『第14話』
窓の外は月も出ていず、真っ暗だった。
空には雨雲がたちこめていて、今にも雨粒が落ちてきそうだ。
深い暗闇に、さらに気分が沈んでいくような気がしてヴィクトールは静かにカーテンを閉めた。
そしてマリスのそばで、身じろぎ一つせず氷固まったようなサラを見つめる。
青ざめたままの表情。
レアーナを見送り帰ってきて、もうすでに半日がたっている。
その間サラは一度も食事をとることもなく、祈るように手を合わせているだけ。
たまにお茶を運んでくるメイドにアルバーサの容態を訊くが、返事は重いまま。
ヴィクトールは心の中でため息をつく。
そしてソファーへと近づいた。
「――――マリス」
ずっとサラのそばにいてくれているマリス。
ヴィクトールはそっと声をかけ、肩に手を置いた。
「サラのそばには僕がついているから、少し休んでおいで」
マリスはちらりサラを見、首を振る。
そっとため息をついてヴィクトールは口を開きかけた。
「…私なら大丈夫…だから…。マリスも…ヴィック…も、もう…休んで」
数時間ぶりに開かれた唇。
何を見るともなく、だが宙を見つめたまま、サラが呟いた。
「………でも」
痛々しいほど憔悴しているサラの様子に、マリスは眉を寄せヴィクトールを見る。
ヴィクトールはマリスを促すと、部屋の外へと出た。
「とりあえず、いまは僕がサラのそばにいるよ。アルバーサ様の容態がどうなるかわからないし、この状況が何日つづくかもわからない。だから休める時に休んでおいたほうがいい」
マリスはうつむいて「…そうね」と呟く。
家族を一番に大切に想っているマリス。だからこそサラの気持ちがよくわかり、自分のことのように心配なのだろう。
「……大丈夫。朝になったら、回復しているかもしれないよ」
静かな微笑を浮かべ、できるだけ明るい声で言う。
「……ええ…」
祈るような気持ちで相槌を打つ。
マリスを部屋まで送ると、ヴィクトールは再びサラの部屋へと戻った。
相変わらずさっきと同じ位置で固まったままのサラ。
ヴィクトールは静かにサラの横に腰を下ろした。
組み合わさったサラの指。
母のことを祈っているのだろうか、と思いながら、その手に手を重ねる。
「サラ…。きっと良くなる。きっと」
静かな、だが強い口調。
サラの手を握り締め、見つめると、わずかにサラが顔を上げた。
その目が潤む。
「ほんと……? 大丈夫…? お母様……良くなるわよね…」
震える声で必死で言う。
辛そうな表情に胸が苦しくなる。
ヴィクトールは思わずサラを抱き寄せた。
一瞬サラの身体が強張る。
「大丈夫。絶対、大丈夫だよ」
繰り返し、優しい声で言い聞かせるように呟くヴィクトール。
暖かい体温と、ヴィクトールの言葉に、サラの身体から力が抜けていく。
すがりつくようにヴィクトールの背に手を回し、泣き出すサラ。
小さく震える身体を抱きしめ、ヴィクトールはあやすようにそっとサラの髪をなでた。
「絶対…よくなるよ」
自分自身に言い聞かせるように、何度も何度も呟いた。
しかし、夜が明けても一向にアルバーサの容態は安定しなかった。
主治医はヴァスにあることを告げる。
強く唇を噛み、頭を抱えるヴァス。
そして父親は娘のもとへと行き、主治医の言葉を、伝えた。
「サラ、落ち着いて聞きなさい。今、アルバーサはとても危険な状態なのだ。ここ数日が峠と…」
だから、覚悟を――――。
終わりまで聞くことがなく、サラは気を失った。
『アルバーサ』
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。
誰だろう。
そう思うも全身を覆う倦怠感と、激しい心臓の痛みに意識が朦朧とする。
