『第7話』
夕食を終え、家でゆっくり休んでいると、扉がノックされた。
ヴィクトールは返事をしながら近づいていく。
開けると、レアーナが微笑を浮かべ立っていた。
「ごめんなさい、お休みしている時に」
レアーナ一人。珍しい訪問者にヴィクトールも笑顔を返す。
「いえいえ。どうかした?」
レアーナはわずかに表情を曇らせ、頬に手を当てる。
「ちょっと薔薇園にでも散歩に行かない?」
きょとんとするヴィクトール。
「実は、相談があって……」
見たことないようなしおらしいレアーナに、ヴィクトールは目をしばたたかせながらも優しい眼差しを向け頷く。
レアーナはほっとしたように、
「それじゃあ、先に行ってるから。あとで」
言い残してヴィクトールの部屋を後にした。
硬い音を立てながら、レアーナは廊下を歩く。
母屋の裏口へと向かい、そこから薔薇園へと行く。
外はすでに暗くて手に持つランプと月明かりでほんのりと明るい。
レアーナは月夜に照らされた薔薇を眺め、ベンチに腰を下ろした。
そして大きなため息。
ため息の原因は、ピクニックから帰ってきてからのサラのことだった。
マリスを連れ出して二人きりにさせたまではよかった。
てっきり楽しくやってるものと思っていたら、どうもその後、サラの様子がおかしい気がしたのだ。
笑っている。
だけど、虚ろ。
そんな印象を受け、だがサラと二人きりになることがなかったため、その原因を知るのが屋敷へ戻ってからとなった。
屋敷へと、各々の部屋へと戻り、レアーナはサラの部屋へ行った。
と、レアーナの顔を見たとたん、サラはレアーナに抱きつき、そして泣き崩れたのだった。
「なに、どうしたの?」
声を上げて泣き出したサラに、レアーナは優しく声をかける。
だがその問いには答えずサラはなき続ける。
仕方なく、レアーナはそっとサラの髪をなでながら、落ち着くのを待った。
それから少しして泣きながらサラが震える声で言った。
「私なんて……入る隙間ないのよ」
怪訝そうにレアーナは自分にしがみつくサラを見つめる。
「なに、それ?」
サラは、無理なのだ、と呟くばかり。
レアーナはサラの肩をつかむと、正面を向かせた。
真っ赤に、潤んだ目でサラはレアーナを見る。
「なにがあったのか言ってみなさい」
真剣な、自分を心配していることが伺える暖かな声に、サラはようやく小さく声を出した。
「……ヴィックは…マリスのこと…大好きなのよ……。一番幸せにして…あげたい…って……」
言いながら、また大粒の涙が頬をつたう。
レアーナはサラをソファーに座らせて、自分も横に腰を下ろす。
気を落ち着かせるようにサラの手を優しく握り締めた。
そしてサラは昼間の出来事を、ぽつりぽつりと話し出した。
最初は楽しかったのだ。
だが、マリスの姉の話になり、いかにヴィクトールがマリスのことを心配し、そして考えているかがわかった。
苦しげにサラはそう告げた。
レアーナはその一部始終を複雑な面持ちで聞いていた。
ヴィクトールと手をつないだのだ、と涙を浮かべ辛そうな表情のまま、わずかに目を細めて言ったサラ。
だけど、だめなのだ。
そう言うサラ。
レアーナの眼差しがきつく宙を睨む。
そしてまた泣き出すサラ。
レアーナはあやすようにサラの頭を優しくなで続け、しばらくの間泣くままにしておいた。
サラが泣き疲れて、眠りにつくまで…。
「レアーナ」
考え事をしていたから、自分にかけられたその声に気づくのにしばらくかかった。
「…レアーナ?」
不思議そうなその声に、レアーナはハッとして顔を上げた。
悩みの元凶であるヴィクトールが、目の前にいた。
固く強ばっていた頬を一気に緩め笑顔を向ける。
「ごめんなさいね。こんな遅くに呼び出してしまって」
「いえいえ。僕でお役に立てるなら、大歓迎です」
にこにこと人当たりのよい笑顔を浮かべるヴィクトール。
(……この笑顔がクセモノなのよねぇ……)
内心そんなことを思いながら、レアーナは笑みを湛えたままヴィクトールをじっと見つめた。
そして、
「ねぇヴィクトールはマリスのこと好き?」
と、突然切り出した。
