『Limits-2』
校内は喧騒につつまれていた。
全校生徒の人数よりもはるかに多い人にあふれている今日は11月3日。
文化祭が行われていた。
朝から何かと忙しく立ち回っていた樹は、昼を過ぎてようやく暇を見つけ生徒会室で休憩をとっていた。
誰もいない生徒会室。ベランダに出て一服する。
校内は全禁煙だが、今日は父兄も来る文化祭だ、一本くらい校内で吸ったっていいだろう。
そう勝手な解釈で遠慮なく煙草をふかす。
にぎやかな空気につつまれた校舎と、反するように静けさにつつまれた生徒会室。
カチャリ、ドアの開く音がして樹は眉を寄せた。
(誰だ、邪魔者は)
一般生徒よりは生徒会役員のほうがよく知っているから、さほど嫌ではないが、それでも今は一人ゆっくりしていたかった。
足音がベランダのほうへ近づいてくる。
「先生」
響いた声に、樹はほっと安堵した。
「よう、広瀬」
ニヤッと、煙草を手にしたまま顔を上げる。
「よう、じゃありません。こんなとこでタバコ吸って。ほかの先生に見られたら怒られちゃいますよ」
たしなめるように言う綾。
生徒会役員をこなす綾は誰もが認める優等生、才女だった。
「今日は文化祭で一般客も来てるし、大丈夫だよ」
平気平気、と笑うと、綾は呆れた表情を隠すことなくため息をついた。
それから、わずか逡巡している様子だったが樹の隣に屈みこんだ。
「見て回らないんですか?」
「もう充分。俺が見て回ると外野がうるさいんだよね」
実際、校内を歩いていると、女生徒たちに一緒に見よう見ようとうるさく囲まれてしまうのだ。
一層呆れ顔になる綾。
「そうですね。先生モテモテですもんね」
「まぁ、そうだな」
当然だから、当たり前と頷く。
綾はため息をついて立ち上がるとベランダの手すりから校庭を見下ろしている。
すらりとした背。たしか身長は160に届くか届かないかくらいだったはずだ。
二年前よりも伸びた髪は、相変わらず艶やかで風に揺れている。
校庭に立ち並ぶ出店を眺める様子は、成長したと言ってもやはりどこか幼さもある。
樹は綾の後姿をじっと眺め、内心ため息をつく。
二人きりでいると、ついちょっかいを出しそうになってしまうのは成人男性ならしょうがないことだろう。
「なぁ、木沢のクラスの出店行ったか?」
それを紛らわすように適当に声をかけた。
「ヒカルちゃんのクラスは……クレープ屋でしたっけ。まだです」
「イチゴチョコバナナが美味しそうだった」
午前中通りかかったときにメニューだけはチェックしていた。
酒好きだが、甘いのも好きだったりするのだ。
「そうなんですか」
「美味しそうだったなー」
興味なさ気な綾に、わざとらしくしみじみと言う。
「………買って来いってことですか?」
綾はため息をこぼし、伺うように小首を傾げた。
「お前のぶんも買ってきていいから」
財布から千円札を取り出し、渡す。
またまたため息をつき綾はベランダから室内へと入っていく。
「いってらっしゃい」
その背に声をかけるも、返事はなかった。
だがすぐに買ってくるだろうことはわかっている。
文化祭も悪くないな、と樹は携帯灰皿で煙草を消しながら思った。
立ち上がって校庭を見る。
綾の姿を見ていようと、校庭に出てくるのを見ていたがなかなか姿が現れなかった。
「この俺の頼みを差し置いて、寄り道か?」
手すりに頬杖つき、樹は不満を隠さずに呟く。
それから綾が校庭に出てきたのは生徒会室を出て30分ほどたってからだった。
急いだ様子でヒカルのクラスの出店へと走っている綾。
目当てのクレープを買い、両手に抱えてまた走って校舎に戻っている姿を眺め、樹は笑いをこぼす。
いつも落ち着いている綾が慌てている姿は可愛らしい。
本人に言ったら恐らく顔を赤らめ不満そうにするだろうが。
それもまた面白いかもなぁ、などとよからぬイタズラを考える樹。
とりあえず、と樹は室内の死角になるパーテーション裏の椅子に隠れるように腰掛けた。
(小学生か、俺は)
司がこの様子を見たら腹を抱えて笑うだろうことは間違いない。
そう思うも、綾の驚く顔を見て見たかった。
しばらくして勢い良くドアが開いて綾が入ってきた。
息を切らした綾はベランダへ走っていく。
そこに樹の姿がないことを確認し、落胆した綾が室内に戻りため息をついた。
「どうしようかな」
うなだれる綾はまったく樹の気配に気づいてない。
背後に立ち、
「遅い」
声をかけると、綾は驚きに身体を震わせてクレープを手から離しかけた。
「あ、おい。ばか」
樹は焦って、背後から綾の手ごとクレープとともにつかむ。
二人分の力が加わって、やわらかいクレープはぐにゃりと歪んだ。
「す……すみませんっ」
上擦った綾の声。
偶然とはいえ、綾の手を握り締めている今の状況に、綾は身体を硬直させた。
だがすぐに離れようと身動きしかける。
「ちょっと待て」と樹は制した。
せっかくのこの状況をすぐさま解消する必要もない。
