『Limits-3』





 文化祭の翌週の金曜日の夜。
 樹は久しぶりに土日と完全に仕事が休みだった。休みを有効に使うため残っていた仕事を片付けて、遅い夕食をとるため馴染みの定食屋にいた。
 そして隣にいるのは相変わらず代わり映えのしない顔。
 塩サバを口に放り、司が言った。
「この後カラオケ行かね? もしくはキャバでもいいけど」
「両方却下」
 ちらりとも見ず、箸を動かしながら返事をする樹。
「なんでだよー! たまには若い子と酒飲みてー。な、今度合コンでもしよ」
「却下」
 めげずに食い下がる司に、あくまでも冷たく返す。
「なんでだよー!! いいじゃん、たまにはー! なんでそんな付き合いわりーんだよ。前はさー、もうサイテー男だったのに」
 サイテー男という単語にぴくりとこめかみが動く。だが返事はせずに卵焼きを口に運ぶ。
「あー! もう! ケチ! 友達甲斐のないやつめ!!」
「友達なのか?」
「………。もーいい。っていうかさ、写真ないの?」
「……お前の話は脈絡なさすぎんだよ! なんの写真だよ」
 見せて、という風に手を差し出してきた司に、樹は大きなため息をついて味噌汁を飲む。
「なんのって、樹くんの愛しのカノジョちゃんのだよ」
 司がニヤニヤ笑って、ケータイ寄越せ、とぐいぐい手を伸ばしてくる。
 冷ややかな眼差しを向け、樹はその手を叩き払う。
「あるわけないだろうがっ」
「盗撮とかしてねーの?」
 不穏な言葉に、一層冷ややに司を一瞥する。
「ストーカーのくせに」
 ぼそり司が言う。
「ああ?」
「だってさー、中学生のカノジョに一目ぼれして、何股もかけてた女全部切って、高校に入学してきたカノジョの担任になるよう裏工作してさ」
 ストーカーじゃん。
 と、司はにっこり笑った。
「………司」
 凍てついた笑みを樹も返す。
「お前の愛しの彼女に今から電話して、先週お前がキャバ嬢と同伴して十万も散財したことチクってやろーか?」
「………ごめんなさい、樹くん」
 すぐに白旗を揚げ、テーブルに突っ伏す司。
 バーカ、と樹はそっけなく返す。テーブルの上に箸を置き、かわりに煙草をポケットに仕舞う。
「とりあえず、次の店行くか」
 お茶を飲み干し、樹は司の返事を待たずに会計を済ませる。
 次は若い女の子のいる店がいいー、そう司がついてくる。
 うるさい、いいじゃねーかよ〜、と言い合いながら店を出た。
 しばらく歩いていると不意に司が立ち止まった。
「あれ? あの制服ってお前の学校のじゃない」
 司の視線の先を見る。
 二人の女子高生がいた。それぞれ違う高校の制服を着ているが、一方が樹の勤める高校のものに間違いない。
 そしてその女生徒の顔を認めて、樹は驚いた。
「……広瀬?」
 綾もまた驚いてこちらを見、目が合った。
「もしかして生徒?」と司が訊いて来る。
 離れた距離だが夜の煌々としたネオンに表情ははっきりと照らし出されている。
 綾はほんの一瞬安堵するような、泣きそうな表情をした。
 それを隠すように視線をそらす綾。
「司、お前先に行ってろ」
「えー。俺にも紹介してよ」
「バカか。いいから、あとでな」
 真剣な声だったからだろうか。司はわずかに口を尖らせるもあっさり頷く。
「ちぇっ。じゃあねー、生徒ちゃん」
 軽く手を振り、司は先を行った。
 樹は綾の元へ駆け寄る。
「なにしてるんだ、こんな時間に」
 教師然とした口調で声をかけた。
 もう夜も十時を回っている。樹は綾と、そして他校の制服を来た女生徒に視線を流す。
 潤んだ目。赤く泣き腫らしたその女生徒を、どこかで見たことがあるような気がした。
「すみません……」
 綾が伏せ目がちに呟く。
「予備校の帰りなんです。友達と……お茶を飲んでいたら遅くなって。もう帰ります」
 予備校。確かに綾が通っていることは知っていた。
「送っていくから、駐車場までついてきなさい」
 酒を飲む前で良かったと樹はホッとした。
「……電車で帰ります」
「いいから」
 金曜の夜だ。酒に呑まれた輩は多い。絡まれたりしたら、それこそ大変だ。
 樹は有無を言わさない口調と眼差しを向けた。
 隣にいる友人のことが気になるのか、綾は気遣わしげに女生徒を見つめている。
「私の担任の先生なの。送ってもらおう。ね?」
「でも……」
「大丈夫だよ。……それに心配してるよ、きっと」
 優しい綾の声と、真っ直ぐな瞳に、しばらくして女生徒は小さく頷いた。
 それから三人で駐車場へと向かったのだった。











