながら「じゃぁ教室まで」と先立って歩き出した。
 そうだな、とついてくる気配を感じながら、綾はいちいち伊織を気にしてしまう自分に苛立ちさえ感じてしまっていた。
 だがそばにいると、顔を見ると思い出してしまうのだ。
 涙を流していた、夏希の姿を。
 恋に真っ直ぐ想いをぶつける姿はとても苦しそうで、でもその涙は清らかに見えて。
 妹の想いに対する伊織は誠実すぎて。
 どちらもが真剣に向き合っている。 
 そんな二人に対して自分は―――。
 綾はそっと握ったままの折り畳み傘を持つ手に力を込めた。
 教室に戻るほんの数分、たいした会話はなかった。
 天気予報あてにならないな、など他愛のないことを伊織が言って、応えたくらいだ。
「それじゃぁ」
「ああ」
 伊織のクラスが手前だった。またね、と手を振り綾は伊織と別れて安堵しつつ教室に入った。
 こんなひどい雨だというのに、すでに教室には誰もいなかった。
 席について本と携帯電話を取り出す。
 ヒカルからメールが入っていた。
 どしゃ降りの雨だから気をつけて帰ってください、という内容だった。
 ヒカルはいつも綾を気にかけてくれる可愛い後輩だ。
 穏やかな気持ちになり自然と頬が緩む。
 返事を打ち、送信ボタンを押す。パタンと携帯を折りたたんだところで、
「―――あのさ」
と、ついさっき別れたばかりの声が響いた。
 純粋に驚いて振り返ると、伊織がドアのところに立っていた。
「どうしたの?」
 戸惑いながら腰を浮かせる。
 伊織は「ああ……」と真剣な表情で綾のそばに歩み寄ってきた。
 なにか逡巡するように伊織の視線が揺れている。
 なんだろうか。伊織がこんな顔をするということは―――。
 綾は彼の妹の顔を思い出す。
「この前さ、夏希と会ったんだろう?」
「……たまたまね」
 夏希は話したのか、と内心動揺しながら頷いた。
 いったいどんなことを伊織に喋ったのだろう。
 あの夜の問いを、彼にもまたしているのだろうか……。
「広瀬には色々心配かけてるなと思ってさ」
 鮮明によみがえる夏希の泣いている姿に、一瞬ぼんやりしてしまっていた。
 伊織の謝罪の色のある声に、我にかえり思わず苦笑する。
 伊織はいつだって真面目だ。
 自分のことを棚にあげ、人の恋路に首をつっこむような自分とは全然違う。
 チクリ、と胸の奥が痛むのを感じながら綾は首を振った。
「……私は単に野次馬なだけ。伊織くんはいつだって真剣に現実に向き合っているのに、私は無責任にお節介なことを言ったりしただけ」
 文化祭のときだった。
 伊織と夏希の微妙な空気に気づき、余計なお世話とわかっていながらくだらない助言をしてしまったのだ。
 いま思い返すとなんて傲慢で浅はかなことをしたのだろうと思わずにはいられない。
 自嘲するような響きを持った言葉に、伊織がわずかに眉を寄せた。
「そんなことないよ。親身に俺と……夏希のことを気にかけてくれてる」
 だからそんなのは単なる自己満足で、勝手な、思いあがった干渉。
 そう言いたくて、でも黙って口を閉じた。
 沈黙が落ちる。
 なぜこんな空気になってしまったのだろう。いや、なぜこんな空気にしてしまったのだろう。
 いつものように、前までと同じように、ただ"優等生ぶって"いればいいのに。
 どこまでも自分を嘲る想いしか浮かばない。
「―――広瀬だって、ちゃんと向き合ってるだろう」
 思いもかけない言葉が落ちてきて、驚いて綾は伊織を見上げた。
 さりげない助言を優しい伊織は誰にでもする。それは押し付けがましくなく、深入りするでもなく、静かな思いやりのもの。
 だからまさか伊織がそんなことを言うとは思わなかった。
 綾の想いを気づいているだろうことは彼の性格からして考えずともわかることだ。だがそれでもそこへ踏み込むようなことをはないと、思っていた。
 触れられたくない、そう顔に出ていたはずだから。
「……私は」
 ギュッと拳を握り締める。