全身の神経が一つになったような、一つの痛みだけをただただ伝えているような感覚。
苦しくて苦しすぎて、麻痺した身体は手が握り締められていることに気づかない。
ただ微かに、他の人間の体温が伝わってくるのを、どこかで感じた。
『アルバーサ』
呼ぶ声は心配そうな、苦しげなもの。
――――――――ヴァス…。
混濁した意識の中、胸の内で呟く。
『アルバーサ』
記憶が、混ざる。
自分を呼ぶ声。
いつも、呼ばれていた。
彼は心配そうに。
自分の身を案じて。
あの時も、あの時も、あの時も。
――――――あの時も。
「アルバーサ」
乱れた呼吸。熱く苦しげに吐かれる息。
顔を真っ赤に上気させ、心臓の痛みに強張り、潤んだ瞳。
呼吸をすることさえも苦しくてたまらない。
「アルバーサ」
火傷しそうなほど熱をもった頬にそっと手が触れた。
熱で焦点があわない瞳を必死で揺らす。
冷たい手の感触に心地よさをわずかに感じながら、ようやくその手の主を見つめた。
「…ヴァ……ス…」
ようやくのことで呟かれる言葉。
ヴァスはそっとアルバーサの唇に指をあて、喋らないように伝える。
「ずっとそばにいるから。早くよくなるんだよ」
穏やかに、励ますようにヴァスは言った。
アルバーサはヴァスの手を、朦朧とした手つきで触れ、力なく握り締めた。
「どこにも…いかない…でね…。ヴァス…」
「ああ…」
苦しみの中、だがほっとしたようにアルバーサは小さな笑みを見せ、目を閉じた。
発作が引いたのはそれから間もなくだったが、熱は数日下がることがなかった。
その間、仕事で忙しいはずのヴァスは何度も花とお土産をかかえて、お見舞いにやってきた。
まだきつくはあるが熱による倦怠感だけのアルバーサは、メイドに手を貸してもらい、少し身を起こした。
「寝てないと駄目だろう?」
真剣な顔で、たしなめるように言うヴァスに、アルバーサは朱に染まった頬を小さく膨らませる。
「大丈夫よ。もう…。微熱しかもうないもの」
「それでも…」
言いかけるヴァスにアルバーサが笑みをこぼす。
「ヴァスったら、まるでお父様のようだわ。今日はだいぶ体調がよくなったというのに、お父様もヴァスのように寝てなさい、寝てなさいっていってるばっかりなのよ」
確かにその瞳には生き生きとした光があり、元気そうだった。
ヴァスは苦笑を浮かべてアルバーサの頬に触れる。
くすぐったそうに頬を緩めるアルバーサ。
「皆君のことが愛しいから心配でたまらないのだよ」
「ヴァスも心配した?」
「当たり前だろう」
不謹慎とは思いつつも、アルバーサは目を細めヴァスを見つめる。
ヴァスは優しく微笑みかけ、ややしてそれを真剣なものに変えた。
「…アルバーサ」
少し間をおき、重く声をかける。
「なに?」
婚約して早、一年が経とうとしていた。
ベッドの上で大半を過ごしてきた少女の細い薬指には小さな宝石のついた指輪がはめられている。
いつものクセで指輪を撫でながら、アルバーサは無垢な笑みを浮かべる。
反してヴァスは相変わらず真剣なまま。
「ここ最近発作の頻度が多くなっていると思わないか?」
心配を多量に含んだ声に、アルバーサはわずかに眉を寄せた。
ヴァスから視線を逸らしうつむく。
「先週も一度発作が出ていただろう」
「でも…先週はごく軽かったわ。お薬ですぐに楽になったし」
言い訳でもするかのように、慌てて言い募る。
「リード先生とお父上も交えて3人で話をしたんだが…」
アルバーサが幼いころから主治医をしているリード医師。
不安げに恐る恐るヴァスを見上げる。
ヴァスはアルバーサの手を優しく握り締めた。
