『第17話』
『母さん』
愛しい人の囁いた言葉は――――理解できるはずもなかった。
声をかけることが出来るわけがなく、息をするもの忘れるほど、サラは静かに後退り、部屋を出た。
頭の中は真っ白。
なにも考えることが出来ない。
彼はなんと言ったのか。
誰に何を?
「……母さん……………」
口の中で反芻する。
その意味はなんなのだろう。
ぼんやりと歩み続け、サラは部屋の前に立つ。
そこはヴィクトールの部屋。
ドアノブに手をかけ、立ち尽くす。
自分はなにをしたいのか。
ドアを開け、静かに中へ入る。
そしてまた立ち尽くす。
直接ヴィクトールに訊くか。
「……きっとなにかの間違いだわ…。
聞き間違えたのよ…」
無理に笑おうとしても引き攣るだけ。
呟きながら、寝室へと入っていく。
クローゼットを開く。
棚の上にある数個の箱。
それを取り出す。
その中に、ヴィクトールが手紙や書物を入れていることを知っていた。
ふたに手をおき、躊躇う。
人のものを勝手に覗くべきではない、と迷う。
だが、しばらく逡巡し、開けた。
なにもないかもしれない。
なにもないだろう。
震える手で、箱の中を見てゆく。
書物を無為に開き見る。
そして手紙の束を紐解く。
手紙の裏を見ていく。
やがて、その手が止まった。
身近な差出人の名前。
父、ヴァス・ヴィリアーズがヴィクトールに当てた手紙。
ヴァスがヴィクトールに手紙を書いていたとしてもそれはまったく不自然なことではなく当たり前のこと。
他人の手紙を開き見ることに罪悪感を覚えつつ、それでもどうしても“何もないこと”を確かめたくて、手紙を開いた。
『君を迎える準備はすべて整えている』
ヴィクトールがこの屋敷に来る前に交わされた手紙。
文面を目で追う。
小さな音をたて、便箋が揺れる。
震える手。
『アルバーサはあと長くて1年…2年だと医師から宣告されていることは、すでに話したが…』
予想していなかった事実に愕然と目を見開く。
「…………嘘…」
その事実をヴァスもヴィクトールも知っていたのだとしたら、今回のアルバーサの容態の悪化は予測の範囲内だったのだろうか。
呆然と文面を見つめる。
そして徐々に涙が浮かび上がる。
手紙の上に零れ落ちそうになって、慌ててぬぐった。
手紙をもとどおりに箱に収め、片付けると、胸を抑え急ぎ足で部屋を出て行った。
小走りに自室へ戻った。
部屋に入り鍵を閉め、ベッドの中にもぐりこむ。
ぎゅっと目を閉じ、なにも考えないように、と考える。
だが消せるはずもなく、絶望的な答えが頭の中を支配する。
嘘だ。
嘘だ。
『彼女は私が知っていることはもちろん知らない。だから口には出さないが、本当は君のことを心配しているはずだ』
なぜ?
『できれば最期の時を…息子である君と過ごさせてやりたいのだ』
最期?
なぜ?
息子?
疑問と絶望、混乱。
気が狂いそうになるくらいの目眩が襲う。
やがてすべての感情が消えてしまったかのように、瞳が虚ろになった。
「――――――なんだ」
疲れたような呟き。
なんだ――――。
最初から、
望みなど、
なかったのだ。
暖かな陽射しが、締め切られたカーテンの隙間から零れていた。
「………あれ?」
アルバーサの部屋からいい加減に睡眠をとろうと自室へと戻っていたときだった。
2階の窓から、屋敷の門を出て行く一つの後姿が見えた。
「サラ?」
まだ寝ていなかったのだろうか、と怪訝な面持ちで呟く。
ヴィクトールは踵を返し、一階へと降りていった。
ちょうど玄関の扉をしめていたメイドに声をかける。
「いま、サラが外出しなかったかい?」
「はい。買い物に言ってくると仰られまして、お出かけになられました」
「買い物?」
頷くメイドに、訝しげに眉を寄せる。
ついさっき薔薇園で会ったときはもう寝ると言っていたはず。
怪訝に思いながらヴィクトールは閉じられた扉を見つめた。
どこに行こうというのだろう。
だが屋敷にはいたくなかった。
認めたくない真実が現実がある屋敷にはいたくなかった。
ただただ無為に歩きつづける。
正面しか見ていない瞳から、いつのまにか涙が流れ、頬を伝っていた。
すれ違う人が少女の涙に思わず視線を向けるが、そんなことは気にならない。
気にする余裕などない。
とめどなく涙が零れ落ち、目がかすんだ。
足元も見ずにひたすら前だけを見て歩いていたから、少しの段差に足を取られた。
前のめりに倒れる。
手のひらがこすれ、血がにじんでいた。
小さな痛みに、感情なく手のひらを見つめる。
涙が落ちる。
血に、涙がにじんで、傷口に染みて、痛い。
「……痛い――――」
感情の伴わない声。
どこが痛いのか。
手?
