9
イレイン―――――。
どこでだったろう、マリアーヌはイレインを凝視する。
イレインは驚くほどに痩せており、怯えていた。
さきほどA棟にいた少女たちと比べるのが間違いといえるほど、彼女の出で立ちは違った。
ブロンドの髪は乱れきっており、身体は骨と皮ばかり。布キレとしかいいようのないボロだらけのドレスをまとっている。
頬もこけ、薄茶色の瞳は恐怖の色をたたえていた。
「イレイン」
ジェシカが呼ぶ。
途端に、イレインは身を丸め、身体を震わせて逃げるように隅へと動く。
ジェシカはワゴンの上の小瓶をとるとマリアーヌに視線を向ける。
「マリー、彼女を押さえて」
言われて、一瞬間をおきマリアーヌはイレインの横に屈むとその肩に触れた。
瞬間、イレインが悲鳴ともつかない絶叫を上げ暴れだす。
その叫び声を聞いて、マリアーヌは身を震わせた。
泣き喚く少女。
そして――――
『イレイン・ストライフ、泣き止みなさい』
そう言ったのはハーヴィス。
あの時の、あの攫われ、売られてきた良家の子女。
呆然とマリアーヌはイレインを見る。
この少女が―――――。
イレインが振り回す手がマリアーヌにあたる。
だが痩せ細ったその手にはなんの力もない。
「マリー! しっかり押さえて!」
ジェシカの叱咤する声に、ハッと我に返るマリアーヌ。
イレインの後ろに回ると、羽交い絞めにした。
身を近くにして、マリアーヌは気づく。
彼女に無数の傷があることに。
細い腕や足には切り傷や青痣が、背中には刻印のような火傷の跡が、首筋にはまだ真新しい血の固まりがある。
マリアーヌの全身を震えが駆け巡る。
イレインの神経に響く絶叫に鳥肌が立つ。
必死で震えを押さえながら、マリアーヌは抱きしめるようにすがるようにイレインを押さえつけた。
ジェシカは1人冷静な眼差しをしている。イレインのそばにくると、顎をつかみ小瓶をイレインの唇に押し当てた。
イレインはイヤイヤと首を振り、口を閉ざす。
だが無理やり口を開かせ小瓶の中の液体を飲ませられた。
薄紫のイレインの唇の端から、液体がこぼれる。
ジェシカはぐっとイレインの口を抑え、飲み込ませた。
咳き込み、そして再びイレインが悲鳴、絶叫をあげる。
だがその声は徐々に力を失っていった。
イヤ、イヤ、イヤ、イヤ、イヤ、イヤ―――――。
タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ―――――。
静かな室内に、先ほどまで上がっていた絶叫がしぼんでいくのは、まるで蝋燭の灯がゆるゆると消えていくようだった。
怖かった。
イレインの唇からこぼれだす悲鳴が消える。
それが、怖かった。
いつのまにかイレインは暴れることもなく、全身の力を抜いていたが、それでもマリアーヌは固まったようにイレインを羽交い絞めにしたままだった。
「マリー、もういいわよ」
あくまで冷静なジェシカの声に、マリアーヌは数秒してようやくイレインから手を離した。
「支えていて」
ジェシカが言った。
マリアーヌは今度はそっと抱きしめるようにイレインの背に手を回す。
その手が、震えていることにマリアーヌ自身気づいていた。
イレインは先ほどまでとは打って変わった穏やかな目をしている。
いや、穏やかと言うよりは虚ろ。
この変貌はなんなのだろうか。
皿を取り、イレインのそばにかがみこむジェシカを見ながら、思う。
彼女が飲ませたのは一体何なのだろう、と。
だが聞けるはずもなく、マリアーヌは一口一口とゆっくり子供に食事を与えるようなジェシカと、それを受けるイレインを眺めることしかできなかった。
「嗜虐趣味の人間に出会ったことはない――――?」
ただ息をひそめ、イレインを支えることしかできないマリアーヌに、不意にジェシカが話し掛けた。
ジェシカはイレインの食べこぼしを丁寧にナプキンでふき取り、そして食べさせている。
「……話に聞いたことはあります」
か細い声でマリアーヌは答えた。
マリアーヌが過去に相手をした客の中にはいなかった。
だが他の娼婦からの話の中にはたまにいた。
苦痛に歪む顔や、血を見ないと欲情しない―――。
『ったく、勘弁して欲しいよ』
運悪く、その手の客にあたってしまった娼婦が深深とため息をついていたのを思い出した。
「このB棟はそういったお客様専用なの。もちろん嗜虐趣味だけでなく、ほかに特殊な嗜好をお持ちの方々がご利用にもなる」
マリアーヌは人形のように大人しいイレインの横顔を見つめる。
この少女はそういった嗜虐趣味の客のためのオモチャなのだ。
ここへ来る前は幸せな生活を過ごしてきたはずのイレイン。
それが今はただなぶられ、悲鳴しかあげることがない。
「………さっきの……瓶に入っていたのは……」
ぽつり呟くと、なんの躊躇いも感じさせない声でジェシカが説明した。
「あれは鎮静剤のようなものよ。さっきの状態では食事をさせるのも無理だから、薬を飲ませて落ちつかせているのよ」
落ち着く?