「静養地でゆっくりと治してみないかい」
「…静養地……?」
小さく呟き、視線を揺らす。
「綺麗な空気の場所で、新しい環境で一から…」
「い、イヤっ」
遮るように言って、アルバーサは顔を伏せた。
「………なぜだい」
困惑した表情で覗き込むヴァス。
ぎゅっと唇を噛み締め、ヴァスの顔をちらり見る。
「だって……」
静養地の療養所となると、どれだけ田舎へいくかわからない。
ヴァスはただでさえ仕事が忙しく、各地を飛び回っているというのに、療養所に入ってしまえばさらに会えなくなってしまう。
そんなことになったら、考えただけで発作などより辛くてたまらない。
「…………いや…」
駄々をこねるように漏れる声。
沈黙になり、しばらくしてそっとヴァスが手を伸ばした。
アルバーサの横に座り、肩に手を置く。
「アルバーサ…。実は、これから父が事業の拡大をするため、さらに仕事が忙しくなるんだ」
顔を上げるとヴァスはじっとアルバーサを見据えた。
「だからこれから仕事が一段落するまで…半年か一年か…。今までのようには会えなくなる」
胸がつまり、目を見開く。
「…私は…その間に君に少しでも元気になっていて欲しいんだ」
うっすらと涙が浮かぶ。
寂しい、いやだ、喉元まででかかる言葉を必死で飲み込む。
自分の狭い世界とは違い、ヴァスが広い世界で必死で生きているのをしっているから。
言えない。
言ってはいけないのだ。
わがままなど。
真剣な面差しにアルバーサはそう思った。
ヴァスの瞳は真面目で、そして自分への愛に溢れているから、だから彼をきちんと信じ認めなければならない。
「私が迎えに行くまで、君にも私の妻となるべく準備をしていてほしい」
涙を必死でこらえ、ヴァスの視線を受ける。
だが耐え切れなくなり大粒の涙が零れた。
「必ず迎えに行く」
細い肩を抱き寄せる。
「そして結婚式をあげよう」
涙が止まらない。
ヴァスはそっとアルバーサの涙をぬぐう。
「……わかったわ…。行きます」
目を閉じ、深呼吸を一つ。
そしてアルバーサは「だけど」とヴァスを見つめた。
「お願いがあるの」
「なんだい?」
「静養地に行く前に、あなたの妻になりたいの」
ヴァスは眉を寄せる。
「少しでも病気がよくなるように頑張るから、だから…。あなたの妻として、あなたのことを待っていたいの」
婚約という曖昧なものではなく、確かな位置にいたい。
そうすれば、会えくても我慢が出来るような気がした。
ヴァスはしばらく逡巡し、そして微笑んだ。
困ったように、だが嬉しそうに。
「わかった」
そうしてヴァスはアルバーサに口づけをした。
それから1ヵ月後、アルバーサの体調を考慮して極々身内だけで結婚式を挙げた。
そしてそこに―――――あの『青年』がいた。
ヴァスの古くからの親友だと言う。
優しい笑顔をした『青年』が。
すべてはたった一つの過ちが原因。
ただの間違いだったのだ。
そこになんの意味もなかった。
ただ。
ただ――――――――。
「会いに来るよ」
静養地まで付き添い、仕事のため帰っていった『夫』はそう『妻』に言った。
まだあどけなく幼い『妻』は必死に笑顔をつくって見送る。
『夫』が迎えにくる、その日まで。
『夫』に見合う『妻』として、がんばろうと。
だが、そんなものはあっという間に崩れ去る。
毎日、『夫』へと書かれる手紙。
数週間に一度、届けられる短い返事。
仕事が忙しいから、返事はいらない。
そう記すも、待っていないわけがない。
会えない。
来ない。
言えない。
静か過ぎる場所で、静か過ぎる生活。
いつか迎えに来てくれるから。
『夫婦』として元気に末永く暮らすため、今を我慢するのだ。
