62
主不在の執務室。豪奢な革張りの椅子にマリアーヌは腰掛けていた。
室内にはマリアーヌしかおらず、書類を眺めながら深いため息がこぼれおちる。
『明日は……ちゃんと出てきてね』
そうハーヴィスに言ったのは昨日のことだ。
『わかったよ』
確かに答えをもらったはずなのに、今日もまたハーヴィスは仕事にでてきていなかった。
というよりもオセの家に帰ってもきていない。
すでに今日ももう夕方になろうというのに。
マローが言うにはジェイル神父のところでの用向きが長引いているということだが、それが真実かどうかはわからない。
もう丸一日が経つというのに帰ってこないことなどこれまでなかったことだ。
ハーヴィスのいない執務室は寂しく、思わず執務椅子に座ってしまっていた。
ぬくもりなど残っているはずもないが、それでも落ち着くのはなぜだろうか。
仕事に集中しなくてはと思いながらも気づけば気はそがれ、主の帰宅を待ちわびてしまう。
ハーヴィス宛ての手紙を開封し中身を確認していると扉がノックされた。
マローだろうか。
マローであって、ハーヴィスの帰宅を知らせるものであればいいのに。
「―――はい」
だが返事をしながら扉を見つめるマリアーヌの耳に聞こえてきたのは、
「失礼します」
久しぶりに聞く男の声だった。
待っていた一番聞きたい男の声ではなかったがマリアーヌは顔を輝かせ椅子から立ち上がる。
扉が開き室内に入ってくる男の元へと駆け寄った。
「久しぶり、エリック!」
買い付けの旅へと出ていたエリックとは2週間ぶりの再会だった。
数か月会うこともなかったときを考えれば最近は短いスパンで顔を見せるようになっていた。
「ご無沙汰しております、マリアーヌ様」
相変わらず恭しく頭を下げるエリックに笑みがこぼれてしまう。
「元気にしていた? 変わりはない?」
「はい。マリアーヌ様もお変わりございませんか」
マリアーヌはエリックをソファーへ促しながら頷く。
エリックがすぐにソファーへ座ることはない。いつも一線を引くエリックに微笑みかけながら、座って、と先に腰を下ろし傍らを叩いた。
一礼してからエリックも腰掛ける。
敬語も遠慮も自分になどする必要などないのに、とマリアーヌは思うがそう言ったところでエリックの態度は変わらないだろう。
くつろぐでもなく浅く姿勢よく座るエリックを微苦笑を浮かべマリアーヌは横目に見ていた。
それからいつものようにエリックの旅の話を聞き始め、それがひと段落したとき不意にエリックが低く呟いた。
「……マリアーヌ様」
名を呼ぶその声に、ほんのわずかだがなにかいつもと違う響きが混じっているような気がした。
なんだろうか、と不思議にエリックを見つめながらマリアーヌは小首をかしげる。
「夜会……無事終わられたと聞きました」
重々しく口を開いたエリックにマリアーヌは拍子抜けし小さく笑う。
「まぁ、大げさな。気になっていたの?」
例の―――彼の男が参加していた夜会はそんなに一大事だったのだろうか。
確かにクラレンスと対をなすあの男がもしオセの家に関わるとなれば―――……。
「はい。案じておりました」
彼のダスティアンについて巡らせていた思考は、予想外に真摯なエリックの言葉に途切れる。
「え?」
ダスティアンには黒い噂が多々ある。そういう点を含め、エリックは自分の身を案じていてくれていたのだろうか。
心配してもらうというのは、申し訳ないと思うのもあるが、少し嬉しくもある。
マリアーヌはふと口元を緩めかけたが、微笑を浮かべるよりも先にエリックが立ち上がった。
呆けるマリアーヌの足元にエリックが跪く。
「どうしたの?」
どこが様子がおかしいエリックに問うが、それに対する答えはない。ただエリックの手が伸びマリアーヌの手を取った。
そして手の甲に唇が押し当てられる。
驚くマリアーヌにエリックはまっすぐ視線を向けた。その眼差しにマリアーヌは何故か怯んで、言葉を失くす。
エリックは普段からさほど饒舌なほうではない。行動も然り。陰で静かに動く男だ。マリアーヌに対して態度は柔らかくはあるがエリック自ら行動を起こすようなことはない。
挨拶としてのキスもされたことはない。
それがなぜいま、熱く真剣な目で見つめ、自分の手を取っているのだろうと、マリアーヌは戸惑った。
ハーヴィスとは違う若干冷たい手に触れられて、妙な違和感を覚えた。
それがハーヴィス以外に触れられているせいか、それともなにかを言いたそうにしているエリックのせいかはわからない。
マリアーヌは視線を揺らしエリックからの言葉を待った。
「………マリアーヌ様」
旅の話をしていたときの明るい空気は消え失せ、室内に残るのは重く身体に絡みつくような静けさ。
マリアーヌは返事をすることもできずエリックを見つめる。
