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その日も、なんら変わらない一日だと思っていた。
夜会があった翌日、マリアーヌはいつもと同じように目覚め、朝食をとり仕事にとりかかる。午前中はドリール、午後はマローと仕事のやり取りをする。昼と夕方はカテリアと過ごす時間だった。
「オーナーは今日お休みされます」
そうマローが言ったのは夕方、カテリアのもとから仕事へと戻ったときだ。
「休み?」
怪訝にマローを見る。冷静沈着さを身にまとったマローは「はい」と頷く。
何故、と訊く前にマローは続けた。
「二日酔いだそうです」
淡々とした口調にマリアーヌは一瞬後深いため息をついた。
手にしていた今夜来館予定になっている顧客のリストを眺めたあと、「わかりました」とだけ返した。とくに今夜オーナー自ら出る必要がある接客はない。商談だけならマリアーヌとマローだけで十分事足りる。
それからいくつか今夜の商談のことについてマローと打ち合わせをし、長い夜は始まった。
その夜は客が途切れる間がなく、ようやく仕事を切り上げたのは深夜3時ごろ。自室に戻りナイトウェアに着替え髪を梳かしていたときにマリアーヌはそういえばと思いだした。
「ハーヴィス、大丈夫かしら?」
結局まったく顔を見せることがなかったハーヴィス。
様子を見に行こうと思っていたものの、行く暇がなく一日を終えてしまったのだ。
今から行くにしても時間も時間。今夜は諦めることにし、明日は少し説教でもしなければならないかもしれない、などと考える。
お酒の飲み過ぎで休むとは、ハーヴィスならありえることではあるが実際今夜がはじめてのことだった。 仕事のことはもちろんとして身体のことを考えてもお酒の飲み過ぎはよくない。それこそ毎日のように再三マリアーヌはハーヴィスに注意をしていた。
寝る準備を整えたマリアーヌはベッドにもぐりこみながら、ハーヴィスのことを想い、目を閉じた。
「え?」
一夜明けた翌昼間。執務室にいたマリアーヌへとマローが伝えたのはまたしてもオーナー不在の連絡だった。
「どういうことですか?」
眉間にしわをよせマリアーヌはマローを見上げる。
二日続けてオーナー不在などいままでないことだった。昨日の突然の休みでさえ驚くことだったというのに、今日もまたなど理解できない事態だった。
怪訝さを含んだマリアーヌの声色に表情を変えることなくマローは淡々と告げる。
「本日は外出のご予定があるそうです」
「外出?」
ハーヴィスが出かけることが珍しいというわけではない。
だがその行動を最近はほとんどマリアーヌは把握していた。だというのに、今日の予定をマリアーヌは知らない。
「どちらへ?」
「私用としかお伺いしておりません」
あくまでも事務的にマローはそう言うと、その話は終わったとばかりに娼婦達のことを話しだした。娼婦の体調や人間関係、仕事ぶりなどの報告は常のこと。だがなにか違和感を覚えた。
相槌をうちながらも頭の端でハーヴィスのことを考えずにはいられない。
そうしてマローとのやり取りを終え、マリアーヌはハーヴィスの自室へと赴いた。
ノックをすれば中からハーヴィスの返事がある。丸一日ぶりに聞いた声はいつもと変わらない様子で安堵しながらドアを開けた。
室内に入るとハーヴィスはタイを締めているところだった。ソファーの背もたれには無造作にジャケットが置かれている。
「やぁ、マリー」
向けられた笑みはいつもと同じ穏やかなものだ。今日は二日酔いでないのかさして顔色は悪そうではない。
ただ二日間も仕事を休むということに怒りというよりも、なぜ直接自分へ言ってくれないのかという拗ねたような感情にマリアーヌは無言でハーヴィスの傍に歩み寄った。
そして結びかけのタイに手を伸ばし、綺麗に整える。
「ありがとう」
笑顔で見下ろすハーヴィスにやはりマリアーヌは無言で視線を向けた。
「どうかした?」
問いかけながらハーヴィスはソファーに置いてあったジャケットを取り、羽織る。そして寝室のほうへ向かう。その様子を見つめながらマリアーヌは暗いものが胸に落ちていくのを感じた。
「………どこへ行くの?」
その声がどれほどの声量をもったものだったかマリアーヌ自身わからなかった。
取り残されたような疎外感を覚え、こぼした言葉がハーヴィスへ届いたのかわからない。
マリアーヌの視界から消えたハーヴィスは香水の瓶を片手に寝室の戸口に立ち、マリアーヌを見遣る。
「何か言ったかい?」
「………どこへ行くの……」
先程と変わらぬ言葉を吐きだす。今度ははっきりと聞こえるように。
ハーヴィスは香水を自らへ吹きかけながら、やはりいつもと変わらぬ笑みを浮かべた。
「ジェイル神父様のところだよ」
「………ほんとうに?」
思わず問い返すマリアーヌにハーヴィスは笑ったまま首を傾げる。
ジェイルのもとへ行くのだとすれば、なぜマローはわざと話題を換えるようなことをしたのだろうと思ったのだ。
もっともわざと換えた、というほどのことはなかったのかもしれない。ただ違和感を覚えただけなのだから。
「ジェイル神父様のところへ―――行くよ」
目を眇め、ハーヴィスはマリアーヌの前に立った。
その手が伸びマリアーヌの頭を一撫でし、そのまま頬に落ちる。
「ああ、そうだったね。昨日も今日も……休んでしまってごめんね、マリー。でもね?」
頬から顎へと手を伝わせ上向きにさせるとマリアーヌの顔を覗きこむ。
伝わってくるハーヴィスの体温に心が懐柔されるのを感じながらも、抵抗もできずにハーヴィスを見上げることしかできない。
「マリーが頑張ってくれているから、僕も安心して出かけられるんだよ。信頼しているんだ。マリーになら仕事を任せられると」
そう言われて、これ以外子供みたいに拗ねるような真似が出来るはずがない。
マリアーヌは信頼されているという喜びを感じながら、それでも心許なげに瞳を揺らした。
「マリー?」
囁きながらハーヴィスが顔を近づけてくる。唇が触れそうなほど近づき、思わずマリアーヌはまぶたを閉じた。
それは条件反射のようなものだった。だけれども期待がともなったものでもあり―――。
ふ、と笑う気配がした。
「……本当に可愛いね、マリーは」
なにか、ある色を含んだその声にマリアーヌはまぶたを上げようとしたが、その前に唇におりた温もりにきつく目を閉じた。
唇の表面を熱いものが舐め、すぐに離れていく。
ほんのわずかしか触れなかったその行為に、物足りなさを感じながらマリアーヌは目を開けた。
「僕がいない間、オセの家を頼むよ」
目前にいるハーヴィスがマリアーヌの頬を撫でながら、口角を上げる。
マリアーヌはそっと手を伸ばし、ハーヴィスの胸元に手を当てた。
「……明日は……ちゃんと出てきてね?」
ただ―――寂しいから。
そう言えば、男は目を細め了解の意を唱えながら、薄く笑った。
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2010,7,9
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