そう『妻』は言い聞かせる。
だが、耐えられない。
そして―――――。
「やあ、アルバーサ」
知っているような知らないような男の声。
穏やかな声に本から顔をあげると、一人の青年が立っていた。
銀色の髪が窓から差し込む陽光に白く輝いている。
深い藍色の瞳は優しい笑みをたたえ、アルバーサを映している。
アルバーサは一瞬、目をしばたたかせ、そして笑みを漏らした。
「まぁ、ジョージ。どうしたの」
大切な大切な、愛するヴァスのもっとも信頼する友。
結婚式の日、紹介された青年ジョージ。
ジョージはベッド脇の椅子に座る。
「実はこの療養所で働くことになったんだ」
「え?」
医者を目指しているのだと、ヴァスが言っていたのを思い出す。
だがまだ若いのになぜ静養地の療養所などで働くのだろう、そんな考えが浮かぶ。
そしてそれを見透かしたようにジョージは微笑した。
「この療養所は僕の恩師が院長をしているんだ。それで研修というか見習いというか修行というか…」
一瞬、首をかしげ、ぽんと手を打つ。
「そう、引き抜かれたんだ」
爽やかな笑顔でそう言ったジョージに今度はアルバーサが首をかしげた。
そして吹き出した。
「引き抜って…。だってまだあなた医師として働いたことないんでしょう?」
「あ。そういえば、そうだね」
ジョージは照れたように笑った。
アルバーサも笑った。
大切なヴァスを知る青年。
自分の世界を支配するヴァスが大切にしている親友。
だから、彼は自分にとっても親友。
幼い『妻』の無意識はそうインプットする。
退屈で寂しい毎日。
そして、ジョージが閉鎖された世界に入り込み、日々は過ぎていく。
話すほとんどはヴァスのこと。
会えない。
だがヴァスのことを知り、話し相手になってくれる人がいる。
それはアルバーサの心を、ほんの少し楽にした。
繰り返し聞いてしまうヴァスの子供の頃の話。
繰り返し聞いてしまうヴァスの学生の頃の話。
そしてその話を聞いているときが、一番の幸福な時間。
ヴァスを身近に感じる。
愛しい人のすべてを知る。
『妻』は繰り返される思い出話に、自分を溶け込ませる。
繰り返される思い出話が、まるで自分の思いでかのようになっていく。
夢。
逃避。
そして、いつしか少女は、青年の目に映る自分に気づく。
青年の目に浮かぶ感情に気づく。
それは―――――。
愛しいヴァスが愛しく自分を見つめるのと同じもの。
愛しいヴァスを自分が愛しく見つめるのと同じもの。
『夢』
愛しく見つめる眼差しが、ひどく懐かしかった。
もっと見つめて欲しいと思った。
結婚した夜、初めてヴァスにこの身を捧げた夜。
愛しく見つめて、愛しく触れて欲しいと思った。
夢、だったのだ。
困惑する青年の手をとり、自分の頬に触れさせた。
だが『夢』だったのだ。
辛そうに、だが耐え切れなくなった青年が、そっと口付けをした瞬間。
少女は『夢』を見たのだ。
目を閉じて。
目を閉じれば、なにも見えない。
愛しい、その想いがほとばしる指先が、自分の肌をすべる感触。
愛している、と肌を通して伝わる想い。
目を閉じていれば―――――。
自分を愛するのは『夫』だけ。
だから、自分を抱いているのは、ヴァスなのだ。
そう、目を閉じ、夢想したのだ。
愛し、愛されるのを実感するために。
自分を愛する青年を利用し。
都合のいい『夢』を見た。
だが――――そんなものは夢でもなんでもなく、ただの勘違いなのだと、そのことに気づいた時。
すべては手遅れだった。
そして。
少女は、泣き叫んだ。
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