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 なぜ。どうして?
 なぜ、あの香りが―――――。
「マリアーヌ様……? 大丈夫ですか?」
 心配げな声色が響いた。
 はっとマリアーヌは我に返り、顔を上げる。目の前には今朝方戻ってきたばかりのエリック。
「え、ええ。ごめんなさい」
 慌てて笑みをつくるも、あまりうまくいっていないことを感じてしまう。
 数日前クラレンスやジェイルと話した時、仕事に影響をだしていないと言ってもらえたばかりだというのにこの始末だ。
 自分の不甲斐なさに内心叱咤する。雑念をとりはらうように口を閉じたままそっと深呼吸をした。
「……なにか気にかかることでもおありですか?」
 気遣うように、優しいエリックの言葉がかかる。
 真っ直ぐに向けられた眼差しに、必死で自分を取り繕いながら「なにもないわ」と首を横に振る。
 エリックの眼はすべてを見透かすようで、マリアーヌは心許なくなるのを感じる。
「少し休憩しませんか」
 ようやくエリックの視線が自分から外れ、安堵した。
 エリックは「お茶の用意をしてまいります」と部屋を出ていく。扉の閉まる音が響き、マリアーヌは思わずため息をついた。
 ソファにゆったりと身を沈め、額に手を置き眼を閉じる。
 自分の弱わさが忌々しく感じてしまう。
 こんなにも心がすぐに乱れ、すべてが揺らいでしまうなんて。
 あの、あの――――。
 ガチャリ、とノックもなしに扉が開く。今出て行ったばかりなのに、と慌てて身を起こすマリアーヌの目に映ったのはハーヴィスだった。
「あれ、エリックは?」
 室内を見回して首を傾げるハーヴィス。
「……いま、お茶の準備をしにいってるわ」
 一瞬だけハーヴィスの笑顔を見、すぐに逸らす。
「あっそう」
 そう言うとハーヴィスはマリアーヌの傍らに腰を下ろした。
 マリアーヌはすぐそばにある温もりに否応なく意識をとられながらも、仕事に集中しているかのように手元の書類に視線を落とす。
 沈黙に支配された室内。
 これまで二人きりでいるとき、決して沈黙は苦しいものでもなんでもなかった。
 だがいまは、息苦しくてたまらない。
 しかしそれはマリアーヌにとってだけで、不意にマリアーヌの髪に触れたのはハーヴィスの手。
 それもよくあることだった。カテリアの毛並みを撫でるように、マリアーヌの髪を指でくるくるとまわすように、まきつけたりと弄ぶ。
 まるで髪が、ハーヴィスに触れられた箇所が熱をもっているかのように、心臓になってしまったかのように感じる。
「顔色悪いね」
 すっとマリアーヌのほうへ身を傾けたハーヴィスから漂ってくる香り。
 それはマリアーヌを安心させるいつもハーヴィスが身にまとっている香水だった。そのことに心の底から安堵する。
「どうかした?」
 問う声が耳のすぐそばで聞こえる。
「別に」
 ひどくそっけない声だったことは自覚している。だがそうでもしないと、とんでもないことを言ってしまいそうな気がした。
 今日はいつもの香りだけれど。
 昨日は――――。
 昨日、は。
「マリー?」
 ぐっと我知らず唇を噛み締めていたマリアーヌの頬をハーヴィスの手が滑る。そしてその手が顎へと移り、持ち上げハーヴィスのほうへと向かされる。
「なにかあった?」
 心配そうにハーヴィスは眉を寄せていた。
 柔らかな光をたたえたハーヴィスの眼に、ひどく泣きたい気分になった。
 ねぇ、昨日は誰と一緒にいたの?
