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 男は気分を害するかもしれない、そう思ったが、反して口角を上げた。
「そうだな。″その程度″の女と戯れるのが多いかもしれん」
「………戯れ、ですか」
 怒る様子が、いや怒るつもりもなさそうな男に、あえて呆れたように言って見せれば男は目を細め喉を鳴らす。
「そう一時の戯れに難しいことなど不必要だろう」
 マリアーヌは内心ため息をつきながら、小首を傾げた。
「確かにそうかもしれませんが。戯れであるとしても何事にしても″その程度″よりも″ある程度″のほうが面白みがあるものではありませんか?」
「それは個人の趣向にもよるだろう」
「まぁそうではありますが……。失礼ですが″その程度″で満足されるお方のようには見えませんでしたので―――」
 幾分冷めた面持ちを向けると、男は堪え切れないといったように声を立てて笑いだした。
「確かに″その程度″では満足はできぬな。だが″その程度″の女は可愛いぞ? 愚かさも愛でる分には楽しいものだ」
「ずいぶんと悪趣味ですのね?」
「俺にしてみれば優しいものだ」
 楽しげに男は首を傾ける。
「お前の言う″ある程度″の女には―――」
 不敵な笑みが浮かび、その眼が黒い光を宿す。
「それなりの戯れにつきあってもらうがな」
 不快感ではなく、本能的な畏怖をマリアーヌは感じた。
「なにも考えないような女が可愛いというのは事実だ。だが、深く物事を考え見る女が嫌いだというわけではない。逆にそそられる」
 不遜な態度でゆったりベンチに座る男は、長く骨ばった手をマリアーヌに差し向ける。そしてその頬をつと撫でた。
「″ある程度″の女は俺の足元に跪かせたくなる」
「………どちらにしろ、悪趣味なのですね」
 気を抜けばこちらの負けのような気がし、マリアーヌは余裕の笑みを作り上げ答えた。
「悪趣味こそ楽しいものはないぞ?」
 どうもこの男は色欲が強いらしい。
 そういえばもしこの男が噂の男であるならば、いつしかクラレンスが″鬼畜″と言っていたことを思い出し、少しだけ得心がいく。
「―――奥様がお気の毒ですこと」
 彼の男であれば―――妻は―――。
 わずかな好奇を持って言ってみれば、一気に男の表情が変わった。
 喜怒哀楽のどれでもない無表情へと。
 その変化に胸の内でマリアーヌは驚く。
「妻はとうの昔に亡くなった。それに―――″妻″など俺にとっては女にならん」
 あまりに冷ややかな物言いにマリアーヌは二の句が継げずにいた。
 もし本当にエリーザの夫であるとすれば、なんとエリーザは気の毒なのだろうか、そう思わずにはいられなかった。
 無関心ほど恐ろしいものはない。
 それもたとえ政略であったとすれ、夫に女として見られないなど、堪えられるものだろうか?
「―――そのようなことはどうでもいい」
 言葉通り興味のかけらもなさそうな声色。
 男は再び黒い笑みを浮かべマリアーヌを見つめる。
「………喉、渇きませんか? よろしければなにか持ってまいります」
 話すのは構わないが、延びれば延びるだけローランド達に心配をかける可能性が高い。マリアーヌは男が不機嫌になっても仕方ないと思いつつも、ベンチから立ち上がった。
「―――そうだな」
 男は考えるようにマリアーヌをじっと眺めながら、顎に手を当てる。
「ブランデーで構わん」
 なにか言われるだろうかと思ったがあっさりと男は言った。
「逃げはせん、だろう?」
 マリアーヌの心中を知ってか知らずか、男は片方の口角を上げる。
 それを見、マリアーヌは悠然と微笑した。
「もちろんです。せっかくの出会い。それに興味深いお話をたくさん知っていらっしゃるように思えますし。私のような野兎に、ぜひ都会のお話をお聞きかせくださいませ」
 男が目を眇め、「ああ」と短く返す。それを聞き、マリアーヌは男に背を向け颯爽と母屋に戻った。
 中は相変わらず音楽が鳴り、楽しげな談笑が繰り広げられている。
 マリアーヌはクラリッサのもとへ行き、簡単に事情を説明した。一瞬クラリッサの眼が、何かを考えるように動いた。
 男が誰であるか気づいたのかもしれない。
「そう、わかりました。ローランドには私から言っておくわ。―――気をつけてね?」
 だがクラリッサは男については言わずに、それだけを小さく笑んで言った。
「はい。よろしくお願いします」
 それからブランデーとグラスを持ち、再び庭園へと向かう。
 だが、扉から外へと足を踏み出した瞬間、肩に手が置かれた。
 生温い手の感触に、ぞわりと全身に悪寒が走る。
「やぁ。まさかまたこんなところで会えるとは――――。久しぶりだな、マリアーヌ」
 耳元で、囁く声に心臓が凍りついた。





