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マリアーヌは静かすぎる執務室へと入りため息をつく。
最近はため息ばかりついているような気がした。
主不在の執務机、その椅子にこしかけペンを取る。
ハーヴィスがいないことがどうしても気になるがだからと言って仕事を無下にすることなどできない。
ここはハーヴィスの大切な屋敷なのだ。彼がいない間は任された自分がしっかりするほかない。
クラレンスから預かったリストを広げ目を通していく。クラレンスが新たにこのオセへ招くことにした客人たちも多くいる。その分しっかりと下調べもしておかなければならない。
ペンを取りマリアーヌは夜会へ向けてすべきことを記していった。
それはこれまでハーヴィスが傍らにいてのことだったというのにいまはひとりだ。
時折そのことを思い出しては気分が陰ってしまっていた。
いつもとは違い長く続かない集中力に気分でも入れ替えようかとマリアーヌは紅茶をいれるために立ちあがった。
ちょうど視界に扉から入ってくる影に気づく。
ニャア、と静かな声音で鳴くカテリアにマリアーヌは顔をほころばせた。
「カテリア。ちょうど紅茶をいれようとしていたのよ。休憩に付き合って」
腰を屈め手を広げれば優雅な足取りでやってきたカテリアはすり寄るようにしてマリアーヌの腕の中へ入り込む。
滑らかな毛並みを撫でながら抱きかかえ執務室の向かいにある給湯室へと行く。限られたものしか使わない執務室専用の給湯室にはマリアーヌが選んだ茶器や配合した紅茶などが置かれている。
湯を沸かしながらもぼんやりとしてしまうマリアーヌの頬が舐められる。視線を向ければカテリアが見つめていた。
すぐに目元を緩めながらマリアーヌはカテリアの喉元をくすぐった。
「どこにいったのかしらね、我がオーナーは」
困ったものね、と苦笑しながらも寂しげにこぼすことができるのはカテリアにだけだ。
慰めるように指先を舐めてくるカテリアに心が落ちついてくる。
湯が沸き、カテリアを傍らにおろすと丁寧に紅茶をいれていく。その慣れ親しんだ工程も心を静かにさせた。
お気に入りのティーポットとカテリアが気にいった柄で手作りしたティーコジー。そしてカップと、チョコレートを皿に乗せる。葉模様の銀製トレイにそれらを乗せて執務室へ戻る。
やはりそこにはハーヴィスはいないがカテリアが傍にいるだけで気分は違う。
「そうだわ。今度またピクニックに行きましょう?」
久しくハーヴィス、そしてカテリアと出かけるということがなかった。
ソファに腰掛け、その膝の上にのってきたカテリアの背を撫でながら紅茶を一飲みしマリアーヌは胸の奥に残る不安を吹き消すように笑顔で提案した。
―――ニャア。
カテリアは短く小さく鳴くと身を丸め、そして冷たく輝く瞳を隠すように目を閉じた。