胸?
わからない。
目に見えるのは手のひらの小さな擦り傷だけ。
他にはなにも傷などないはず。
それなのに、なぜこんなに痛いのだろう。
なぜこんなに苦しいのか。
痛みを自覚したとたん、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出す。
「…………ゃ………イヤ………イヤ」
地面に座り込んだまま、嗚咽を上げ、泣き続ける。
戻して欲しい。
2時間でいい。
母が無事だと聞いた直後まで。
それだけでいい。
そうしたら薔薇園にヴィクトールを探しになど行かず、アルバーサの様子を見にも行かず、あの言葉を聞かずにすむ。
戻して欲しい。
声を上げ、泣く少女。
やがて一つの影がサラの前で立ち止まった。
「どうされました―――――」
穏やかな声がかけられた。
だが涙を止めることが出来ず、構わないで下さいと、首だけを振る。
「とりあえず、立ちましょう」
そう手が差し伸べられた。
サラは優しい声に涙をぬぐいながら、大丈夫です、と顔を上げた。
青年は穏やかに微笑んでいた。
「大丈夫じゃなさそうだけど?」
サラの手をひっぱり立ち上がらせる。
「本当、君とはよく会うね。運命の赤い糸でもつながっているのかな」
軽い口調で言って、――――――ラナルフは小さく笑った。
「おいで。美味しいお菓子を食べさせてあげるから」
サラの手を握り締めたまま、ラナルフは歩き出した。
暖かな湯気。
甘い香りが立ち上っている。
「はい、どうぞ」
テーブルに置かず、あえて手に取らせようとカップを差し出す。
サラは泣きつかれてぼんやとした眼差しを向け、のろのろとそれを受け取った。
「ホットチョコレート、飲める?」
自分用には普通の紅茶をいれ、ラナルフはサラの正面に腰を下ろした。
サラは小さく頷いて、チョコレート色の水面を見る。
真っ白なマショマロが半分溶けて入っている。
じっと見つめているサラにラナルフが笑みをこぼす。
「飲まないの? 結構美味しいって評判なんだけど」
サラはわずかに視線をあげ、そして一口飲んだ。
「…………熱……い」
喉を通っていく濃厚な甘味と温かさ。
熱いが、美味しい。
ゆっくりともう一口飲む。
「…おいしい―――――」
小さく呟く。
「妹によく作ってやってたんだ」
「………妹」
その言葉に暗い影が落ちる。
うつむき、カップを置く。
「…こんなに美味しい…ホットチョコレート作ってくれるなんて………すごく…優しいお兄様なのね………」
抑揚のない声にラナルフはそっとサラを見つめ、笑う。
「まぁ、優しいかな?」
会話が途切れる。
あえてラナルフはなにも話し掛けない。
「…………ね」
「なんだい」
「……妹って……かわいい?」
「まぁね」
「妹って………大切…?」
「大切だよ」
「じゃあ……………」
下を向いたまま、重く口を開く。
「妹と…恋人と……どっちが…大切……?」
頬杖をつき、目を細めるラナルフ。
「妹と恋人か…。なかなか難しい選択だな」
苦笑し、紅茶を飲む。
「どっちが…大切…?」
小さく、だが強く、呟く。
ラナルフは一瞬目を伏せ、微笑を浮かべて言った。
「さぁ――――どっちだろうね。妹と恋人はまったく違うものだからね。でも」
でも?、サラはわずかに視線を上げる。
「でも恋愛感情よりも…家族の絆が強いというのは、よくあると思うよ」
血の繋がりは、どんな絆よりも強いからね。
ラナルフはそう言って、サラを見つめた。
「………そう…なんだ…」
サラの頬が引き攣ったように笑みを浮かべる。
今にも泣き出しそうな、自分自身を笑うかのようなもの。
元気と純粋さに溢れていた少女には似合わない自虐的な笑みに、ラナルフは心の中でそっとため息をつく。
こんなにもこの少女を傷つかせたのはなんなのだろう、と。
また会話が途切れる。