ヴィクトールは一瞬その内容を把握できず、目を点にしたがすぐにいつもの笑みを浮かべる。
「ああ、好きだよ」
「それは恋愛対象としてなのかしら?」
あっさりと言ったヴィクトールに、間髪いれずに切り返すレアーナ。
微笑んだまま、だが突き刺すようなその声にヴィクトールは戸惑う。
すこしの沈黙。
そしてヴィクトールが口を開こうとした。
だがそれをさえぎるようにして、レアーナが笑みを含んで言った。
「ごめんなさいね、突然変なことを訊いて…」
ベンチから腰を上げ、ヴィクトールに背を向けて薔薇の側へ屈みこむ。
薄闇であざやかな赤い色は見えない。
だが芳醇な鼻孔をくすぐる香りに目を細め、そっとその花びらに触れる。
「実はね……。私にも親の決めた婚約者がいるの」
わずかに目を眇めるヴィクトール。
初めて聞く話に驚くが、よくよく考えればレアーナは公爵令嬢なのだからありえない話ではないと気づいた。
「そうなんだ。どんな人なんだい?」
厚く滑らかな花びらを撫で、
「さぁ。まだ会ったことないのよ」
言いながら、ヴィクトールを見る。
レアーナはゆっくりと薔薇を眺めながら数歩歩く。
「それで、ヴィックに訊いてみたいと思ったの」
「なにを?」
僕で解ることかな、と呟くヴィクトールに、レアーナはそんなに難しいことじゃないわ、と笑う。
「私はね、恋愛をしたいの。大恋愛じゃなくってもいいわ。ただ本当に好きになった男性と結婚したいと思うの」
まっすぐな眼差しで、はっきりと言うレアーナはとても高潔で綺麗に見える。
ヴィクトールは優しく微笑む。
「そうだろうね。誰だって好きな人と一緒になるのが幸せだと思うよ」
本当にそう思っているだろう。
だが…。
レアーナは同意するように頷き返しながら、心の中では冷静にヴィクトールの一挙一動を見つめる。
「でも私には私の意志でなく婚約者がいる。そしてヴィックにもマリスが…」
生ぬるい夜風が頬を撫でていく。
レアーナは再びベンチへと腰を下ろし、ヴィクトールを見上げた。
「だからヴィックにも意見を聞きたいのよ。親の決めた婚約者のことを、本当に好きに、きちんと恋愛対象として好きになれるのか」
その口調は穏やかなもの。
だが眼差しはどこか探るようなもの。
しかしヴィクトールはレアーナの真意を知る由もなく、素直にその問いについて考える。
「……たしかに自分の意思でなく決められてしまった場合は恋愛感情を最初からもてるとも思わないけど。だけども、時間はかかっても相手のことを理解していけば、いつかは愛情も沸くと思うよ、僕は」
「……時間ね。まあ、そうね。………じゃあヴィックは今、もうマリスにたいして特別な感情を抱いているのかしら?」
小首を傾げるレアーナ。
「……僕の場合、マリスとは幼なじみでよく知っていたし…」
だから、と微笑む。
レアーナは「だから、好き?」と笑みをこぼす。
「ねぇ、ヴィック。それって家族愛みたいなものではないの?」
目を細め、ヴィクトールを見つめる。
ヴィクトールはわずかに目を伏せる。
数秒して、
「そうかもしれないね」
穏やかな眼差しを向け、頷いた。
「でも、それでも僕は……」
言いかけたヴィクトールをレアーナはため息でさえぎる。
レアーナは頬に手をあて、残念そうに眉を寄せる。
「ヴィックとマリスってお似合いだけど、私、もしかしたらサラとヴィックが将来的に婚約もありえるのではないかしら、と思ったりもしたのよ」
ヴィクトールはきょとんとする。
「ヴァスおじさまがあなたを引き取ったのも、ゆくゆくは跡継ぎとしててかもとか」
軽い口調で言いながら、様子を伺う。
目をしばたたかせるヴィクトール。
ややして、ヴィクトールがぽつり呟いた。
「僕とサラ?」
不思議そうなその声に、そう、と相槌をうつ。
そして次の瞬間、ヴィクトールが吹き出した。
レアーナは眉をひそめる。
「僕とサラ? そんなことあり得ないよ」
笑いを沈めながら、ヴィクトールが言った。
いままで見たことのない奇妙な微笑が浮かんでいる。
その笑みは、自嘲のようにも見えた。
笑み。
そして言葉。
『あり得ない』と、ヴィクトールは言った。
あり得ない?
