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『ねぇ、彼ってどんな女性が好みなのかしら?』


『彼の子供のころの話って聞いたことある? どんな子だったのかしら』


『ハーヴィスはいつからオーナーなの? 前のオーナーって女性だったのよね。どんな関係だったのかしら』


『ねぇ、マリーは……』


 終始楽しげに、笑いながら質問を投げかけてくるリザに対し、一体自分はどれだけ答えられただろうか。
『プライベートすぎるわ。そういうのは直接本人に聞くべきことでしょう』
 そう、言ったのは何度だろうか。
 それはそのまま、本心でもあり、そして答えを知らなかったからでもある。
 小一時間ほど続いた話は、リザの変わらぬ笑みとともにこぼれた言葉で終止符を打った。
『ああ、マリーはオセの家に来て3年だったかしら? まだたったの3年だものね。知らないことが多くて当然よね』
 嫌味のような口調でなく、他意などないような、質問をするときと同じ声色だった。
 だがそれはひどく重くマリアーヌの心の底に落ちた。
 オセの家に来て、ずっと一緒にいたハーヴィス。当たり前のように傍にいた。
 まるでずっとずっと昔から知り合いだったような、近しい人だったように感じるが、まだほんの数年一緒にいるだけ。
 そして、リザのいうとおりに、出会う前のハーヴィスのことは何も知らない。
 今までは気にもとめることなどなかった。
 過去は過去であり、今傍にいるのだから、過去を知る必要性を感じなかった。
 それなのに、なぜこんなにも気になるのだろう。
 どんな些細なことでもいいから―――知りたい、と思ってしまう。
 マリアーヌはぼんやりと馬車の窓から外を眺めながらハーヴィスのことを考える。
 ハーヴィスはこれまでどんな人生を歩んできてきたのだろう。
 果たしてそれを尋ね、彼は教えてくれるのだろうか。
 いや、きっと彼は飄々とした笑顔で―――。
 と、ガタン、と馬車が揺れ止まった。
 そっと目を閉じて胸の内の想いを封じ込める。一息ついてから馬車を降りた。
 そこは教会の裏口。ジェイル神父への用で今日は一人出向いたのだった。
 裏口の戸をノックすると、少しの間をおいて小男が現れる。一見、教会に従事する者に見える。実際はジェイル神父の個人的な小間使いであり、オセの家へと連絡をとりもつ男だ。
 男以外に周りには数人いる。怪しまれないように他愛のない用事を言い、男にジェイル神父のもとへ案内してもらう。
 男がノックをし、促されマリアーヌは中に入る。和やかな談笑が目と耳に入ってきて、わずかに驚く。
「お話し中失礼いたします、神父様。クラレンス様」
 柔らかな踏み心地の絨毯に足を進め、ドレスのすそを持ち深く礼をする。
 ジェイルだけだと思っていた室内には予想外にクラレンスがいた。
「やぁ、マリアーヌ。忙しい中わざわざすまないね」
 恰幅のよいジェイルはまるで裏などなにもなさそうな人柄のよい柔和な笑みを向けてくる。
「いいえ。神父様のご用でしたらすぐに参ります。ですが……、お邪魔ではございませんでしたか?」
 クラレンスとジェイルが揃っているということは、なんらか政治的な話をしているのだろう。
「マリアーヌなら問題はない」
 笑みを浮かべたクラレンスが言う。それににこにこと頷くジェイル。
 座るようにジェイルから促され、マリアーヌは一礼するとソファに腰を下ろした。
 クラレンスが「先に用を済ませるといい」と言ってくれたので再び頭を下げ、ジェイルに来訪の目的である品物を渡した。
 至急に必要となったのは、およそ教会では使い道などなさそうな“薬”だった。それがいったい何に用いられるのか知る由もなければ、尋ねることもない。
 ただ渡すだけ。だがジェイルもまたクラレンスと同じようにオセの家に必要な人物。それゆえジェイルへの届け物はオーナー自らかマリアーヌ、もしくはエリックの役目だった。
 茶色の小瓶にはいった品をとくに目を留めるでもなく衣服の中へとしまいこむジェイル。
 普段であればマリアーヌはすぐに帰るのだが、雰囲気的にこの場にとどまらねばならぬようだった。
 自分がこの場にいていいのだろうか。と、帰るきっかけがつかめずに逡巡するマリアーヌに声がかかる。
「それにしても、マリアーヌはここ最近でずいぶん雰囲気が変わったね」
 にこやかなまま突然向けられたジェイルの言葉に、マリアーヌは一瞬戸惑いながらも小首を傾げ微笑む。
「そうですか? なにか至らない点が―――」
「良い意味でですよ」
 ジェイルはそう言い、クラレンスへと視線を向ける。
「そうだな。少しさびしくも感じるが」
「おやおや、クラレンス。まるで父親の気分のようですね。まぁ気持ちはわかりますよ。マリアーヌはとても可愛らしいですからね」
 二人の会話にぼんやりとだが察するものはある。