細い、震えるため息を漏らすサラ。
「なら…ヴィックにとっても…私って“大切”なのかな―――。
マリスよりも」
ラナルフは眉を寄せた。
なぜ今の話の流れでそんなことを言うのか。
一瞬ある考えが浮かぶが、まさか、と打ち消す。
だが“まさか”を肯定する答えが、呟かれる。
「私…………ヴィックの異父妹なんだって…」
驚くも、それを顔には出さず「そう」とだけ相槌を打つ。
サラはぼんやりと視線を宙に彷徨わせ、ラナルフに目を止めた。
「ごめんなさい」
なぜ?、と静かに笑みを返す。
「………私が…頑張っても…ヴィックを振り向かせることなんて…できないから。
だからヴィックはマリスが一番大切で、ずっと……」
なにを言いたいのだろう、自分でもわからない。
婚約者がいても、もしかしたらという希望が昨日までは、いやつい数時間前まではあったのだ。
だがそんなのは夢で、あり得ないことだった。
ラナルフはため息をつき、立ち上がった。
傍へ来て、テーブルの端に座り、ぽんとサラの頭に手を乗せた。
「馬鹿だね」
「……ほんと……ばかなの…」
軽く優しく撫でる。
「馬鹿だな、サラはなにも悪くないだろう? 謝る必要もなにもないだろ」
うん、と小さく頷き、顔を伏せる。
顔が熱くて、目頭が熱くてたまらない。
枯れることを知らないように、涙が零れる。
「ラナルフが……お兄さんならよかったのに…」
何気なく零れた自分の言葉に、微かに笑う。
「ほんと………ヴィックじゃなくてラナルフがお兄さんだったら…」
「俺に恋してた?」
ぽかんとして見上げる。
いたずらっぽく笑いながら、ハンカチでサラの涙を拭いてあげる。
さりげないラナルフの優しさにほんの少しだけ、自然な笑みが浮かんだ。
「ううん。………ラナルフの婚約者がマリスで。それで私はヴィックとオペラの夜に運命的な出会いをして恋に落ちるの」
たんなる夢物語。
ため息が漏れる。
本当にそうだったらどんなによかったのだろう。
ぬぐってもぬぐっても涙はわきあがる。
ホットチョコレートをゆっくり飲む。
甘い。けれどしょっぱい。
「そうだね。そうだったら、とても幸せだったろうな」
でしょう?
泣きながら笑う。
悲しくて痛くて哀しい。
「………もう少し…ここにいていい?」
黙って頷くラナルフ。
ありがとう、椅子にゆったりもたれかかり窓の外を見た。
静かな空気。
なにも考えずに、ただぼんやりとした。
どれくらい経ったのだろうか。
話が途切れてほんの数十分だった。
突然、大きく扉が叩かれ、若い男のラナルフを呼ぶ声が聞こえてきた。
ビクっとして我にかえるサラ。
ラナルフは、はいはい、と扉を開けにいった。
相手はどうやら友人らしい。
いま来客中だから、とラナルフが言っている。
扉を閉め、廊下で話しているが、わずかに声が漏れてくる。
話し終わったのか「じゃあな」とラナルフの言う声が響いてきた。
「ああ、じゃ、またな。期待してろよ。すっげ〜送別会にしてやるからな」
扉が半分開いた状態で若い男の別れ際の言葉がやけに大きく聞こえてきた。
わかったわかった、と扉を閉めるラナルフ。
扉を背にして、内心舌打ちをする。
声がでかすぎるんだよ、と口の中で呟きつつ、笑みを浮かべてサラを見る。
案の定、サラは怪訝そうな表情で自分を見つめていた。
「俺の友達って、ほんと声が大きくてがさつなやつが多くてね」
そう誤魔化しの笑顔を向ける。
「………送別会…って…」
困惑した声に、ラナルフは内心ため息をつく。
そしてあっさりとした口調で、
「今度パリに行くことになったんだ」
「……パリ?」
「ああ。尊敬する画家がいてね。その人のアトリエで働けることになったんだ。まぁ下っ端で修行がてらね」
椅子に座りながら、そっけなく言う。
それは、喜ばしいことなのだろう。
だが―――――?
