『第3話』






 太陽はすでに空高くにあった。
 人々は活発に活動をはじめている日中、サラの部屋だけが夜のようだった。
 いつもはレースのカーテンが風に揺れているのに、厚く重い二重のカーテンが日の光を遮断し部屋を暗くしていた。
 サラはベッドに深く沈むようにして寝ている。
 寝ていると言っても眠っているわけではなくて目を閉じているだけ。
 きのう、ヴィクトールに婚約者のことを聞いてから、身体中から全ての力が抜けてしまったかのように何もする気力がなくなっていた。
 食事は喉を通らないし、胸が苦しくてたまらない。夜はまったく眠れなかった。
 今朝は「きのう遊び疲れたから」と言って朝食も取らず、部屋にこもったままなのだ。
 全てをきのうより前に戻したかった。ヴィクトールとまだ見ぬ婚約者のことなど考えたくない。
 だが考えずにはいられず、もう何十回となくついたため息が漏れ、寝返りを打つ。
 その時、ドアが小さくノックされた。
「サラ?」
と、遠慮がちなヴィクトールの声。
 サラはびくっとして跳ね起きるとガウンを肩から羽織った。
「…なに?」
「入ってもいい?」
「―――――うん」
 間を置いて返事をする間に、手早く髪を整える。
 ドアが開き食事の載ったトレイを片手にヴィクトールが入ってきた。サイドテーブルにトレイを起き、ベッドのそばに椅子を持ってきて腰掛ける。
「具合はどう?」
 心配げなヴィクトールに、サラはわずかに視線をそらす。
「うん……大丈夫。……ほんとにちょっと疲れてるだけだから」
「そう?」
「……うん」
 心配そうなヴィクトールの顔を見るのはいやだから、サラは無理やり笑顔を作って頷いた。
 ヴィクトールはほっとしたように微笑を浮かべる。
「じゃあ、お昼ごはん、食べれるかな? サラの大好きなメニューを作ってきてもらったんだ」
 言われて見ると、キッシュやレーズンのスコーン、生ハムのサラダにグレープフルーツのフレッシュジュースやイチゴなどがある。
 いつもだったら喜んで食べるところだが、やはり食べる気が起きなかった。
「……いまお腹すいていないから、あとで食べるね」
 そう言うとヴィクトールはじっとサラを見て、首を振る。
「ダメだよ。きのうの夕食もろくに食べてなかったし、朝食も食べてないだろう? 食べないと疲れも取れないよ」
「……うん……でも」
 ため息をつくサラ。
「せっかく僕がサラのために用意したのに、食べてくれないのかい?」
 さびしそうに言うヴィクトールにサラはまたため息をつく。
「わかったわ、食べるから。……でも少しね」
 ヴィクトールは一転してにっこりと満足そうに笑った。
「さ、どれから食べる?」
「うーん……イチゴ」
「デザートから?」
「だってイチゴ食べたいんだもん」
 苦笑するヴィクトールに、口をすぼめて呟くサラ。
 はいはいお姫様、そう言いながらヴィクトールはフォークにイチゴを突き刺すとサラの口元に持っていった。
 きょとんとして、一瞬後顔を真っ赤に染めるサラ。
「いいよ、自分で食べれるからっ」
「いいからいいから」
 にこにこと邪気のない笑顔で「はい、あーん」とあやすように声をかける。
 嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な心境で、仕方なしにサラは食べさせてもらう。
 甘酸っぱいイチゴが口の中に広がって、その美味しさに思わず頬が緩む。
 そんなサラをとても優しい眼差しで見つめるヴィクトール。
「さ、次はどれにする? キッシュなんてどう?」
「うん……じゃあ」
 ヴィクトールは一口大にキッシュを切って、また食べさせてあげる。
「美味しい?」
「うん…」
(なんだか子供になったみたい……)
 ふと自分の状況にそう思う。