マリアーヌはワゴンに置かれた空の小瓶を見る。
イレインは落ち着く、というより意志をすべて取り除かれたようにしている。
困惑を隠せないでいるマリアーヌにジェシカが視線を止める。
「次の仕事が来る頃には薬の効き目がきれるようになっているのよ。そのときにはまたさっきと同じようなイレインに戻っているわ」
マリアーヌもまた視線をジェシカに向けた。
青ざめたマリアーヌとは対照的にジェシカの顔色に変化はない。
「苦痛を与えつづけていたら、それに慣れてしまうかもしれない。もしくは精神が壊れてしまうかもしれないでしょう?」
だから。
続くジェシカの言葉を、マリアーヌは身体を強張らせて聞いていた。
「だから―――。さっきの薬を飲ませるの。あれには鎮静、鎮痛、それに天国にいける薬がはいっているの」
幼子に説明するような、穏やかな声だった。
「……天国」
「そう、イレインは今とても素敵な夢を見ているのよ」
そうしてそれが終わったら――――。
「苦痛のあとに安らぎを与えてあげれば、いつだって新鮮な気持ちで次の仕事にとりかかれるということ」
新鮮な気持ち?
薬で地獄を忘れさせ、再び目覚めたら地獄。
苦しみが続くのもつらいが、幸せな夢から醒めた後の苦しみは、どれほどのものなのだろう。
無意識のうちに眉を寄せるマリアーヌに、ふっとジェシカが微笑した。
「今日は初日だから驚いたかもしれないけど……そのうち、慣れるわ」
なにに?
痛みになれることを許されない少女。
そんな少女を見慣れた少女。
そのどちらもが、マリアーヌにとっては怖かった。
――――裏の厩舎の横の倉庫にあるからとってきて。
蝋燭や他用品を書いたメモをジェシカに渡され、マリアーヌは地上に出た。
夜空には柔らかな光を放つ月と星たちが瞬いている。
マリアーヌはしばし眺め、そっとため息をついた。
B棟でイレインに食事を与えたあとはA棟の客室の掃除だった。
だが掃除の間も、イレインのことが頭から離れなかった。
いや、イレインだけでなく、他にいるであろうB棟のまだ見ぬ少女たちのことを考えると苦しくてたまらなかった。
お客様の望むままに――――。
それがこの『オセの家』のルール。
だがそれも商売なのだから当然だ。
ここへ売られてきたとき、娼婦として働く気でいた。
もしかしたらB棟にまわされていた可能性もなくはない。
どんなことでもする気でいたのに、イレインの姿を見て、はたして自分ができるのだろうかと思う。
もしハーヴィスの気が変わり、突然B棟へ行くよう言われたら……。
足が竦むのを感じた。
それはただ想像しただけだが、背を這う悪寒はどうしようもなかった。
それと同時に、自分の弱さに嫌気がした。
身を汚すことなく働いている自分。
美味しいものを食べ、場所は場所だが、ある意味健全な生活をおくっている。
ぬるま湯につかって、心も緩んでしまっているのだろうか。
マリアーヌは拭い去れない恐怖心にぐっと唇を噛み締めた。
深いため息をつき厩舎のほうへと足を向ける。
地下では阿片を片手に夢を見ている者たちが、嬌声をあげている娼婦達が、悲鳴をあげているものたちがいるとは思えない、地上の静けさ。
夜風がふわりとマリアーヌの頬を撫でる。
ほのかなランプの灯を頼りに静かにマリアーヌは歩いていた。
そのとき、不意に物音がした。
マリアーヌは右を見る。
小さな林のように背の高い木々が植えてあり、その奥には高い塀が屋敷を囲んでいる。
カサリ――――、と葉のこすれる音がした。
そして今度ははっきりと地面に降り立つ足音が地を伝ってきた。
「………誰かいるの」
ランプを向け、マリアーヌは震えそうになるのを押さえながら言った。
返事はなく、沈黙が支配する。
だが、確かに音がした。
マリアーヌは息を止め、半歩後退りした。
屋敷へ戻り、誰かを呼んだほうがいい。
そう、マリアーヌは思い、身を翻そうとした。
だが次の瞬間―――――。
木立から野太い腕が伸びたかと思うとマリアーヌの腕をつかんだ。
悲鳴をあげる間もなく、口をふさがれマリアーヌは木々の中に消えた。
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2006,2,4
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