何故自分がこんなにも不安に―――そう、不安になってしまっているのか。
「俺が……貴女のそばにいることを少しでもいいので心に留め置いてください」
「―――……え?」
突然言われた言葉の意味を理解するには至らず、思わずマリアーヌは眉を寄せた。
「マリアーヌ様のことは俺が守ります」
そう言ってもう一度、エリックはマリアーヌの手の甲に口づけた。
手の冷たさと違って唇は暖かい。柔らかな感触にマリアーヌはやはり呆然とすることしかできないでいた。
「……どうしたの……? 急に」
縫い止められたかのように動かすことができなかった唇をようやく動かす。
エリックはマリアーヌから手を離し立ちあがった。揺れる漆黒の髪。一瞬閉じた瞼が次に上がったときには先程までとは違った冷静な瞳がある。
それを認め心の底で安堵しながらも、戸惑いは解けない。無意識に口づけられた手の甲を隠すようにもう片方の手で握り締めた。
「いえ―――。ただ言っておきたかっただけです。突然申し訳ありません」
静かに告げるエリックの態度はいつもとかわらないものに戻っていた。
その瞳からは何も読み取ることができず、なんと返事をすればいいのか逡巡する。
"守る"と、言った。ならば礼を言えばいいのだろうか。
だけれどやはりなぜ急に、と思わずにはいられず、先程自分を見つめる眼差しが心に引っ掛かりなにも言いだせないままでいた。
次いで口を開いたのはエリックで、「マローに報告等ありますので、失礼します」と一礼してきた。
それに対しようやくマリアーヌは笑みを浮かべて頷いた。
部屋を出ていくエリックの姿を見送り、扉が閉まり―――マリアーヌは深い吐息をつく。
無意識にこぼれた吐息に眉を寄せた。
なにをこんなにも戸惑っているのだろうか。エリックが言ったことはさして深い意味などないのかもしれない。
ただ―――あの瞬間自分に向けられていた眼差しが……どこかで見たことがあるもので、それがひどく胸を騒がせていた。
気のせい、と振り切るようにマリアーヌは目を閉じもう一度深いため息を吐きだす。
ソファーにゆったりと背を預け視線を向けた先は執務椅子。
いつ帰ってくるのだろうか。
なぜかいま無性に会いたくてたまらなくなっていた。
しばらくの間ぼんやりと思い出すように椅子に座る彼の男を夢想していたマリアーヌはゆっくりと立ち上がり執務室を後にした。
部屋の中は暗く、静けさに包まれている。足を進め居間から寝室へと入ると、マリアーヌは足を止めた。
視界にある大きなベッド。そこに横たわる身体。
再び足を動かし、そばに近づく。
「……帰ってたのね」
呟きとともにマリアーヌは頬を緩め、そっと手を伸ばした。やや癖のあるプラチナブロンドの髪を撫でる。
酒をどれほど飲んでいるのだろうか。服を着替えもせずにベッドに横になっている。充満している酒の匂いに苦笑しながらベッドに腰掛け、何度も男の―――ハーヴィスの髪を梳く。
ハーヴィスに髪を撫でてもらうことは多々あるが、逆はない。
意外に柔らかい髪の手触りを楽しむようにゆっくりと指を潜らせながらハーヴィスの寝顔を見つめる。
飲酒のせいかよほど深い眠りにあるようだ。
規則的な寝息を立てているハーヴィスはぴくりとも動かず、起きる気配はまったくない。
「ハーヴィス……」
小さく囁き、髪から頬へと指を滑らせた。
よくハーヴィスが自分へとするように。
きゅ、と心臓の奥の方が苦しくなるのはなぜなのか。これも"恋"というもののせいなのだろうか?
ずっと寝顔を見ていたいという想いと、その目を開け自分を見つめて微笑んで欲しいという想いが交錯する。
甘く苦しい想いに、マリアーヌはそっと身をかがめ―――ハーヴィスの頬に口づけを落とした。
「―――好き」
囁き、また頬を撫でる。
もしも―――いま寝ているときではなく目覚めているときにそう告げたら、彼はなんと言うのだろうか?
この想いの行く末を、答えを教えてくれるのだろうか?
いくどもゆっくりと指を滑らせていた、瞬間。
不意にその指が止まった。
驚くマリアーヌの目に、自分の指を掴むハーヴィスの手と、そして虚ろな目をしたハーヴィスが映った。
起きたの、と言うためにほんの少し唇を開きかけた。
だが言葉になる前に掴まれていた指が手首にかわり、強く引っ張られた。
引きずられるようにして身を崩すマリアーヌが驚きの中で見たのは部屋の天井。
そして瞬く間もなく、唇が塞がれ熱いものが口内に入り込んできた。
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2010,10,14
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