 そのあともかいがいしく食べさせてくれるヴィクトールにサラの表情も次第に明るくなってきていたずっと笑顔のヴィクトールを見ていると、不安などがわずかだが薄らいでいくのを感じる。
 胸の苦しさはまだあるが、すこしづつ冷静になってくると、例の婚約者のことが気になってきた。
「……ねえ、ヴィック」
「なんだい?」
「…あの………婚約者の人って……どんな女性なの………?」
 おずおずと尋ねる。
「えーっとね名前はマリスって言うんだ。僕の父が知人と共同経営で病院を開こうとしていたのは知っているよね?」
「うん」
「その共同経営のグリードさんの娘さんなんだ。僕が5歳ぐらいからずっと兄妹のように遊んでたんだ」
 昔を思い出すようにヴィクトールは目を細めた。
「ほんとに妹みたいに思っていたからね……。婚約って聞いたときはほんとうにびっくりしたよ」
 思わず身を乗り出すサラ。
「え? もしかして………婚約って親が決めたの?」
「うん」
 あっさり頷くヴィクトール。
「婚約したのって僕が10歳のときだしね。マリスなんてまだ8つだったし」
 苦笑するヴィクトールに、サラは頬が緩みそうになるのを必死で我慢する。恋人同士というわけではなく、親の決めた婚約となればその意味は大きく違ってくる。
 胸に刺さっていた大きな刺が小さくなっていくのを感じた。
(……ヴィクトールがプロポーズしたわけじゃないんだ)
 そう考えただけで心が軽くなる。
「でも……」
 ヴィクトールが小さく呟いたがサラはそれに気づかなかった。
 ヴィクトールは小さな笑みを浮かべると「とてもやさしくていい娘だよ」と言った。
 サラは「そう」と作り物ではない笑顔を浮かべて頷く。
 レアーナだったら『親の決めた婚約者なんて関係ないわ』とでも言うのではないだろうか。
 ふと思って思わず吹き出すと、ヴィクトールがきょとんとした。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない。それより、ヴィック」
 真剣な眼差しをむける。
「なんだい?」
 つられてヴィクトールも真剣に答える。
 と、表情を崩してサラが言った。
「イチゴ食べたい!」
 ヴィクトールは一瞬呆けて、そして笑い出した。
 はいはい、と言いながらイチゴをとる。
「「あーん」」
 と二人揃って言って、笑いあう。
 親の決めた婚約者ぐらいで、この恋をあきらめるのは早すぎる――――。
 サラは決意を新たにしながらイチゴを頬張っていった。



















 あっという間に日はたち、ヴィクトールの婚約者がやってくる日が訪れた。
 マリスという婚約者のためにサラは薔薇園で薔薇を摘んでいた。
 大好きな薔薇。
 たとえ恋敵でも、もてなしはもてなしとして、一本一本摘んでいく。
 だが時折手は止まり、ため息が漏れる。
 気にせずにいようとしても実際婚約者が現れるとなるとだんだん不安になってくる。
(……早くレアーナから返事こないかな)
 ヴィクトールの婚約者のことでレアーナにはすでに手紙を書いていた。
 レアーナならどんなアドバイスをくれるのだろうと考える。
(たぶん……体当たりしなさい、とか言いそう)
 笑みがもれる。
 籠の中は薔薇でいっぱいになり、サラはぼんやりと空を見上げた。抜けるような青空。
 アーチ状の薔薇のとおりをくぐり、薔薇園の一角にある広場のベンチに腰掛ける。なにも考えず、ただ薔薇に囲まれてすごすひと時がサラは好きだった。
 ふと人影が見えた。
 足音はどんどんサラのいるところとは違う場所へ消えていった。庭師だろうか、と思いながらまたぼうっとする。
 それから数分して、また物音がしたかと思ったら突然声がかかった。
「サラ!」