 車内は静かだった。
 綾と一緒にいる女生徒が―――、伊織の双子の妹だということを聞き樹は少しだけ驚いて納得した。
 見たことがあるような気がしたのは伊織と面差しが似ているせいだろう。
 言われて見ると二卵性だからそっくりではないが、兄妹はやはり似ている。
 そして伊織の妹だと紹介された瞬間、夏希の表情がわずかに歪んだのを樹は見ていた。
 二人の少女はそれぞれ窓の外をうつろに眺めている。
 結局茅野家につくまで無言のままだった。
 綾から「少し待っていてもらえますか」と頼まれ、車内から二人の少女が車を降りていく。家の近くまで綾が送り、立ち話をしだす。
 少女たちは深刻そうで、とりわけ綾はひどく心配気に夏希を気にかけているようだった。
 樹は煙草を吸うため、車を降り車体に寄りかかった。
 ひんやりとした初冬の空気。煙草をだしたところで、夏希が家へと走り去っていった。
 煙草に火をつけることなく、煙草を仕舞った。
 綾は夏希が帰り着くのを見届けるようにぽつんと佇んでいる。
 その姿がひどく切なげで、まるで泣いているようだった。
 いつまででもその場にいそうな綾に、樹はそっと呼びかけた。
「広瀬」
 ゆっくりと綾が振り向く。
 今にも泣きそうに表情が歪んでいるのを―――綾は知っているのだろうか、と樹は思った。
「風邪ひくぞ」
「……はい」
 短く頷く綾に、樹は助手席のドアを開ける。うながされるままに綾は乗り込んだ。
 樹はちらり視線を走らせ、すぐそばの自販機に駆け寄る。
 ミルクティーとコーヒーを買うと、車に戻った。
「ほら」
 顔を上げた綾の手の中に小さいペットボトルのホットミルクティーを落とす。
「……ありがとうございます」
 少し驚いたように、少しホッとしたように頬を緩める綾。
「いえいえ」
 小さく笑い返すが、綾はちらり視線を逸らした。
 その表情は再び固くなり、ミルクティーをゆっくり飲みながら、掠れた吐息を幾度となく車内に響かせる。
 なにがあった、と訊くことは簡単だ。
 教師という立場で、生徒を心配することは問題ないのだから。
 だが今綾が表情を曇らせているのはプライベート以外にないだろう。
 無闇に踏み込むことがはばかられた。 
「――――先生」
 しばらくして綾がこちらを見た。
 先生、と再度小さく呼ばれる。
「なんだ?」
「先生」
「なんだよ」
 樹は苦笑し、ちらり視線を向けた。
「先生は……"恋"したことありますよね……」
「恋?」
 思いがけない問いに、おうむ返しに訊く。
「人を好きになるって―――どういうことなんですか」
 樹はわずか眉を寄せる。
 なぜそれを悩む、と一瞬言ってしまいそうになった。
 お前気づいてないのか?、と言いたくなる。
 だがそれを言うことはできない。
 しばらく逡巡し「それは……」と口を開いた。
「私……」
 樹の言葉を遮るように、綾が言葉を重ねる。
「よく……わからなくなりました」
 驚いて樹は綾を見る。
 視線が合いかける寸前で、逸らされた。
 樹は正面を向く。ハンドルを握る手に無意識に力がこめられた。
(……なにがわからないって言うんだよ)
 そう問いかけたい。
 ほのかな苛立ちが樹の中に芽生える。
 だがそれをいうことはできない。
「変なこと言って、すみません」
 長い沈黙のあと、平静な声で綾が謝った。
 樹は綾を見る。
 綾は樹を見ない。
 そして一度も視線を合わせることはなかった。
「送ってもらって……ありがとうございました」
 律儀に頭をさげながらも、綾はその視線を樹に向けることはなかった。
「じゃあな」
 はい、と綾が家へと入っていく。
 それを見送って、樹は舌打ちした。
「なんなんだよ、一体」
 なにか変化が綾の中で起こっているようだった。
 それがあの伊織の妹が起因しているような気がする。
 そして思いだすのは文化祭の日の伊織。
「お前らの色恋沙汰に巻き込むなよ……」
 なんとなく察したアノ兄妹の微妙な関係。
 樹は忌々しげに呟き、車を発進させたのだった。






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2009,5,15