『第19話』





 柔らかな肌が、熱を帯びた瞳が、まるで凍りついたかのように、強ばった。


 いまだ腕の中。
 だけど、心はもう、離れてしまった。





「……パリ?」



「ああ。以前話ことあるだろう? パリに尊敬する人がいて、その人のアトリエで働きたいって」
 覚えてるかい?、微笑みかけるとマリスは強ばった顔で小さく頷く。
「いろいろとつてを頼ってね…。本当に働けることになったんだよ」
 凄いだろう?
 だがマリスは息を飲み、視線を揺らす。
「……どのくらい…行くの…」
「さぁ…。働くんだからね。こっちへ帰る予定はないよ」
 瞬間、マリスの瞳に絶望の色が走った。
 ラナルフはそれを黙って見つめる。
 マリスは言葉を失って、固まる。
 すっと力を抜く。
 腕の中のマリスを解放する。
 ふらり、マリスは一歩後退りした。
「………………じゃぁ…今まで…より会えなくなるの…?」
 思わず苦笑が漏れる。
 あまりに、予想通りで。
「そうだね、今まで以上に会えなくなるのは確かかな。何ヶ月…もしくは1年…に一回とか」
 マリスは呆然と立ち尽くす。
 そして涙が零れた。
 口元を押さえ、顔をそむけるマリス。
「ごめんなさい。…………あなたにとっては…すごく喜ばしいことなのに…。でも……」
 寂しくて――――。
 そう涙を流すマリスは、哀しみに耐え切れない、そんな様子だ。
 ラナルフはじっとマリスを見つめ、懐から箱を取り出した。
 昨日、サラが帰ったあと、買いに行った物。
 箱に入っているのは小さな石のついた指輪。
 マリスの手を取り、その指にはめる。
 涙に濡れた瞳で見下ろすマリス。


 彼女の哀しみは、一層深くなってしまうのだろうか。




 ラナルフはゆっくりと声をかけた。


「マリス…。パリに一緒についてきて欲しいんだ」


 マリスの涙が、止まった。



「え……………?」



 その声を、その表情を見て、ラナルフは笑いそうになった。
 あまりに哀しくて。
 あまりに辛くて。



 別れが。







「…………私…が…?」
 それは、怪訝そうな声だった。
 なぜ、自分がラナルフについていくのだろう、そんな疑問を含んだ声。
 困惑するマリスに、優しく微笑みかける。
「今すぐじゃない。1年後か、2年後か…。俺の仕事が落ち着いて…。そして一緒に暮らせるようになったら」
 その言葉に、ぽかんとして、そしてマリスはまた自分の指にはめられた指輪を見た。
 意味を、理解したのだろう。
 



「いつか、俺と…結婚しよう」


 それは、別れの言葉。






「……………って……だって…」


 震える声。 


「だって……………私にはヴィックが」







 そう。
 ヴィック……、ヴィクトール。
 婚約者。
 最初から解っていたこと。
 婚約者がいると。








「ちゃんと、君のご両親にも、ヴィクトールさんにも会って話すよ」
 マリスの顔から血の気が引いていく。
「俺たちのことを認めてもらえるように」 
 強く、言い切った。
 マリスは呆然と首を振る。
「――――――だめ…よ。…ダメ」
「なぜ?」
「だって、だって、婚約はお父様とお母様が決めたのよ」
 裏返った声。
「だから話して解ってもらえるよう努力するよ」
「だめよ。お父様とお母様の言いつけは守らなければならないもの」





 言いつけ。


 それこそが、マリスの奥深くに根付いている、過去の呪縛。



 初めて会った時、親の決めた婚約者だと言うことを、人づてに聞いていた。
 それから何回目だろう。
 マリスから絵を描いて欲しいと頼まれ、そして二人で会いだして3回目ぐらいだったろうか。
 彼女が話した過去の傷。
 目の前で死んで言った姉の話。
 姉は両親のいいつけを守らずに湖のそばで遊び、そして死んでしまったのだと。
 言いつけを守らなかったから死んでしまったのだと。
 だが、それもすべて自分のせいなのだ、そう彼女は言った。
 自分もまた言いつけを守らず姉と一緒に湖で遊んだ。
 そしてかぶっていた帽子が湖に飛んでいってしまった。
 それを取るために姉は湖に入り、そして溺れ死んだのだ。