 そう―――言ってしまいそうになった。
 昨日、オセの家は休みの日で、マリアーヌはジョセフィーヌとともに出かけていた。そして帰宅した夕方。
 休みであろうと執務室にいることが多いハーヴィスに会いに行った時、ソレに気付いたのだった。
『おかえり、マリー』
 いつものように笑うハーヴィス。
 だが部屋に入った瞬間、ハーヴィスのそばに近寄った瞬間、覚えのある香りが鼻をかすめた。
 甘い、ローズ系の――――。
『リザが、来ていたの?』
 だがそれは声にはならず、マリアーヌの胸の中で静かに落ちて行った。
 その身にまとうほど、そばに近づいたのか。
 何の用があったのか。
 いったい何をしていたのか。
 ぐるぐると回る思考は、昨日からずっとマリアーヌをむしばんでいる。
 苦しくて苦しくて。
 これが“嫉妬”というものなのだろうか。と、頭の端で実感していた。
 リザが来てから、ずっとあるもの。
 ハーヴィスとリザのことを考えるだけで、心が真っ黒になっていくのを覚える。
 なんて自分は醜い――――。
「マリー。どうしたんだい。なにかあるなら言ってごらん?」
 また意識が飛んでいたマリアーヌに、ハーヴィスが優しく言った。
 マリアーヌは躊躇う。
 聞きたい、だが聞きたくない。
「マリー」
「……昨日は………リザと一緒にいたの……?」
 言うつもりも、聞く覚悟もなかったのに、気付けば口は動いていた。
「昨日? ああ、リザが仕事のことで相談したいことがあると来たけど?」
 あっさりと答えは返ってきた。
 ごく普通な様子に、それ以上なにを言えばいいのかわからない。
「それがどうかした?」
 ハーヴィスが目を覗き込むようにして見つめてくる。
「え……、ううん……。ただ。香りが、したから」
 “商品に手を出していないか気になっただけ”
 あえて、嫌味のように平然を装いながら言い、視線を逸らす。
 ふっと小さな笑いが聞こえてくる。
 そして「かわいいねぇ、マリーちゃんは。本当に」と、そんな呟きが聞こえたかと思うとマリアーヌの身体は引き寄せられた。
 一瞬のうちにハーヴィスの腕の中にいる。
 いったい何が起こったのかわからなくて混乱する。抱きしめられた腕から寄り添った身体から温もりが伝わってきて、否応なしに動悸が激しくなる。
 ハーヴィス、とその名を呼ぼうとしたとき、扉がノックされた。
 エリックが戻ってきたのだ。慌てて身じろぎしてハーヴィスから離れようとするが解放されることはない。
「どうぞ」
 ハーヴィスが返事をし、「失礼します」という言葉と扉の開く音をマリアーヌは抱きしめられたまま聞いていた。
 扉に背を向けているのでエリックが室内へ入ってきた気配はわかるがその表情を知ることはできない。
「ハーヴィス、離して」
 羞恥に抵抗するも、一見優男のハーヴィスのどこにそんな力があるのかと驚くほどにマリアーヌを拘束する力は強い。
 エリックは何も言う様子はなく、ただカチャカチャとテーブルにお茶の用意をする音だけが響いている。
「ハーヴィス!」
 咎めるように叫ぶと、ようやく抱きしめる腕の力が弱まった。  マリアーヌはその隙に急いでハーヴィスから身体を離す。
 髪や頬を撫でられることなどはよくあること。だが抱きしめられることなど滅多にない。
 そしてそれが嫌なわけもなく。
 ただいまはそばに第三者が、エリックがいるのだ。ハーヴィスの真意は知れないし、たとえそれが冗談だとしても他人に見られるのはよい気がしない。
 思わずじっとハーヴィスをにらむと、ハーヴィスは楽しそうに目を細めた。
「マリーは恥ずかしがりやなんだね。ただのスキンシップじゃないか」
「急にびっくりするじゃないの!」
 ついきつく返してしまう。
 どういうつもりで抱きしめたのか。目の前の男には誠意のかけらのひとつでも認めることはできないから。
 ―――――同じように、あの少女も、気軽に抱きしめたのかもしれないのだし。
「ごめんごめん。そんなに怒らないでくれよ。心配しなくとも“商品”のリザはもちろん――――」
 胸のうちに渦巻く黒。
 そして男がにこりと笑い、言う。
「マリーには絶対に手を出さないからね」
 だから心配しなくてもいいよ。
 そう――――言われ、
「え……?」
と、漏れたマリアーヌの呟きは、
「お茶がはいりました。どうぞ……」
 エリックの静かな声にかき消された。



 




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2009,12,11