『第23話』





 下を向いて立ち尽くして、どれくらいたったのだろう。
 10分…いや1時間くらいか。
 その場所に行くまでにも長い時間を有した。
 あの日までは毎朝、毎日当たり前のように出向いていたのに。
 足元の石畳をいつまで見ているつもりなのか。
 ぎゅっと唇を噛み締め、息を止める。
 そしてようやく顔を上げた。
 目の前に広がるのは薔薇たち。
 濃い緑の葉に鮮やかに美しく映える深紅の花びら。
 何事もなかったかのように咲き誇る薔薇。 
 息を止め数秒、ゆっくりと息を吐く。
 そこにはなにもない。
 もう2週間以上経つのだ。
 あの瞬間と同じ光景が目の前にあるわけがない。
 薔薇に埋もれた、あの少女は、いないのだ。 
 サラは大きくため息をつき、その場に座り込んだ。
 目を閉じれば、まぶたの裏にあの光景が焼きついている。
 綺麗な、絵のようだった。
 死んでいるなどとうてい思えないほど、安らかな顔だった。


「………マリス」

 ごめんね。


 様々な思いを込め、呟いた。



 しばらくの間、そのまま薔薇を見つめていた。















「サラ…」
 その姿を見て、安堵の色が浮かぶ。
 だがサラが薔薇園から来たことに気づき、わずかに翳る。
 ぼんやりとした眼差しは、だが昨日までとは違って真っ直ぐにヴィクトールを見た。
「……おはよう、ヴィック」
 きのうラナルフが訪ねてきたあと結局サラは部屋から出てくることはなかった。
 だが夕食はいつもよりは食べ、あとは寝ていたとメイドが話していた。
「おはよう…サラ。もう………大丈夫なの?」
 目に宿るのは心配そうな、苦しそうな色。
 胸がつまり、目頭が熱くなるのを感じつつ、必死でサラは笑顔を浮かべる。
「うん。――――心配かけてごめんね」
 ヴィクトールは首をふり、わずかに目を伏せる。
「サラが謝ることはないよ。僕が…悪いんだから。僕のせいで………」
 そう言葉が途切れる。
 あふれ出す苦しい想いに、サラはじっとヴィクトールを見つめた。
 マリスの死から2週間。自分は部屋に閉じこもりっきりだった。
 どんな想いで、その間ヴィクトールは過ごしていたのだろう。
 どんな想いで、葬儀に参列したのだろう。
 なにも知らなかった彼がどれだけ自分を責めたのだろう。
「――――ヴィックのせいじゃないよ」
 ラナルフが自分を励ましてくれたように、自分もヴィクトールの力になってあげたい。
 ゆっくりと歩み寄り、そっと見上げる。
「だってヴィックは辛いでしょう? マリスが死んで哀しいでしょう? 私、知ってるもん。ヴィックが本当に、マリスのことを大切に思ってたって。愛してたって知ってるもの。だから」
 抱きしめてあげたい。
 そう思うもそれはできず、精一杯の笑顔を浮かべ、ヴィクトールの手をぎゅっと握る。
「泣いていいんだよ。マリスの死を悲しんでいいのよ、ヴィック」
 ヴィクトールは目を見開いてサラを見つめる。
「―――――――サラ」
 掠れた声がもれ、手がサラの頬をすべり、肩に置かれた。
「無理しないで」
 我慢できずに目を潤ませサラは呟いた。
 ヴィクトールは目を細め、そっとサラを抱き寄せた。
 壊れ物を扱うように背にそっとまわされたヴィクトールの手が震えている。
 辛いのだろう。
 少しでもそれを軽くしてあげれたら。
 サラはヴィクトールの腕の中で思い、目を閉じた。
「…………………僕は……」
 苦しげな声が小さく響く。
 だがその先はつづくことはなく、ヴィクトールはぎゅっと唇を噛み締めた。
 サラはその声に気づかず、
「今度―――――一緒にマリスのお墓参りに行こうね……」
 そっと呟いた。
 しばらくして、ヴィクトールが頷いた。
 






















