『Limits-5』
状況は相当不味いことになっているようだった。
樹は笑みを消したまま、考える。
どこで踏み外したのだろうか。
(俺か―――……、綾か……)
逡巡しつつ再び笑みを口元に乗せた。
「―――そう? 先生だって人間だからな」
「そうですね。先生だって学校の外では"先生"じゃないんですしね」
綾が何かを耐えるように眉を寄せている。
「まぁ"教師"は"教師"だろ、学校の外でも。ただプライベートはもちろんあるけどな」
「"先生じゃない先生"」
なにかフレーズのように、綾が呟いた。
「興味ある?」
なにに惑っているのか。
それを確かめるためには一歩踏み込むしかない、と感じた。
笑いを含んで言うと、綾は顔を上げ樹を見た。
視線が合い、そして綾は微笑した。
「私と伊織くんの関係、気になりますか?」
なぜここで伊織の名をだしてくるのだろうか。
虚をつかれた樹に、綾は続ける。
「伊織くんて、優しすぎるんですよね。私のことなんて気にしなくていいのに」
「のろけ?」
笑みを作り、問う。
「いいえ。伊織くんには私じゃなく好きな人がいるんです。私も別にいるし、好きな人」
綾は樹に視線をとめたまま、間を置くことなく続ける。
「興味ありますか?」
その目は落ち着いていた。
「―――先生、興味ありますか? 私のこと」
ゆっくりと、再び問われる。
樹は思わず声を立てて笑ってしまった。その質問を投げかけられるとは思っても見なかった。
綾の表情は笑みをたたえているものの、目は無表情へと変わっている。
樹はデスクに片肘をつき、頬を乗せて綾を見上げた。
「そうだなぁ」
興味ある、と今言うわけにはいかない。
「興味ある――――って、言って欲しい?」
樹はやんわりと返す。
「……私は先生のこと興味―――まったくありません」
あっさりと、綾は笑みのまま言う。
樹は目を細める。ゆっくりと綾が立ち上がった。
「先生って、きっと彼女とかたくさんいたんでしょうね」
なにを、どう返すのが最良か。
言うわけにはいかない。
だが今引いてしまえば、綾はこのまま去りそうな予感もする。
難しい境界線。
「かっこいいし、頭もいいし」
「まさか広瀬サンに褒めていただけるとは」
打つ手立てを探しつつ、いつもどおりを演じる。
「大人で、余裕があって、なんでも出来そうで」
淡々とした口調で続ける綾は―――わずか浮かべた笑みを、崩しかけている。
「なんでもはどうかなぁ」
「ほんとステキだと思います。先生がモテる理由よくわかります」
「なんだ、えらい持ち上げるな」
「先生」
「なに」
「先生」
「なに」
「好きです、先生のことが」
綾がわずかに身を乗り出して樹を見下ろし、言った。
樹は黙って綾を見上げる。
「―――そう、言って欲しいですか?」
ほんの数秒、視線が絡む。
『好きだ』
そう、言ってしまうのは、容易い。
だがどうしても踏ん切りがつかず、境界線のギリギリでとぼけるように呟く。
「そうだなぁ―――」
だが、それは綾に遮られた。
「残念ながら、言いません」
軽く、だが棘を含んだ声で言われ、樹は「なぁんだ」と返す。
そしてこの辺で一歩踏み込むべきか、と綾に言葉をかけようとした。
「ねぇ、先生………。先生にとって生徒ってなんです?」
それより先に綾が喋り出した。
「先生にとって恋ってなんですか? 先生に告白したりする生徒ってたくさんいるんですよね。告白してくる生徒を見てどう思います?」
樹に入り込む余地を与えず続ける綾。
その声は微かに震えをおびている。その目は泣き出しそうに潤んでいっている。
「子供に興味はない、そう思いますか? そうですね、高校生なんて大人な先生にとっては子供でしかないんでしょうね?」
樹は絶句し、綾を見つめる。
ゆっくりと言い募る綾は、苦しげで、今にも崩れ落ちそうだった。
「先生って、みんなに優しいですよね。さりげなく。勘違いしちゃう子も多いんでしょうね?」
"みんなに優しい"。
"勘違い"。
その言葉に樹は眉を寄せる。
綾が言っていることは、ほぼ告白のようなものだ。
だがそこには樹に対する拒絶にもにた怯えのようなものを感じる。
――――不審、不安?