働くということはパリへ移住するということなのだろうか。
サラは戸惑ったように訊く。
「……駆け落ち……するの…?」
瞬間、紅茶を飲んでいたラナルフが激しくむせた。
呼吸を整え、苦笑する。
「駆け落ちなんてしないよ」
「…マリスは………」
まっすぐに見つめてくるサラにラナルフはさりげなく視線を逸らす。「話すよ」
「…話してないの…? いつ発つの……」
「2週間後」
「……2週間……?」
唖然とする。
早い。
あまりにも急な話すぎる。
「なんで……話してないの…。だってそんな……2週間なんて…」
窓のほうを見ているラナルフの横顔に問いかける。
その瞳にわずかな暗い影が宿っているのを見つける。
「話すよ。ちゃんと」
「……………マリス…明日…たぶん会いにくるよ…」
「そう。じゃあ、明日、話す」
抑揚のない声に、ねぇ、と呼びかける。
ラナルフは天井を仰ぎ、ため息をつくとようやくサラのほうを見た。
「ちゃんと話すよ。俺と一緒に、パリに付いてきて欲しいってね」
一瞬息を止まる。
長い沈黙のあと、そう、とサラは呟いた。
それが一番いいはずだ。
羨ましさと、祝福の気持ちと、そして苦しさ。
「……じゃあ…………ヴィック…悲しむね…」
「なんで」
「……マリスのこと…すごく大切に思っているもの…」
幸せにしてあげたいと、そう言っていたヴィクトールを思い出す。
彼にとって一番大切で、愛しい女性。
それがマリスなのだと、そうサラは思っている。
ラナルフは目をすがめた。
大切ね、と内心苦笑する。
「まぁ…その家族愛にさえ…俺は勝てないんだろうけどな…」
小さすぎる呟きは認識できず、サラは怪訝そうにした。
なんでもないよ。
そう微笑むラナルフ。
サラはなにか引っかかりを感じる。
なぜ。
なぜ、そんなに不安になっているのだろう、と。
互いを想いあっている二人が結ばれないわけが無いのに、と。
「…………なんで……話すの…躊躇ってるの」
ラナルフは首を傾げる。
素直に表情を変化させるサラを見ていると、自分までつられてしまいそうだった。
最初からわかっていたこと。
最初からきづいていたこと。
『どうしろっていうんだ?』
初めて口づけをした時から、知っていた。
いつかこういう日が来ることを。
だが、もしかしたら、と思っていたこともある。
「そりゃ、ついてこないって、言われたらショックだからだよ」
軽い口調。
だが笑みはない。
サラはよくわからない、といった表情をしている。
「――――――過去に深い傷をおった人間っていうのは…それを克服しているつもりでも、実際は縛り付けられていることのほうが多いんだよ」
ますます困惑するサラ。
「過去………?」
ラナルフはそれ以上は続けず、にっこりと笑みを浮かべた。
「まぁとにかく、マリスが『ついてこない』といったらお別れだからね。話すのを躊躇ってしまうわけ」
ラナルフがなぜそんな風に思うのかわからない。
ただ、わかったことは一つ。
「……………………マリスは…ついてこないと思ってるの」
じっと見つめる。
ラナルフは肯定も否定もせず、
「サラちゃん、人の悩みにまで共感して悩んでいたら、身が持たないよ」
と小さく笑った。
もうそれ以上なにも聞けず、沈黙が訪れた。
皆、苦しいのだ。
それぞれが苦しんでいるのだ。
それだけが、わかった。
ラナルフの部屋を辞したのはそれから数時間後だった。
日も暮れかけていた。
買い物といって出てきていたから、美味しそうなお菓子を買った。
「ごめんね、あまり役に立てなくて」
屋敷の近くまで送ってくれたラナルフがそう微笑んだ。
「ううん。すごく……役に立ったよ。こちらこそ、つきあってくれてどうもありがとうございました」
軽く頭を下げる。
「いえいえ。私でよければいつでもお呼び付けください」
かしこまるラナルフ。
笑みが浮かぶ。
「それじゃあ、本当にありがとう」
「ああ。――――――サラ、君は素直に心のままに歩いていくといいよ」
じゃあね、手を振りラナルフは去っていった。
サラはその後姿を見送って屋敷に入った。
そしてメイドに今日は夕食はいらない、と伝えると自室に戻り、夢さえも届かない深い眠りの中についた。
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