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『担任の橘――。橘樹です。みんな、よろしく』
 高校の入学式の日、初めて教室に踏み入れた日、再会した。
 この学校の教師なら、また会えるだろう。
 そう思ってたけど。
 まさか担任だなんて、思ってもみなかった。

『広瀬さん』
 職員室をたまたま通りかかった私に、悪いね、と言いながら先生は用事をお願いしてきた。
 ただプリントを教室に持っていってほしいっていうだけだったけど。
 先生に頼まれごとをされたのが―――妙に嬉しかったのを、覚えてる。





『TEXT.3』









 校内は喧騒につつまれていた。
 全校生徒の人数よりもはるかに多い人にあふれている。
 今日は11月3日。文化祭だった。
 クラスの出店だけでなく、生徒会での仕事もあったので、なかなかゆっくり見て回ることもできない。
 だが2時を過ぎ、少し余裕ができ綾は休憩しようと生徒会室に立ち寄った。
 部屋の中は閑散としている。
 だが、微かな――苦い香りがした。
 綾は開けっ放しになっているベランダに視線を向け、近づいていった。
「先生」
 案の定、そこには樹がいた。
 ベランダにもたれかかり、座り込んでいる。手にはタバコ。
「よう、広瀬」
「よう、じゃありません。こんなとこでタバコ吸って。ほかの先生に見られたら怒られちゃいますよ」
「今日は文化祭で一般客も来てるし、大丈夫だよ」
 綾は呆れた表情を隠すことなくため息をつき、少しだけ間をあけて隣に屈みこんだ。
「見て回らないんですか?」
「もう充分。俺が見て回ると外野がうるさいんだよね」
 ニヤリ、と笑う樹に、一層呆れ顔になる綾。
「そうですね。先生モテモテですもんね」
 実際樹が言うように、昨年の文化祭のときも、女生徒たちが一緒に行動しようと周りに集まっていた。
 今年もそうだったのだろう。
「まぁ、そうだな」
 樹の当然といった表情。
 綾は再度ため息をついて、ベランダの柵から校庭を見下ろした。
 焼きそばの匂いや、たくさんの人の笑い声が充満している。
「なぁ、木沢のクラスの出店行ったか?」
「ヒカルちゃんのクラスは……クレープ屋でしたっけ。まだです」
「イチゴチョコバナナが美味しそうだった」
 ちらり樹を見る。
 タバコの煙がゆるゆる空にのぼっている。
 そのあまりいいとは言えない匂いと甘いクレープは不似合いすぎて綾は内心苦笑をこぼした。
「そうなんですか」
「美味しそうだったなー」
 正面を向いたまま、樹がしみじみとした口調で言う。
「………買って来いってことですか?」
「お前のぶんも買ってきていいから」
 千円札を渡され、またまたため息をつき、仕方なく綾は立ち上がった。
 いってらっしゃい、とのん気そうな声がかかる。
 返事はせず、ただ密かに微笑しながらクレープを買いに行った。












「一人でみるからいいよ。あとで由比たちとも合流するし」
「夏希……」
 階段を下りていると、聞き覚えのある声に綾は立ち止まった。
 伊織と、私服姿の女の子。
 綾はすぐに伊織の双子の妹の夏希だと気づく。以前一度だけ顔をあわせたことがあった。
 重苦しい空気の漂う二人。
 伊織がなにか言おうとしかけるが、それを無視するように夏希は歩き出す。
 ちょうど綾のいるほうへと夏希がきた。
「こんにちわ」
 声をかけると、驚いたように夏希が顔を上げる。
 綾を見て、暗かった表情がさらに曇っていく。夏希は何も言わず、綾の前を素通りした。
 その後姿を見送って、綾は伊織のほうを見た。
 目が合い、伊織は気まずそうに微苦笑する。
「伊織くん。今からヒカルちゃんところにクレープ買いに行くんだけど、一緒に行かない?」
 明るく声をかけると、一瞬伊織は綾の後方を――夏希が消えていったほうを気にし、そして頷いた。
「夏希さん、来てたのね」
「友達と一緒に来てるんだ」
「大丈夫?」
「え?」
「なんだか、元気ないっぽいから」
 伊織とはほかの友人を交えて遊びにいくこともよくある。ヒカルに誤解されるくらいに、行動をともにすることもあった。
 綾は伊織が真面目でやさし過ぎるところがあることを、知っている。
 あの双子の妹のことで、伊織がなにか悩んでいることも。
「なにもないよ」
 そう言って前を歩く友人を、綾はじっと見つめた。
「伊織くん、ちょっと話しない?」
 初めて夏希と会ったときのことを思い出しながら、綾は切り出していた。