「お母様」
 サラは手を広げ笑顔をこぼすアルバーサに駆け寄り抱きつく。
「よく顔を見せてちょうだい。少し痩せたのではない? 今朝はちゃんと食事とったの?」
 力いっぱいサラを抱きしめ、アルバーサは覗き込む。
 心配がありありと浮かんだ表情に、サラは満面の笑みを浮かべる。
「もうお腹いっぱいになるくらい食べたわ」
 アルバーサが体調を持ち直した直後にマリスの死があったから、こうして顔をあわせるのはずいぶんと久しぶりだった。
「でも本当によかったわ、あなたの笑顔を見れて」
「心配かけてごめんなさい、お母様」
 アルバーサは首を振って微笑む。
「いいのよ。私こそあなたにはいつも心配をかけてますしね」 
 愛しげにサラの髪をなでる。 
 手のひらから伝わる暖かさがとてもうれしく、母に甘えるように顔をすりよせるサラ。 
「それに今回の件は―――ヴィクトールのせいなのですからね」 
 冷ややかな声に、サラは身をこわばらせた。
「婚約者を死に追いやるなど、なんという青年なのでしょう」
 サラは目を見開いた。
 身を起こし、アルバーサを見る。
 いつも穏やかな母親の口からはっきりとした非難と怒りの言葉を聴くのは初めてだった。
「なぜ…そんなことを言うの?」
 険しい顔をしたサラに、アルバーサは首をかしげる。
「…なぜって、本当のことでしょう? 彼がいなければ、あなたがこんなに辛い目にあうこともなかったでしょうに」
 第一発見者だった娘に対する労わり。
 だがサラは非日常に遭遇したから辛かったわけでもない。
 なにも出来なかったから、なにも思いやってあげれなかったから。
 マリス、ラナルフ、そしてヴィクトールに申し訳なくて、だから辛かったのだ。
 ヴィクトールに謝っても足りないのは自分のほう。
 それなのにヴィクトールがすべての元凶のように言われるのは納得できるはずがない。 
「…ヴィックのせいではないわ」
 一転の曇りも無い眼差しでアルバーサを真っ直ぐに見つめた。
 なぜアルバーサがこんなにもヴィクトールをないがしろにするのか。
 いつも思っていた疑問が、わきあがる。 
 ヴィクトールがこの屋敷にきたときからアルバーサの態度は冷たかった。
 病弱な母親は大切な『家族』だけでいい、そう何度も言っていた。
 だが、ヴィクトールはアルバーサの実の息子だったのだ。
 自分たちにこの事実を知られたくないために、わざと冷たく接しているのだろうか。
 しかしアルバーサのヴィクトールのことを話す冷たい眼差しに、その考えは打ち消される。
 だからさらに何故なのだろうと思わずにいられない。
 いつも優しく慈しみ自分を見守ってくれていた母親が、同じく愛情を受けて当然のヴィクトールを拒絶するのか。
「お母様」
 真剣なサラの表情に、アルバーサが逃げるように視線をそらす。
「ヴィクトールはとても優しくてすばらしい人よ。いつも相手のことを気持ちを考えていてくれる」
「もういいわ、サラ…」
「私はお母様にヴィクトールのことをちゃんと見てほしいの。ちゃんと知ってほしいの。だって―――」
 ぐっとアルバーサの手を握り締める。
「だってヴィクトールは私たちの大切な家族なのだから」
 重く真剣な響きに、戸惑ったようにアルバーサがサラを見る。
 母と娘の視線が重くかさなり合う。 
 アルバーサはしばらくして眉を寄せ目を伏せると、顔を背けた。
「―――――少し疲れたわ。休ませてちょうだい」
 お母様…、そう呟くも、アルバーサはベッドにはいりサラのほうを見ようとはしなかった。
 サラはため息をつく。
「……ゆっくりお休みになってね…」
 返事はなく、サラはそっと部屋をあとにした。   







 

 