「落とすなよ。どっちがイチゴバナナチョコだ?」
「えっと、右です」
戸惑うように綾が答え、樹は左手のほうだけ手を離した。右手は綾の手に重なったまま。樹はクレープが食べやすいようにほんの少し移動した。
ほんの少し離れたことにわずかに安心した色を浮かべた綾に、内心笑いが漏れる。
そして掴んだままの右手を持ち上げた。
綾がその行動を目で追ってくる。それを見ながら、ぱくり、とクレープにかぶりついた。
瞬間、綾が再度硬直する。
「んー……まぁこんなもんかな」
素人が作るクレープ。不味くはないが、上手いというにはもう一歩なクレープを一口、二口と食べ進めていった。
「あの、先生……」
呆然としていた綾がようやく声を絞り出した。
「なんだ?」
「二人で持ったままだと食べにくいと思いますけど」
至極真っ当な意見だが、無視に決定。
「そうか?」
「そうです」
にっこり、離れてください、と視線で言う綾。
「もう少しで食べ終わるけど」
にっこり、さらに綾の手をつかむ手に力を加える樹。
「明らかに食べにくそうですけど」
綾は平静を装っているが、その目が動揺しているのを樹は見抜いていた。「平気」
薄く笑い、最後まで食べつくす。そしてようやく綾の手を開放した。
綾は右手を握り締めながら白い目を向けてくる。
「先生。いまのセクハラって言うんですよ」
「失礼だな。お前が落としそうになったから、一緒に持ってやったんだろう」
セクハラとは失礼だなー、と樹は笑った。
綾は大げさにため息をつく。
仕方ない人、といった感じに自分を見てくる綾の眼差し。
もう少しからかいたいな、と思うもすでに時間は文化祭終了間際だ。
(タイムオーバー)
心の中で呟き、
「教室の様子見てくるかな。そろそろ後片付けも始まるし、食べたらお前も来いよ」
と、綾を残して生徒会室をあとにした。
教室に向かっていると、良く見知った生徒が珍しくぼんやりと窓の傍に立って外を眺めている。
「よお」
通りすがりに声をかけると、その生徒―――伊織はハッとしたように表情を柔らかなものに変える。
ついさっきまでの物思いな様子はまったくない。
一瞬で身を取り繕う伊織は樹の目から見て、ひどく大人びている。
「先生」
にこやかに返事をする伊織。
誰にでも当たり障りがなく、いわゆる優しいと形容されるのが良く似合う生徒だ。
それが処世術と呼べるものなのか、果たして自己を誤魔化すのに長けているだけなのか。
なんにせよ樹は伊織に一目置いていた。
できれば綾のそばにあまりいてほしくないくらいに。
例えそれが友情でしかないにしろ。
「もう文化祭も終わりますね」
なんとなく足を止め、樹は頷いた。
「ああ。準備期間は長いのに、当日はあっという間だな」
「楽しかったですか?」
どちらかというと、教師が生徒にする質問を投げかけられる。
樹は小さく笑い、「まぁな」と答えた。
お前は?、と質問を返そうとし、だが伊織が再び口を開く。
「広瀬って可愛いですよね」
突然その名が出てきて、一瞬樹は眉を寄せた。
すぐに笑いを作り、
「なんだお前、広瀬狙いだったのか?」
からかうように言った。
伊織は黙って笑い、窓の外に視線を流す。
肯定とも取れる行動だが、伊織が綾に対して友情以上のものを持っていないと樹は思っていた。
「珍しいな、茅野がそんなことを言うなんて。お前のファンが聞いたら悲鳴あげるぞ」
「悲鳴って……」
伊織は苦笑いを浮かべた。そしてそれを微笑に変えて、樹を見る。
「先生、質問があるんですが、いいですか?」
「なんだ?」
「先生は好きな人を幸せにすることが出来ますか?」
予想外の質問。だがあっさりと返す。
「出来るだろ」
伊織は朗らかに笑う。
「先生なら、出来そうですね」
いいな、広瀬は。
そう小さく呟いた伊織に、樹は微かに片眉を上げる。
(ったく、こいつは……どんだけ察しよすぎるんだ)
内心呆れたため息を吐く。
「まぁ、俺だからな。お前もあと数年すれば出来るんじゃないの?」
「だったらいいですね」
伊織が笑って言ったところで、文化祭終了を伝えるアナウンスが流れ出した。
「先生、引きとめてすみませんでした」
「別に。いいさ。お前の落ち込んでいるなんて珍しい姿が見れたしな」
なんとなく言った樹の言葉に、伊織はほんのわずか視線を揺らし失笑した。
「ま、あんま悩みすぎんなよ。お前今でさえ年寄りくさいんだから」
伊織の悩みを知る由も、知りたいとも思わない。
だがきっと誰にも何も話さないのだろう伊織の性格を考えると、些細だが励ましてやりたくもなる。
ポンと、伊織の頭を軽く叩くと、じゃあな、とその場を離れていった。
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2009,5,2
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