 伊織と少し話し込んでしまい、その後、結局一人で綾はクレープを買いに行った。
 ヒカルはあいにくいなく、クレープ二つ手にして生徒会室に走って戻る。
 樹からお使いを頼まれて、もう30分以上たってしまっていたのだ。
 もうじき3時になろうとしていた。3時半には文化祭閉会のアナウンスがあって、後片付けが始まってしまう。
 息せき切って生徒会室に入ると、樹の姿はなかった。
 もういないだろうとは思っていたが、綾はクレープに視線を落としため息をついた。
「どうしようかな」
「遅い」
 背後で急に声がして、驚きにクレープを落としそうになる。
「あ、おい。ばか」
 焦った声とともに、背後から綾の手ごとクレープとともにつかまれる。
 二人分の力が加わって、やわらかいクレープはぐにゃりと歪む。
「す……すみませんっ」
 自分の手に重なった――樹の手。
 背後、近すぎる距離の樹の体。
 とっさに離れなければと思い身動きしようとするが、「ちょっと待て」と制される。
「落とすなよ。どっちがイチゴバナナチョコだ?」
「えっと、右です」
 綾が答えると、樹は左手のほうだけ手を離した。右手はそのまま綾の手に、重なっている。
 少しだけ樹が移動した。
 間近にあった樹の気配が離れ、内心ほっとする。
 だが掴まれたままの右手が上にあげられた。
 それを目で追うと、ぱくり、と樹がクレープにかぶりつく。
「んー……まぁこんなもんかな」
 ぶつぶつ言いながら、もう一口、二口と食べ進めていった。
「あの、先生……」
 その光景に呆然としていた綾はようやく声を絞り出した。
「なんだ?」
「二人で持ったままだと食べにくいと思いますけど」
「そうか?」
「そうです」
 にっこり、離れてください、と視線で言う。
「もう少しで食べ終わるけど」
 にっこり、さらに綾の手をつかむ手に力を加える樹。
「明らかに食べにくそうですけど」
 食べ進めていく樹の口が、手に触れそうで、体が強張りそうになる。
「平気」
 そう言って樹は薄く笑う。結局最後まで食べてしまった。
 ようやく解放された右手を握り締めながら、綾はあえて白い目を向ける。
「先生。いまのセクハラって言うんですよ」
「失礼だな。お前が落としそうになったから、一緒に持ってやったんだろう」
 あくまで平然と、だがからかうような眼差しをした樹に綾はため息をついた。
 樹は楽しげに笑い、「教室の様子見てくるかな。そろそろ後片付けも始まるし、食べたらお前も来いよ」と部屋を出て行った。
 綾は一人になって、再度ため息をつく。
 ずっと握り締められていた右手を見下ろした。
 まだ樹に握り締められていた感触が残っている。
「ぜったいセクハラ……」
 ぽつり呟いて、自分用に買ったイチゴチョコのクレープを口元に運ぶ。
 チョコレートがたっぷりかかっていて、甘かった。
 食べ終わったころ、ちょうど文化祭閉会のアナウンスが流れ、綾は教室に戻っていった。








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2007,3,26