 驚いて身をすくませながら顔を上げるサラ。
 満面の笑みを浮かべたヴィクトールが立っている。
「奇遇だね」
 言いながらヴィクトールは手を背に隠したままサラの前にくる。
「もうっ驚かせないでよ、ヴィック」
「驚かすつもりじゃなかったんだよ。だって僕は薔薇を摘みにきた帰りにサラを見かけて声かけただけだし」
「薔薇を摘みに?」
 不思議そうにサラは尋ねる。
 それは婚約者のためなのだろうか。
 胸が痛む。
 頷くように微笑むヴィクトールに、サラはわずかに顔を伏せた。
 と、ヴィクトールが手を差し出した。
 サラの目に、ヴィクトールの持った一輪の薔薇が映る。
「………黄色の…薔薇?」
 赤とピンクしかないこの薔薇園では見ない黄色。
 怪訝そうにサラは顔をあげる。
「サラにあげるよ」
「え……?」
 戸惑うサラを優しい眼差しで見つめるヴィクトール。
「この薔薇は僕がこの屋敷にきてしばらくして育て始めたんだ。まぁそう簡単にはいかなくって、ようやく数日前つぼみがついてて、今日一輪だけ咲いてたんだ」
 初めて聞く話に驚きながら、サラは上ずった声で言う。
「…それなら私がもらったら…」
 ヴィクトールは目を細め、サラを見つめる。
「本当の家族のように仲良くなれるように、ってサラにあげようと思って育ててたんだ」
 太陽の光のように眩しい笑顔。
「サラのために咲いた薔薇だよ」
 黄色い薔薇がサラに向けられる。
 サラは信じられない思いで、薔薇を受け取った。
 ヴィクトールの思いが家族愛だけであったとしても、言葉にできないぐらい嬉しかった。
 目頭が熱くなり、必死に涙を我慢しながら微笑む。
「ありがとう……ヴィクトール」
 いいえ、とヴィクトールも微笑む。
「それじゃあ、これからマリスを迎えにいかなきゃいけないから、先に行くね」
「うん」
「帰ってきたら3人でお茶でも飲もうね」
「うん」
 頷くことしかできないが、顔には笑みが浮かんでいる。
「じゃあ、あとで」
 言ってヴィクトールは薔薇園を出て行った。
 その後姿を見送って、手の中にある黄色の薔薇に視線を落とす。
 厚く色鮮やかな花びら。
 きれいに花開いた黄色の薔薇。
 自分のためだけに咲いた薔薇。
 サラはぎゅっと唇をかみ締めて、薔薇を眺め続けた。
 たった一輪の薔薇。
 だがこれだけで、これからなにがあろうとも乗り越えていけるような気がした。
 涙が一筋、頬をこぼれた。











 薔薇の入った籠を片手に下げ、黄色い薔薇を大切そうに握って、サラは廊下を歩いていた。
 部屋に帰る途中で数種のフルーツを持った侍女と出会う。
 母親付の侍女であるメイにサラは声をかけた。
「お母様の具合はどう?」
 メイはにっこりと笑顔を浮かべ、「今日はだいぶ気分もお宜しいようですよ」と言った。
「そう。じゃあ、私も一緒に行こうかしら」
 メイは頷き、二人は他愛ない話をしながら、アルバーサの部屋へ向かった。
 失礼します―――――、と声をかけメイが中に入っていく。
 サラもそれに続いて入っていくと、アルバーサは窓際のソファーで本を読んでいた。
「お母様、今日はご気分がよろしいのね」
 言いながら、アルバーサの隣に腰をおろす。
 アルバーサは「ええ」と微笑を浮かべる。
 サラは顔色のいい母親を見て、笑顔で甘えるように寄り添った。
 体の弱いアルバーサは外出などめったにしない。
 一日のほとんどを部屋ですごすアルバーサがさびしくないようにサラはよく顔を見せるようにしていた。
「薔薇を摘んでいたの?」
 籠を見て、アルバーサが言った。
「うん。今日、お客様がいらっしゃるでしょう?」
「…………たしか……彼の婚約者…だったわね…」
 アルバーサは笑みを消して言った。
 ヴィクトールのことをアルバーサは名前ではなく『彼』と呼んでいた。