「先生、私ね、子供なんです。大人な先生の考えなんて全然わからない、子供なんです」
潤んだ瞳からは、ギリギリで涙は流れない。
「私、一年のときは先生が"私にだけ"、なにか特別なサインを送ってくれてるような気がして、浮かれたんです」
自嘲するような笑みを浮かべる綾。
「先生は他の生徒にも同じようなことされてるんですか? それとも私が自意識過剰なだけなんでしょうか?」
首を傾げ、綾が問う。
「そうですね、きっと自意識過剰なのかもしれません。先生の他愛のない冗談をバカみたいに真に受けてるだけなのかも」
綾の視線は樹のほうを向いているのに、綾が樹の目を見ることはなく、揺れ動いている。
樹は焦燥感を覚えた。
同時に激しい苛立ちを感じる。
「私、わからないんです」
ぽつり、呟く綾。
「わからないんです」
そしてまた呟く。
綾は糸が切れたようにうつむいた。
「先生。
ねぇ、先生は私に―――何をしてほしいんですか?」
ギリ、と奥歯を噛み締め樹は口を開こうとした。
「……先生」
だが再び、綾の呟きに遮られる。
「私、先生のこと」
綾が唇をかみ締め、
「―――嫌いです」
言ったと同時に、その頬を涙が一筋流れた。
そして綾は準備室を飛び出した。
大きく開け放たれたドア、かけていく足音。
「クソ――――ッ!!」
苛立ちに吐き捨て、綾を追いかける。
胸の中で渦巻くのは自分への腹立たしさだけ。
相手はまだ10代半ば、それも真面目すぎるくらいに真面目な少女。
相手が自分に好意を持っていることに過信しすぎて、自分の欲を少しでも満たすために投げかけていたものが、あの少女にとっては重過ぎるものだったのだ。
――――泣かせるつもりなど、今もそしてこれからだってなかったのに。
必死に走っている綾の後姿を追いながら焦りだけが募っていく。
駆け引きや境界線のことなど構っている余裕はなかった。
もうすこしで触れるというところまで追いつき、そして綾の腕を掴んだ。
腕を引き、ちらり見えた綾の表情。
涙で濡れたその顔を見た瞬間、境界線は脆く崩れ去った。
乱暴だったかもしれない。
だが気にかける余裕もなく、綾の華奢な身体を壁に押し付け、唇を奪っていた。
らしくない。
ただ身体が勝手に動いてしまっていたのだ。
初めて身近に触れる綾の体温。
柔らかな唇。
言葉に出せない想いがすべて重ねた唇から伝わればいいのに。
そう、らしくなく、荒く渦巻く胸の内の激情に、思う。
最初強張っていた綾の身体から、次第に力が抜けていくのを感じ、そっと抱きしめた。
どれくらいだろうか。
弾んだ息と、目を潤ませた綾を樹は見つめ、そして再びきつく抱きしめた。
「……綾。―――――」
耳元で囁く。
たった今すべきではないことをしてしまった。だが綾を安心させるすべてを今言うことはできない。
それでも。
「悪い……。でもあと一年と少し……待て」
その頬にそっと触れる。
「待ってろよ………。俺のために―――」
それは自分勝手な願い。
離れがたさを感じながら、綾の身体を解放した。
支えを失った綾の身体は壁伝いにするすると崩れていく。
樹は、唇を噛み締め、綾を残しその場を後にした。
これ以上綾の傍にいるのは限界だったから―――。
後方で聞こえてきた綾の静かな泣き声に引きずられながら、離れた。
足早に戻ってきた数学準備室のドアを開け、音を立てて閉める。
すぐさまデスクの引き出しに置いた煙草を取り出し火をつけた。
窓を開け、外に向かって煙を吐き出す。
風のない強い雨の夕暮れ。
「俺も………ガキだな―――」
静かな室内に樹の呟きが響く。
「あと一年か……」
綾は待ってくれるだろうか?
安心を与えるでもなく、勝手な行動と言葉を残した自分を―――。
真っ黒な空に、紫煙がゆっくりと立ち昇っていった。
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2009,5,29
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