 言いつけを守らなかったから。
 自分は姉を殺し、そして両親を悲しませてしまったのだ。





 その時、ラナルフは気づいたのだ。
 彼女の奥底に植え付けられたものに。





 両親の言いつけは絶対。
 両親を悲しませることは絶対してはいけない。





 それは、彼女が優しすぎた故だろう。
 優しすぎて、自分にその二つを課した。







 ラナルフは哀しげにマリスを見つめた。
 マリスの頬に手を置く。






「それじゃあ、ヴィクトールさんにだけ、打ち明けよう。
 彼に俺たちのことを認めてもらって、そして彼に、彼のほうから婚約を破棄してもらうんだ。それなら、君がご両親の言いつけを守らなかったことにはならないだろう?」
 言った瞬間、悲鳴のような声が上がる。
「ダメよ!!!」
 一際大きかったその声に、マリス自身驚いたように、自ら口を塞ぐ。



 ラナルフは小さな、笑いをこぼす。
 だがその眼差しは、笑っていない。



「――――――なぜ?」





 なぜ?



 だって――――。
 だって。





 なぜ?




 マリスは大きく目を見開いた。





































 正式に婚約したのは13歳の時だった。
 兄のように慕っていた少年は、いつも傍に居た。
『お兄様が、私の旦那様になるの?』
 そう不思議そうに聞いたとき、ヴィクトールは優しく微笑んで言った。
『そうだよ。これからも、未来もずっと、一緒だって言うことだよ』
 あの時は、ただ純粋に、嬉しかったのだ。




『ヴィックなら、とてもいい旦那様になるわ』
『まぁ、なんて羨ましいのかしら』
 知り合いの年上の従姉妹たちは、そう喜んでいた。
『ヴィックはマリスのことを宝物のように大切にしているものね』
 その言葉はとてもくすぐったく、そして誇らしかった。
 いつも傍にいて、自分を助け、守ってくれるヴィクトール。
 本当の兄のように、本当の家族のような存在。



 だから、ヴィクトールが傍にいるのは当たり前のことだった。 





 だけど、出会ったのだ。
 出会ってしまったのだ。
 彼と―――――。
 一目ぼれだった。
 初恋だったのだ。
 恋というものを知った。
 会いたいと想った。
 自分でも驚くような行動力で、ラナルフに絵を描いてもらえるよう頼んだ。
 夢のような毎日だった。
 絵が出来上がるのが一日でも遅くなれば、そう思っていた。
 でも絵は出来上がり、終わる日が来た。
 だけど。
 だけど、あの日、ラナルフは口づけをくれたのだ。
『好きだ――――』
 初めて囁かれた愛の言葉は、驚くほど心地よく、切なくて涙が溢れるのを止められなかった。
 幸せな毎日。
 恋というものが、こんなにも甘く切なく苦しく、そして幸福なのかと。
 でも、その一方でいつも不安だったのだ。
 いつか――――――別れる日が来ることが。





 ずっと一緒にいたいと思ったのは事実。
 だがいつか別れる日がくると、思っていたのだ。
 父や母から婚約のことを言われるたびに、いつも心の中で唱えていた。



『今だけ。
 今だけだから――――』と。



 なぜ、そう思っていたのだろう。
 自分の中では、ラナルフとの恋は、いつか終わりが来るものなのだと、そう認識していたのだ。





 それに気づいた瞬間、涙が一筋流れた。
 ラナルフは黙ってマリスを見守る。
「…わた……し………」





 ヴィクトールに対する想いは“恋”ではない。
 ラナルフに対して抱く、胸の焦がれるような感情ではない。
 でも―――――愛情なのだ。
 自分でも気づかないうちにヴィクトールのことを『兄』そして将来の『夫』として、認めていたのだ。
 両親がいて、ヴィクトールがいて、自分がいる。
 それはごく自然すぎて、考えることさえしなかった来るべき『未来』。
 簡単に思い描ける未来絵図。











 だが――――ラナルフは?
 未来にラナルフは?
 いない。
 いない、のだ。











「………私………」
 涙が、熱い。
「私………………あなたのこと……好きなの」
 ああ、知っているよ、とラナルフが優しい眼差しを向ける。


 嘘ではない。
 本気だった。
 それはまぎれもない真実。
「私………」
 解っているよ、そう暖かくマリスを抱きしめるラナルフ。
 伝わる優しさに、ふと、一つの疑問が沸きあがり、身体が強ばった。


 自分より遥かに大人で、理知的なこの恋人は――――。 


 もしかしたら、最初から気づいていた?
 自分でさえ気づいていなかった、この奥底に眠る、現実に。




「ラナル…フ………」
 そっとラナルフがマリスの手を握り締める。
 すべてを認めたマリスの表情の変化に、穏やかな、だが哀しそうな微笑を浮かべる。
「君の未来に、俺が入る余地はあるかい?」




































 最後に交わしたのは、口付け。
  

『愛しているよ』と、青年は言った。


そして、『さようなら』と、青年は告げた。