60
重い沈黙の中、夜風が2人の間をすり抜けて行く。
先に口を開いたのはローランドだった。
「……マリアーヌ、戻りましょう」
そうして差し出された手。
マリアーヌはわずかに顔を上げ、ローランドを見た。
まだ多少強張ってはいるが笑みを浮かべている。
それに安堵を感じながら、その手に手を重ねる。途端きつく握りしめられた。
目が合い、ローランドは瞳を揺らした。
「あの方は……」
それがダスティアンのことということはすぐに分かった。
「……あまり近づかないほうがいいと……思います」
視線を逸らし、ローランドは言う。その声はどこか弱々しかった。
マリアーヌはなんと返せばいいのか逡巡する。
あのダスティアンに近づくとすれば仕事上のことでしかあり得ない。もちろんローランドもそれをわかってはいるだろう。
だからこそ、その心配に対して何と言えばいいのかわからなかった。
うつむき言葉を探してしまう。
「―――申し訳ありません」
だが言葉を発したのはローランドのほうだった。
マリアーヌの頬にローランドの手がそっと触れる。
見上げると、ローランドは苦笑をこぼした。
「余計なことを言いました」
「……いえ」
小さく首を振る。ローランドの手は頬に置かれたままで、マリアーヌは目を合わせることができずにいた。
「……なにか……僕でお役に立てることがあったらいつでも言ってください」
心配に彩られた声に、ようやく視線が合う。
見入られるようにマリアーヌはローランドの真剣な目を見つめた。
「―――……ありがとうございます」
ローランドの真っ直ぐすぎる気持ちは、切なくて、そして申し訳なくて、マリアーヌは目を伏せた。
やはり、この青年に闇は似合わない。
自分のような者のそばにいてはいけないのだ―――と、そう思った。
それからローランドと2人広間へと戻った。
ダンスをし、オセの家の顧客でもある招待客たちに挨拶をし、世も更けた頃夜会を辞した。
いつも以上に疲労感を覚えていたが、ハーヴィスに今夜の報告をしなければいけない。
着替えるのも億劫だったのでそのままハーヴィスの執務室へと赴いた。
ノックをすると、「どうぞ」と返事がある。
一声かけ、中へと入った。
「やぁ、お疲れ様」
途端に、ハーヴィスから声がかかる。目を向けて、マリアーヌは不思議に思った。
やけにハーヴィスがにこやかなのだ。いつも笑みをたたえてはいるが、今日は一段と機嫌がよさそうな雰囲気をしている。
どうしたのだろうか、と思いながらも夜会についての報告をしようとした。
だがそれより早くハーヴィスが口を開いた。
「おいで、マリー」
執務机に寄りかかるようにして立つハーヴィスがマリアーヌを手招きする。
「なに?」
怪訝に思いながらも近づくと、ハーヴィスの腕が伸び、マリアーヌの腕をつかみ引き寄せた。
驚いた次の瞬間には温もりに包まれていた。
それがハーヴィスの腕の中だからだということに気づき、一気に鼓動が速まる。
「ど……うしたの?」
上擦りそうになるのを必死でこらえて訊くと、ハーヴィスはマリアーヌを抱きしめたまま顔を覗きこんだ。
「よくやったね、マリー」
やはり上機嫌、としかいいようがない。
こんなにも嬉々とし、浮かれていると言っても過言ではないようなハーヴィスを見るのは初めてだった。
だがハーヴィスがいったいなにを喜んでいるのか、なにを言っているのかわからない。
返答に困りわずかに眉を寄せると、ハーヴィスは楽しげに声をたてて笑った。
「例の方と話したそうじゃないか」
その言葉にようやくマリアーヌは合点した。
おそらくあの夜会にはオセの家の密使がいたのだろう。そしてマリアーヌとあのダスティアン、ジェラードのことなどもすべて―――見られていたのだ。
「まさか、こんなにも接近するなんて予想外だよ」
ハーヴィスは満面の笑みでマリアーヌを見つめてくる。
「……少しお話しただけだわ」
「そう? あの方は社交辞令など言わないよ。″続き″をと仰られたからには……まぁ近くはないだろうが、いずれ必ずあの方は君に連絡を寄越すだろう」
ふっと口元に上っている笑みは冷ややかさを含んだものに変わり、ハーヴィスは告げる。
「……だったらいいけれど」
