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何が起こったのかわからなかった。
天井が見えたのはほんの一瞬。いま視界を塞ぐのは間近にあるハーヴィス。
そして口内を這いまわる舌に息もできないほどに浸食され、理解する。キスをされているのだと。
寝ぼけているのだろうか?
目が合ったときのハーヴィスは夢うつつといった感じだった。その瞳がマリアーヌを認識していたのか、わらかない。
ハーヴィス、と名を呼びたいが口づけは荒々しく何度も深く重ねられて言葉を紡ぐことなどできず、ただ熱い吐息とおさまりきらない唾液が唇の端からこぼれる。
「……んっ」
激しい口づけに頭は熱を帯び霞んでゆく。気づけばマリアーヌも必死に応えるように舌を絡め合わせていた。
止むことのない口づけの最中、びくりとマリアーヌは身体を震わせた。
後頭部にあてられていた手が背筋をなぞり、腰から腹部へ、そして上へと這い上がってくる。緩やかな曲線を描く胸に手が這い、服越しだというのに一気に身体が熱くなる。
混乱と羞恥と、期待。
たとえ夢うつつだとしてもハーヴィスに触れられているという事実にめまいを起こしそうなほどの陶酔感が押し寄せていた。
やがて唇は銀糸を引いて離れる。すでに思考は熱に犯され、甘い痺れが身体中に蔓延していた。
「……っ……ぁ」
小さい、だが艶を含んだ吐息混じりの自分の声を耳にしマリアーヌの頬が一層朱に染まる。
ハーヴィスの唇は首筋へと押し当てられていた。這うようにして下りていく唇の感触。ざらりとした舌が肌を滑る感触。
火照った肌は粟立ち、微かに震える。
マリアーヌは耐え切れずに吐息を幾度もこぼしながら自分に覆いかぶさっている男の首に手をまわした。
「―――……ハーヴィス」
もっと、という欲求を名を呼ぶことで告げる。
このまますべて溶けてまじわりたい、熱に浮かされるように想ったその欲は―――、突然に停止した。
大きくハーヴィスの身体が震え、すべての動きが止まったのだ。
与えられる刺激がなくなったことに目を閉じていたマリアーヌは潤んだ目を開ける。
そしてゆっくりとハーヴィスが顔を上げた。
その瞳がマリアーヌを捉える。
思わず息を飲んだのはマリアーヌだった。
ハーヴィスは驚愕に目を見開きし凍りついたようにマリアーヌを見つめている。
やはり寝ぼけていて目が覚めてしまったのか。と、落胆に似た想いを感じながらハーヴィスの頬に手を触れた。
再びハーヴィスの身体が震え、マリアーヌから勢いよく離れた。視線がマリアーヌと身体へとそそがれ、そして何かを探すように左右を見渡す。
―――ハーヴィス?
どうしたのかと声をかけたいが、愕然とした表情で顔を青褪めさせるハーヴィスに言葉がでなかった。
ハーヴィスは確かめるように何度もあたりを、マリアーヌを見、ややして深いため息をつき、両手で顔を覆い俯いた。
そんなにも自分に触れるのが嫌だったのだろうか。不安を胸中に過らせながら、マリアーヌは片手をつき半身を起した。
「……ハーヴィス」
ようやく名を呼ぶ。
しかし返事はなく、困惑していると、ハーヴィスが顔を上げた。
「………っ」
その瞳がマリアーヌを射抜く。
甘く熱く火照っていた身体は冷や水を浴びせられたかのように一気に温度を下げた。
息が止まりそうになるほどに、向けられた眼差しは冷たかった。
普段のハーヴィスからは考えられないほど暗い瞳。
陰鬱なその双眸は冷ややかさとともにはっきりとした憎しみを宿している。
「………あ……」
背筋を悪寒が、恐怖が走った。
身を竦ませるマリアーヌに、ハーヴィスは片手で目を覆い吐息を吐きだす。
苛立ちを混じらせたようなそれにマリアーヌはシーツをきつく握り締めた。
「……悪いけど、出ていってくれないかな?」
"いつもどおり"を取りつくろったような声だった。
明るくかけられた声。だがあきらかに作られたその声の裏にははっきりとした拒絶がにじみ出ている。
顔は伏せたままマリアーヌと視線を合わせてくることもない。
「……あ、の」
小さく震える手でハーヴィスに触れかけた。だが寸前で空気を裂く音が響く。
マリアーヌは呆然と弾かれた自分の手をもう片方の手で握り締めた。
「ごめんね、マリーちゃん。ちょっと体調が悪くてね。出ていって……くれるかな?」
笑いを含んだ声。だがそれもすべて見せかけ、作りものでしかない。
いままでにないハーヴィスの反応に目の奥が熱くなる。涙が瞳に薄い膜をはる。マリアーヌはぎゅっと唇を噛み締めて震えそうになる声で、
「ご……めんなさい」
と呟くとベッドから転がるように下り、部屋を走って出ていった。
部屋の扉を後手に閉め、ずるずると扉を背にしてその場に座り込む。
少し前までは甘い痺れが支配していたというのに今は恐怖に似た不安で身体が震えていた。
寝ている間にベッドに入り込んでいた自分をどう思ったのだろうか。
ハーヴィスが寝ぼけていたとはいえ、それに身を任せようとしていた自分をどう思ったのだろうか。
振り払われた手。
自分に向けられていた冷たい眼差し。
それがすべての答えのような気がした。
自らを両手で抱きしめうなだれるマリアーヌ。
どうしたらいいのだろうか。
ハーヴィスは自分を嫌いになったのではないだろうか。
不安は恐怖で、涙がこぼれおちそうなほど浮かんでくるのを防ぐことができない。
だがこんなところで泣いているわけにはいかない。
わずかに残る理性がそう呼びかける。自室に戻らねば、と壁に手をつきゆっくりと身体を起こしたところで声がかかった。
「―――マリアーヌ様? いかがなされたのです」
心臓が跳ねる。
いま自分がどんな顔をしているのか。後ろからかかった声に、振り向いていいのか躊躇った。
深呼吸を繰り返し急いで気持ちを落ち着かせる。
「……マリアーヌ様?」
冷静な中にわずかな不審さをにじませた声。毎日聞く声の主―――マローにもう一呼吸置いてマリアーヌは振り返った。
『なんでもありません』
と、『ハーヴィスが帰ってきているか確かめに来ただけ』だと、言おうと思っていた。
だが振り向いた先にマローとその隣にいるエリックに気づき、思わず言葉を詰まらせる。
執務室でのエリックの行動が甦り何故か動揺した。
そしてエリックの視線がまっすぐに向けられ、その瞳が揺らぎ、その眉が皺を寄せるのを認めマリアーヌはどうしようもない不安に心臓が軋むのを感じた。
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2010,10,16
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