 翌日、一通の手紙が届いた。 
 差出人はレアーナ。
 久しく会っていない親友の名を微笑を浮かべて呟き、ペーパーナイフで封を切る。
 薄紅の便箋には微かな花の香りがついていた。
 馴染みあるレアーナの性格を現したかのような正確で美しい字体に目を走らせる。
 そこにはオーストリアについてからの日々のこと。
 忙しくて連絡をするのがおそくなってすまないと始まっている。
 滞在している公爵家で連日夜会が開かれ、もう疲れまくっている、と書いてあった。
 自然と笑みが浮かぶ。
『それでその後、ヴィクトールとは何か進展があったのかしら?』
 冗談ぽく冷やかすようなレアーナの笑みが思い出される。
 微笑を浮かべたまま、だが寂しげに目を細める。
 レアーナと別れまだ数週間。
 それなのにもう何年も会ってないような気がする。
 あの時は想像もしていないことが、立て続けに起こったのだ。
 引き出しから便箋を取り出す。
 ペンをとり、しばらくして書き始めた。
 アルバーサが危篤状態になったこと。
 ヴィクトールが異父兄であることを知ってしまったこと。
 そしてマリスの死。
 一連のことはあまりに大きすぎた。
 何度も何度も書き直し、ようやくこの2週間あまりにあった出来事を書き終えると、一旦筆を休めた。
 便箋に書いたことをぼんやりと眺める。 

 ヴィクトールと自分は血のつながった兄妹だったのだ。

 ふと、冷静に思う。
 忘れていたわけではない。
 だがマリスのことが直後にあったから、その真実と対峙することはなかった。
 ショックで、混乱した真実。
 考えるだけで今も胸は痛む。
 
 だが――――。
 
 サラは再びペンを取り、書き出した。

 自分にとってヴィクトールはなんなのだろう。
 初めて会ったとき、一目で恋をした。
 優しく包み込んでくれるような、純粋な笑顔に心を奪われた。
 レアーナと一緒にこの恋について語らったことを思い出す。
 どれだけからかわれながらも励まされたことだろう。
 ヴィクトールが自分にかけてくれる言葉、笑顔に一喜一憂していた。
 大好きな人。
 考えるだけで心が暖かく切なくなる。
 そして大切な人。
 大切な家族。
 そう、確かにヴィクトールは家族なのだ。
 昨日アルバーサにそう告げたことを思い出す。
 あのときの言葉は、それまでのもと違った。
 表面上の意味だけではない。
 父や母を想うように、ヴィクトールもまた自分の心にいるのだ。
 幸せであってほしい。
「――――本当の家族に…なれるかな…。ね、レアーナ…」
 様々な想いがあふれる。
 切なさ、痛さ、暖かさ。
 ヴィクトールを兄と認めるということは、恋が終わるということ。
 手が震え、サラは顔をおおい、ため息をついた。
 目に涙がにじむ。
 ヴィクトールがいなくなるわけじゃない。
 兄というのなら、家族としての絆は一生続いていくものだ。 


 でも、それはずっとサラが望んでいたものではない。


 だけど、なにが違うというのだろう。
 想いの形が違っただけ。
 愛する気持ちはずっと変わらないのだから。

 だから―――――。


 前に進もう。




 長い間、身動きせず宙を見つめたいた。
 そして引き出しから聖書を取り出した。
 本を開き、差し込んでいたしおりを手にする。
 黄色い花びらを押し花にしたしおり。
 ヴィクトールからもらった一輪の黄色の薔薇。
 それをしおりにしたのだ。
 サラはしおりに祈るように唇を寄せた。
 そして大きく深呼吸して、再び便箋に向かった。



『――――身体には充分に気をつけてね。

       レアーナを愛する大親友のサラ様より』



 小さな笑みを浮かべ書き終える。
 丁寧に便箋を折りたたむ。
 深紅の蝋で封をする。
 すべての想いをしたためた手紙。
 決意を書き記した手紙。

「がんばるね、レアーナ」

 呟きは晴れやかなもの。
 決意したから。
 前に進むと。
 

 ヴィクトールに告白をし、この恋に区切りをつけると。