***


物音が聞こえたような気がしてマリアーヌは瞼を上げた。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。
ハーヴィスの執務机の上にはクラレンスから預かったリストや顧客リスト、そして夜会に関する大まかな必要事項を書いた紙が広がっている。
机に突っ伏して寝てしまうなんて―――と内心ため息をつきながらも、ぼんやりと眠気が残る頭を軽く振る。
ティータイムのあとそのままソファで寝ていたカテリアの姿はなく書類を整理し束ねていきながらマリアーヌは視線を流した。
柱時計を見ればもうあと少しすれば夜が明けるだろう時間だった。
とすれば2時間はこの場で寝ていたということだ。
今度ははっきりとため息がこぼれ、マリアーヌはしばし逡巡したあと自室へ戻ろうと腰を上げた。
ハーヴィスはもう戻ってきたのだろうか、まだだろうか。
扉を開け、蝋燭の灯がともる廊下へと足を踏み出す。
自室へと向かう途中、蝋燭の灯が揺れ影もまた揺れ足音が混ざった。
「……ハーヴィス……?」
見知った後ろ姿に声をかける。
明るすぎない、ほの暗い廊下でも外套の色や背格好からまぎれもなく彼だということがわかりマリアーヌは思わずほおを緩め駆け寄った。
「おかえりなさい!」
朝帰りであろうと帰って来てくれるだけでいい。
走るなんてはしたないとわかっていながらも帰って来てくれたという当たり前のことがいやに嬉しく弾んだ声が出てしまっていた。
振り向かないハーヴィスへと手を伸ばし、その腕へと触れようとした―――寸前で手が弾かれる。
ゆっくりとこちらを見たハーヴィスの無表情で冷たい眼差しに息を飲むと同時に拒絶された手を握り締めた。
暗い陰鬱さを宿す瞳に帰宅を喜ぶ心は一気に暗いものに覆われマリアーヌの表情は強張る。
「……まだ起きてたんだ」
抑揚のない声からははっきりとした感情は読みとれないが、それでもマリアーヌから呼び止められたことを歓迎していないことはわかった。
「え、ええ……。あの、ハーヴィス」
会話に悩んだことなどなかったはずなのに言葉が出てこない。
逡巡しながら思考が行きあたるのは仕事のことのみでクラレンスの話題を持ち上げようとしたところで「悪いけど」と遮られた。
「疲れてるから寝たいんだけど」
はっきりとした嫌悪を含んだ声音にマリアーヌはわずかに目を見開き視線を伏せた。
「ごめんなさい。呼び止めて」
「……いや」
短く言いハーヴィスが身をひるがえした瞬間ふわりとマリアーヌの鼻孔を甘い香りがくすぐった。
微かな、だけれども確かな女物と知れる匂い。
そして俯いた視界に入ったハーヴィスの手に、考えるよりも先に身体が動きマリアーヌはその手を掴んでいた。
「怪我をしてるわ」
ハーヴィスの手の甲にひっかき傷らしきものがあった。
―――爪を立てられたような。
「消毒を、しないと……」
どこでなにをしていたのか。ひっかき傷をつけるような"雌猫"にでも会っていたのか?
胸を突く痛みに息をひそめながら誰とも知れぬものにハーヴィスが傷つけられたのが嫌で掴んだ指先をきつく握る。
「ハーヴィス。少しだけでいいから私の部屋に……」
「マリーちゃんってさ」
からかうような呼び方にはどこか嘲笑を孕んでいるように思えた。
静かな廊下にはふたりの影が伸び、蝋燭の火が揺れるたび同じように歪む。
目を細め見下ろしてくるハーヴィスにマリアーヌは不安だけを募らせながらその言葉の続きを待つ。
ゆったりと弧を描いた唇が言葉を形どろうとし、同時にもう片方の手がマリアーヌへと伸ばされた。
「本当に」
心臓が早くなり身体に緊張が走る。ハーヴィスがなにを言うのかわからないがそれでもまるで―――傷つけられそうな、そんな予感が胸の底に湧きあがろうとしていた。
だが、痙攣するようにハーヴィスが眉を寄せる。
そしてハーヴィスの手が届くより先にマリアーヌの身体を抱くように腕がまわり気づけばハーヴィスとの間にすらりとした長身が割り込んだ。
「ハーヴィス様、お戻りになられていたのですね。お時間がありましたら仕事のことでいくつか確認したいことがあるのですが」
いつのまに近くへいたのか。まったく気配など感じなかったのにマリアーヌの目の前には間違いなくエリックがいた。
自然とハーヴィスの手から手が離れ、エリック背の後ろにされたせいでハーヴィスのことが見えなくなる。
「―――マリーに聞いてくれ。俺はもう部屋に戻るから」
「わかりました」
それだけのやりとり。直後足音が響きだす。
ハーヴィス、と呼んだところで届かないだろう。距離がどうということではなく、呼ぶこと自体が憚られるような妙な空気が漂っていた。
再び視線を伏せれば狭まった視界の中でエリックが自分の方を向くのがわかった。
「お部屋までお送りします」
そっとエリックがマリアーヌの腰に手をまわし促す。
「……仕事のことは良いの?」
「明日で結構です」
「……」
ならばなぜ、先程割って入ったのだ。
「ひとりで戻れます」
「マリアーヌ様、お送りします」
重ねるように言われマリアーヌは返事のかわりにため息をついた。
このような態度をとるべきではない。そう分かっていても胸の内に広がる靄にマリアーヌはエリックを視界から外した。
それゆえエリックがどんな表情をしているのか分からない。だが気にした様子もまったくなくマリアーヌを促し歩き出す。
仕方なく黙って自室へと送り届けられるしかなかった。

 




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2014,9,21