ハーヴィスが喜んでくれているのが嬉しい。それにこの男が望むのであれば、必ずダスティアンとの線を強固なものにしなければならないと強く思った。
「大丈夫だよ。来る日のために君は今より一層頑張らなければいけないけれどね?」
からかうようにハーヴィスは言い、マリアーヌの頬に触れる。
一瞬ローランドにも触れられたことを思い出すも、残酷にも心は大きく今の状況に反応する。
ずっと触れていてほしいと、思わずにはいられない。
「頑張ります……」
ほんの少し頬を赤らめマリアーヌは返す。
ハーヴィスは「ああ」と頷きながら、頬の感触を味わうように指の腹で何度もマリアーヌの肌を撫でる。
「まぁ、今はまだクラレンス様もいらっしゃるからね、そうそう表だって動かなくてもいいよ」
含みのある言葉に怪訝にハーヴィスを見つめると、ハーヴィスは目を細めた。
「何事も終わりはあるということさ。いずれ、世代は変わる」
そのためにいまローランド様がクラレンス様に同行されている―――、と続けた。
優しすぎるローランドのことを想うと、胸が痛む。 無意識に表情は翳ってしまっていた。
「ローランド様のことを考えてるのかい? そんなにあの方が心配?」
頬から顎へと指が流れ上向かされる。
「……ただ、あの方には暗い場所は似合わないと思っただけ」
至近距離で瞳を覗きこまれ、マリアーヌは気恥かしさに視線を逸らしながら呟く。
「まぁ確かに。でも本人は構わないだろうし、いいんじゃないのかい。あの方は君の傍にいたいだろうからね」
笑いを含んだ声に胸の奥が小さく痛む。
「そんなこと……」
「君が気にすることはないさ。最終的に選ぶのはローランド様なのだからね」
それよりも、とハーヴィスの吐息が耳に掛った。ほんの少し身体を震わせ思わず視線を上げると、目が合う。
「ご褒美を上げよう」
「……ご褒美?」
そっとハーヴィスの指が唇をなぞる。
「そう。今夜はよく頑張ってくれたからね。ご褒美くらい上げるよ。なにがいいかな?」
ずっと密着したままの身体。艶めいたハーヴィスの眼差しに、聞こえてしまうのではないだろうかと思うくらいに心臓が高鳴っている。
「別に……なにも」
マリアーヌは俯いた。そんなマリアーヌにハーヴィスが囁いた。
「キス、してあげようか?」
なんでもないことのように言われた言葉。
一瞬理解が出来ずに、「え?」と顔を上げた。
そして、その瞬間やわらかいものが唇に触れた。
「―――……っん」
驚きに身体が固まってしまう。
強張った唇を舌でなぞられて、薄く唇を開けるとぬるりと舌が入り込んできた。
絡みついてくる舌に、どんどん深くなっていく口づけ。
その熱さに頭が真っ白になっていくのを感じ、ハーヴィスの胸元をぎゅっと握りしめた。
翻弄されるだけでなく、自ら求めるように舌を絡ませた。
どれくらいだろうか、長い口づけは銀色の糸をひき終わった。
「今日は疲れただろうから、ゆっくりと寝なさい」
ハーヴィスの腕から解放される。それに寂しさを感じながら、ぼんやりしつつマリアーヌは頷いた。
「おやすみ、マリー」
「……おやすみなさい」
優しく促されるようにし、マリアーヌは執務室を後にした。
頭が痺れたようになにも考えられない。
自分の唇に触れながら、ゆっくりと自室へと足を踏み出した。
そして―――マリアーヌが執務室を出たと同時に、静かに入り込んできた影。
それに視線を向けハーヴィスは口角を上げる。
「今日は邪魔ははいらなかったね? ″ご褒美″だから大目に見ていただけたのかな?」
冷笑を含んだ声でハーヴィスが言った。
返事は、低く喉を鳴らす音。
スッと音もなく執務机へと飛び乗った―――カテリア。
冷たくハーヴィスとカテリアは視線を合わせた。
「カテリア。ようやく―――――」
唇を歪ませ、紡がれる言葉が静かに部屋の中へと消えて行く。
まだ、すべてはマリアーヌのあずかり知らぬ闇の中。
この日を境にすべてが動き出したことなど、マリアーヌが知る由もなかった。
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2010,5,8
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