「恋は人を成長させるものです。そういえばクラレンス、あなたのところのご子息もたいそうご執心だそうじゃないですか」
 ローランドのことだ。
 と同時に、ジェイルが言ったことが動揺を起こす。
 恋、と言った。それはつまり―――自分が今恋をしているということを気付いているということ、なのだろうか。
 胸がドキリと跳ね、どう反応すればいいのか分からない。マリアーヌは平静を装いながらも黙りこんだ。
「まぁあいつは何事も一途だからな」
 葉巻をくわえたクラレンスが言う。そしてマリアーヌをちらり一瞥すると、続ける。
「ローランドはしつこくしていないか? 嫌な時ははっきり言うんだぞ」
 マリアーヌは呆けそうになって慌てて口をつぐむ。
 この場には仕事で来ているのだから動揺を悟られてはいけない。そう思うも、否応なく顔が赤く染まっていくのを止められなかった。
「……ローランド様にはいつもよくしていただいております。……嫌な時などございません」
 強張りそうになるのを必死で耐え、なんとか笑みを浮かべて返す。
 クラレンスは「それならいいのだが」と煙を吐き出し、ジェイルは「若いというのはいいものだね」とこにこ目を細めている。
 さらに湧き上がる、羞恥。
 気を抜けば俯いてしまいそうになる自分を叱咤しながらマリアーヌはようやくの思いで顔を上げ続ける。
 そんなマリアーヌにジェイルが柔らかな眼差しを向けてきた。
「マリアーヌ、いまこの時、この部屋の中でだけ、私たちは友人として話さないかい?」
 優しい声色。だがマリアーヌは困惑する。
「友人……としてですか?」
「そう。一度マリアーヌとゆっくり話をしてみたいと思っていたのだけれどね、なかなか……都合がね」
 ふと一瞬意味深にジェイルがクラレンスに視線を走らせる。
 クラレンスはそれを受け苦笑にも似たものを口元に浮かべながらマリアーヌを見た。
「かしこまることはないさ。私とジェイル……、老人もたまには若い者と喋りたいだけ、そんなところだ」
「老人とはひどいな。私はずっと現役だよ?」
 クラレンスの言葉にジェイルは楽しげに声を立てて笑う。
「たしかにジェイルはいつまでも若いな。尊敬に値する」
「おやおや、クラレンス。もう引退宣言かい? 彼の男はまだまだ―――現役最前線だぞ」
 ジェイルが落とした笑みが、それまでとは違いひどく黒いものに、マリアーヌは見えた。
「あいつと比べるな。あれはただの鬼畜だ」
 誰のことを話しているのだろうか。そう思うも、自分から話が逸れた様子に安堵する。
「そうだねぇ、まぁいまはその鬼畜のことは切り上げることにしよう。せっかくマリアーヌがいるのだからね」
「その鬼畜は―――見つけるかな」
 ジェイルの言った言葉に反するように、クラレンスが目を細める。
 それにジェイルはわずかに片眉を上げた。
「いつだい」
「ヘザント」
 主語のない会話。だがそれだけで会話はなりたっているようで、ジェイルはいつもの柔らかな笑みを浮かべて「ほお……」と頷いた。
「それはそれは、ハーヴィスにとってはとても気になることだろうねぇ」
 突然出てきたその名に心臓が跳ねる。
 マリアーヌにとって知ることのない会話の内容にハーヴィスが関わっているとなると、ひどく気になってしまう。
 いったい二人は何の話をしているのだろう。
 ハーヴィスは何が気になる?
 なぜか言いようのない不安が沸き上がる。
 それに気づいたようにジェイルがマリアーヌに視線を向けた。
「ああ、マリアーヌ。すまないね。他愛のない話だよ」
 まるで何を気にしているのか理解しているかのように、ジェイルは安心させるような笑みをこぼす。
 何の話なのか聞きたい、が、聞けるはずもなく。マリアーヌは曖昧に微笑した。
「人は恋をすると些細なことでも気になるもの。相手のことを知りたい、理解したいという欲求が生まれてくる」
 紅茶を一飲みしたジェイルがマリアーヌに視線を留めたまま、話し出した。
「そして不安や、嫉妬などもね。――――マリアーヌはいま、どのような気持ちかな」
 ジェイルの言葉は今の自分の心境すべてで、戸惑いになんと返事をするべきか迷う。
 “恋”をしていると前提で進められてしまっている話。
 自分の想いを認めてしまっている今、否定することはないが素直に打ち明けていいのだろうか。
 だがジェイルの眼差しはすべてを受け止めてくれるような暖かいもので、マリアーヌは小さな吐息をはいた。
「私は……初めてのことで、よくわからないのです。初めての感情がたくさんわきあがってきて、自分でもどうすればよいのか……」
 か細い声で言い、マリアーヌは視線を落とす。
「誰しもそんなものだ、若いうちは。熱病のようなもの」
 クラレンスが言った。
 ジェイルは苦笑し、それに続くように口を開く。
「確かにクラレンスの言うことは間違ってはいませんね。熱に浮かされ、なにもわからなくなるような。まぁ、マリアーヌは冷静さを保っていますが」