 その声を聞くのはこれで4度目か。だが、忘れることなどできない、声。
 激情が、身を焦がすように走り抜ける。
 血が沸騰するような感覚に眩暈さえも感じながら―――マリアーヌは笑みを浮かべ、声の主を振りかえった。
 そして―――。
「お久しぶりでございます、ジェラード様」
 目前に立つ、憎き男に礼をした。
 ジェラード――――、親友エメリナを死に至らしめた男がそこにいた。
 ジェラードは浮かべていた歪んだ笑みを、一瞬怯ませる。
 おそらくはマリアーヌの態度が予想外だったのだろう。
「……ほう。ずいぶん変わったようだな?」
 だがすぐにジェラードは嗜虐的な眼差しでマリアーヌを見つめる。
「それは良い方にでしょうか? それでしたらよいのですが」
 にこり艶やかな笑みを返しながら、マリアーヌは内で渦巻く激情を押し込める。
 気を抜けば、その首を締めあげ、掻っ切ってしまいそうだ。
 しかしそれをすることはできない。
 ハーヴィスがこの男とどういう約束を交わし、オセの家への入店を遠ざけたのか知らないのだ。下手に動けば、ハーヴィスの足を引っ張ることになってしまう。
 それに彼の少女に顔向けできなくなってしまうような気がした。美しい親友は、自分の手が血に染まることなど望まないだろう、そう思えたのだ。
「良い方にだ。なるほどオーナーだけでなく公爵家の子息も手玉に取っているという噂は本当だったか。あの馬鹿な子息をたぶらかすのはたやすかっただろう?」
 喉を鳴らしジェラードはマリアーヌの顎をつかみ上げる。
 唇が触れそうなほど近くで呟かれ、吐き気を覚える。
 眼差しだけで殺すことができたらいいのに、そんなことをマリアーヌは考えながらも笑みを絶やさない。
「……そのような。私はお傍に置いていただいているだけですわ。それに―――筆頭貴族である公爵家の御子息を、そのようにおっしゃるのは感心できないかと。″手玉″に取られるような御方ではございませんし」
 ハーヴィスはもちろん、ローランドを侮辱されるのは我慢ならない。
 笑んだまま冷ややかに眼差しを返せば、ゆっくりとジェラードの手が顎から離れる。
「………つまらんな」
 だが眉を顰めたジェラードは、その手を今度はマリアーヌの首へとあてがい力を込めた。
「前は、愚かなほど可愛かったのに。今は前ほどは鳴いてはくれなさそうだな?」
 ギリギリと力加減などなく締めあげられ苦しいが、この男の前では絶対に苦痛など見せたくなかった。
「そういえば―――あの娘はつまらんかったな。最後まで命乞いもせずに……」
 ジェラードの口からこぼれた言葉。その意味を察した瞬間、一気に憎しみが膨張するのを感じた。
 殺してやりたい。
 たぎる憎悪に飲まれそうになった一瞬―――。
「なにをしている」
 もう一つの声が割って入った。
 それは先程の男のもの。
 ゆっくりとジェラードの手から力が抜けて行く。視線がマリアーヌ越しに男へと向けられた。
「それは、私のものだぞ?」
 笑う男の声。
 雲に隠れていた月が、顔をのぞかせ―――微かに明るくあたりを照らす。
「………ッ!!!」
 マリアーヌはジェラードの表情の変化を、驚き見上げていた。
 ジェラードは男を見、驚愕に眼を見開き、そして―――畏怖の表情を浮かべたのだった。



 




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2010,3,14