それは想像する余地もないということ。
なぜそんなにもあっさりと当たり前のようにそんなことを言えるのか。
レアーナは眉を寄せずにはいられない。
恋愛対象でないのなら、考えたこともなかった、とでも言えばいいだけのこと。
あり得ない、という言葉に、レアーナは不安を感じた。
だがすぐに笑みを作り、その言葉に合わせるように言葉をつむぐ。
「そうね。私もすぐにそう思ったわ。だってヴィックには素敵なマリスがいるし。それにサラにも……婚約者がいるし」
それは嘘。
だが瞬間、あきらかにヴィクトールの表情に動揺が走った。
その目に驚きと、そして苦しげな光が瞬く。
レアーナはそれを冷静な眼差しで見る。
「といってもサラの場合、相手の方が駆け落ちされたとかで、破談になったんだそうだけど」
それも嘘。
安堵するように静かな表情へと戻るヴィクトール。
レアーナはゆっくりと立ち上がって、微笑みかけた。
「とりあえず、相手のことを理解するのが大切なのよね?」
ヴィクトールはワンテンポ遅れて、ハッとしたように慌てて笑む。
「そうだね」
「でももし本当に好きな人が出来てしまったら、どうすればいいのかしら?」
「……それは正直に両親に事情を話すのが一番じゃないのかな」
「じゃあ…たとえばマリスに他に好きな人がいたとしたら? ヴィックはどうするの?」
ヴィクトールは思いもかけないことを言われたようにレアーナを見つめ、そして優しく微笑んだ。
「それはもちろん僕は身を引くよ。マリスには幸せになって欲しいからね」
愛情を感じさせる微笑。
そう、と頷きながら、それはやはり家族愛だろう、と心の中で呟く。
「わかったわ。私のまだ見ぬ婚約者もヴィックぐらい寛容だとありがたいのだけれどね」
屈託なく笑う。
「相談にのってくれてありがとう、ヴィック」
「役に立ってないみたいだけど」
苦笑するヴィクトールに「そんなことないわ。とても参考になったし」艶やかな笑顔を返す。
「それじゃあ、ヴィック。ほんとうにありがとう」
「いえいえ」
そして「おやすみ」と言って、二人は別れた。
ヴィクトールに背を向けた瞬間レアーナから笑みは消える。
そして、考える。
親友の恋の行く末を。
サラに好意を寄せているのに、それを隠すヴィクトールのことを。
ただなぜか胸を締め付ける不安。
それがなにかわからないまま、レアーナは部屋へと戻った。
そして、一方、薔薇園に残ったヴィクトールは、薔薇の前に佇んでいた。
目の前には黄色の薔薇。
一週間ほど前から少しづつ、黄色の薔薇は少しづつ蕾を開かせていっていた。
そっと手を伸ばし、愛しげに見つめる。
「―――――」
その唇が音なく動く。
声に出さず呟かれたのは、愛しきものの名。
月の光に同化するように輝く黄色の薔薇。
「この薔薇は……ぜんぶ君のためのものだよ」
誰にも告げることのない想い。
秘密。
この薔薇は彼女のためのもの。
だが自分には薔薇しかあげれるものはない。
自分が幸せにする相手は、別の少女なのだから。
ヴィクトールは苦しげに吐息をつき、目を伏せた。
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