 最後はにこりと『大丈夫』、そう言うようにジェイルが目を細める。
 冷静を、自分は保っているのだろうか?
 そう見えているのなら、まだいいのだろうか。
「……ぎりぎりで踏みとどまっているような感じです。仕事の最中にも無意識に気がそがれているときもありますし。それに……クラレンス様や神父様にはおわかりになられていますし」
「仕事に影響は出ていない。ただ表情には多少出ている、ときもあるかな」
 クラレンスがふっと笑う。それは決して馬鹿にするようなものではなかったが、マリアーヌは再び頬が熱くなるのを感じた。
「気にすることはないよ。初めての感情を前に完璧に自分をセーブすることなどなかなかできないものだからね」
 どこまでも優しい口調に、マリアーヌは胸に手をあて呟く。
「恋とはこんなにも苦しかったり……不安だったりするものなのですか?」
「そうだね。もちろんそれらもあるけれど、幸福も感じることができると思うよ。その姿を見れて嬉しい、傍にいられて幸せを感じる……。それらはないかな?」
 マリアーヌはそっと目をとじ、想う。
 ハーヴィスのことを。
「……ずっと胸が苦しくて、いったい自分がどうしたのだろう、そんなことばかり考えてたのです。でも、そうですね……。苦しいけれど……ハーヴィスの傍にいれて、その声を聞けて……幸せです」
 “恋”という未知のものに、すこしだけ光りがさしたような気分だった。
「それを忘れてはいけないよ。恋は辛いもの。だがそれはね、自分の想いがまだ自分だけのものだからとも言えるね」
「自分だけの……?」
 戸惑いを含んで言葉を返す。
「そう。自分の気持ちで手一杯。恋の厄介なところは例え想いが通じたとしても苦しみや不安はありつづけるもの。相手は自分をどう思っているのだろうか、拒絶されないだろうか、さまざまな悩みはつきない」
 そんなにも厄介なものなのか、とマリアーヌは思いながらもなんとなくは理解する。
「だがそれらは自分の気の持ちよう一つなのだと思わないかい? いま君は初めての感情に戸惑いそして迷っている。だが先程言った幸せだという気持ちだけを考えてみよう。傍にいれて幸せだという気持ちを一番に置いてみるとまた違った世界が広がる」
 ジェイルの言葉そのままを夢想する。
「恋は苦しいもの。だけれどとても幸せなこと」
 そう、なのか。
 オセで過ごした今日までの日々。ハーヴィスの過去は知らない。だが確かに3年の間ずっとそばにいてきたのだ。
 辛いこともあったが、ずっと彼はそばにいてくれた。
 楽しい思い出もたくさんある。いままでも、そしてきっとこれからも。
 恋の行きつく先がなんであろうと。きっと。
「君が想う彼の傍にいて、彼をよく見、そして自分だけでなく彼のためになるよう心砕くといい。見返りを求めず、彼の幸せを願いなさい」
 静かにジェイルは話し続ける。
「マリアーヌ、愛してあげなさい」
 その言葉にマリアーヌはジェイルを見つめる。
「まだ君は恋を知ったばかり。そんな君に愛せよと言うは容易くはない。だがね、愛してあげてほしいのだよ」
 君のためにも。
 そしてあの“気の毒な少年”のためにもね――――。
 そう、神父は言った。
 耳を傾け続けていた言葉に自分の気持ちを見つめ直していた。
 恋に前向きに、そしてジェイルのいうようにできるだけの愛を与えられるようになりたい。
 わずかに軽くなった心に、最後の言葉が引っかかる。
 マリアーヌの中に湧き上がってきた不安をジェイルは見透かすように微笑み、ゆっくりと今一度言う。
「気の毒な、少年なのだよ」
 と―――。
 それがどういった意味なのか、問うことはできなかった。
 静観していたクラレンスが「おい、最後に不安を与えてどうする」と失笑する。
「ああ、失敗してしまったねぇ。まぁでもそれらを全部擁したうえでマリアーヌには頑張ってもらいたくてね」
 そう明るくジェイルは笑った。
 マリアーヌはぎゅっと胸元で手を握り締める。
「私……、どんなことがあってもずっと傍にいます。傍にいたいから」
 答えになっているのかいないのか。
 口から滑りだしたものは、無意識のものだった。
 ジェイルは『愛してあげなさい』と言った。
 だがマリアーヌには『救ってあげてほしい』と言われたような気がした。
 だから―――自分は傍にいよう。
 恋が苦しくても辛くても。彼を愛し、傍で見守ろう。
「恋は病。愛は無償の贈り物。……マリアーヌの想いが幸多いものになるとよいな」
 胸の内で新たな決意にも似た想いを抱くマリアーヌに、そう言ったのはクラレンス。
 本当に。
 続けてジェイルも呟き、―――――わずかに寂しそうに笑んだのだった。

 




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2009,11,9