 もうヴィクトールがこの屋敷に来て一年も経つのにだ。
 いつも優しく美しい母。
 だけどもヴィクトールにだけ、冷たい。
 ぜったいに心を開かず距離をとっている。
 この屋敷で母以外はみんなヴィクトールを家族の一員として扱っているだけに、サラには母の態度が寂しく悲しかった。
「あのね、見て? お母様」
 だからサラはいつもヴィクトールがどんなに良い青年かを話す。
 アルバーサはサラが手にした薔薇に怪訝そうに見る。
「黄色の薔薇……?」
「あのね、これヴィクトールがくれたのよ!」
 とたんに眉根を寄せるアルバーサ。
 光の消えた目がじっと薔薇を見つめる。
「本当の家族のように仲良くなれるようにって、ヴィックが自分で育てたの」
 すごいでしょう、と嬉々とした眼差しを向ける。
「ヴィックはとても優しいの。ね、お母様」
 アルバーサにちゃんとヴィクトールのことを認めてほしい。もっと優しくしてあげて欲しい。
 サラは思いを込めて、母親を見つめる。
 アルバーサは少しの間じっと薔薇を見つめ、そして黄色の薔薇をとるとそっと籠の中に入れた。
 サラに向き直り、愛しそうに頬を両手で包み込む。
 柔らかな優しい眼差し。
「彼の話はもういいわ。―――サラ、私はねヴァスとあなたさえ傍にいてくれればほかにはなにもいらないのよ」
 そう言ってサラを抱き寄せ、赤子をあやすようにサラの髪をなでる。
「あなたたち二人が……私にとって一番大切な家族なのだから」
 暖かな母の腕。
 サラはそっとため息をつく。
 いつも同じ。
 ヴィクトールの話をしても、アルバーサは最後に決まってこう言う。
 ヴァスとサラさえいればいい―――――、と。
 血の絆を持つものだけ。
 身体が弱いからだろうか、アルバーサは強く家族の絆を求めた。
 サラは籠の中の黄色の薔薇を横目に見る。
 いつか四人で――――本当の家族になれたらいいのに。
 そう思った。






















『やっと――――会える』


 ダークブルーのドレスを身にまとった少女がプラットホームへ降り立った。
 駅から見える街並みに心が躍る。
 愛する者のいるこの街――――――。
 そう思うと、すべてが輝いて見える。
 控えめだが整った顔立ちをした少女は、自然と顔を綻ばせた。
「―――マリス」
 聞き覚えのある声に、彼女は笑みを消す。そして親しみを感じさせる柔らかな笑顔を浮かべて振り返った。
「ヴィック、久しぶりね」
 その眼差しは家族に向けるような和やかなもの。ヴィクトールもまたよく似た穏やかな笑顔を向け、マリスに歩み寄る。
「元気そうだね」
「ええ、ヴィックも元気そうね」
 よく似た笑顔を持つ二人は久しぶりの再会を喜ぶ。
「疲れなかったかい?」
「大丈夫よ。ずっと刺繍をしていたし」
 そう、とヴィクトールは微笑んでマリスの手荷物を持つ。
「さ、行こうか。おじさんが早く君に会いたいってって楽しみにしてるんだよ。どんな婚約者なんだってうるさくってね」
 困ったように笑いながら言うヴィクトール。
 一瞬マリスの目に暗い影がよぎった。
 ヴィクトールはそれに気づかず、従者に他の荷物を場所に運ぶよう頼むと、マリスに手を差し出した。
「どうぞ――――」
 幼い頃からマリスをエスコートするのはヴィクトールの役目だった。
 懐かしいしきたりにマリスは微笑みながらその手を取る。
「ありがとう、お兄様」
 血のつながりなど無い。
 だが物心付いた時からそばにいたヴィクトールをマリスはつい最近までそう呼んでいた。
 マリスにとってヴィクトールは本当の兄のようなもの。
 ヴィクトールにとってマリスは本当の妹のようなもの。
 二人は思い出話に花を咲かせながら、屋敷に向かった。