「伊織くんと違って、子供なの。弱い人間なの。卑怯者なの。だから、伊織くんみたいに向き合うことなんて出来ないの」
 声が掠れた。
 乱暴な言葉だ、とわかっていた。
 幼稚さと情けなさに胸が苦しくなる。
「そんなことないよ」
「そんなことあるの!」
 綾は机を叩くようにし、立ち上がった。
「わかってるでしょう? 頭のいい伊織くんならわかってるはず。私の気持ち―――」
 思わず声を荒げ噛み付くように言う。
 まだ唇は次をつむごうとしていた。だが――。
「痴話ゲンカを教室でするなよ」
 一つの声が割り込んだ。
 冷ややかな声に綾は顔を強張らせ視線を向ける。
 伊織よりも会いたくなかった男。毎日教室で顔を合わせるが、できるだけ避けてきた男がさきほどの伊織と同じようにドアのそばに立っていた。
 一瞬目が合い、すぐに逸らす。
 不快そうな表情を樹はしていた。
「ケンカとかじゃありません」
「そう? なーんかカップルにありがちなメロドラマみたいな痴話ゲンカな雰囲気だったぞー」
 静かに返す伊織とは反対に、樹の声には茶化すような、嘲るような響きがある。
 羞恥で顔が熱くなるのを綾は感じた。
「お前らができてたなんて知らなかったなー。まぁでも噂はあったみだいだから本当だったってことか」
 あくまでも面白がるような雰囲気の樹に顔だけでなく身体中の体温が一気にあがっていくような気がした。そして目の奥がツンと痛む。
「先生。冗談はほどほどにしてください」
 とがめるような口調で伊織が言う。
「広瀬と俺はただの友人です」
 有無を言わせない、毅然とした伊織の態度にほんの数瞬沈黙する。
「―――あっそ。まぁ俺には関係ないけど」
 興味が失せたといった感のある独り言のような樹の言葉に綾は胸苦しさを覚えなる。反して今度は急速に全身が冷えていくのを感じた。
「私は雨宿りしてるだけです。伊織くんは今から帰るところです。先生はどうしたんですか」
 まるでなにかセリフを読むかのように言った。
 平静さをまとった声と、真っ直ぐ向きなおされた綾の視線に樹は「日誌を忘れててな」と教卓に向かった。
 ほらな、と取り残されていた日誌を手にし、いつもの軽い笑みを浮かべた。
「……広瀬、か――」
「ヒマだったら資料整理手伝ってくれないか。広瀬」
 伊織が綾を見て口を開きかけた。それをさえぎるような樹の声。
 心配そうに伊織の瞳が揺らぐのを見ながら、綾は微笑を作った。
「別にいいですけど。バイト代は高いですよ」
 いつものように綾も軽く返す。
「まー優等生広瀬サンなら高くつくのもしょうがないか。頼みますよ、広瀬サン」
 樹はとってつけたような苦笑を浮かべて、準備室にいるぞ、と日誌を軽く振った。「気をつけて帰れよ」と伊織に言って教室を出て行く。
 足音が遠のいていくのを聴きながら、綾はため息をついた。
出していた本を片付ける。
「大丈夫か?」
 綾は小さく笑って、伊織を見つめた。
 なにが?、とさっきまでだったら言っていたかもしれない。
 だがもう否定もなにもする気になれなくなっていた。
「さぁ、どうかな……。私、臆病者だから」
『俺には関係ないけど』
 しみじみ呟きながら、さきほど樹が言った言葉を思い出す。
 
『―――興味ない』
 
 そしてもう一つ、よみがえる"あの日"聞いた言葉。
 綾は唇をかみ締めて重く沈みそうになる心を奮い立たせる。
「伊織くんや夏希さんのように……私もちゃんと向き合わないとね」
 "あの日"から逃げてしまっていたことと。
「広瀬………」
 伊織が真っ直ぐ視線を返してくる。そしてふと微笑んだ。
「無理するなよ。―――大丈夫だから」
 優しい声音に、綾も微笑した。ほんとうに?、と心の内で問いかけながら。
 窓の外を見る。
 雨は一層激しさを増していた。

 

 


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2009,1,16