53
翌朝、いつも通りに起き、身支度を整えて食堂に向かうマリアーヌ。
最近あまり眠れずに過ごすことが多く、朝は憂鬱ささえも感じてしまう。
いい加減どうにかしなくてはと思いながら食堂に入ると、マリアーヌはそこにいるはずのない姿を認めて驚きに立ち止った。
「やぁ、おはよう。マリー」
そう軽く手を上げて笑うのはハーヴィス。
いるはずのない、いやいてもいいのだが、いつも昼まで寝ているハーヴィスが朝早く食堂にいる姿など滅多に見かけることがなかった。
「おはよう、ハーヴィス」
会う心構えができていなかったから、動揺しながら返事をする。
止まったままの足をなんとか動かして席につこうとし、マリアーヌはその匂いに気付いた。
「……飲んでいたの?」
テーブルを挟んだ距離からもはっきりとわかるお酒の匂い。
「ああ。ジェイル神父が珍しいお酒を手に入れたそうで、ご相伴にあずかってきたんだ」
機嫌よさそうに言うハーヴィスの手にはワイン。
いまここにいるのはきっと朝方まで飲んで、さきほど帰ってきたからではないだろうか。
「神父様はお忙しい身なのだから、あまり長居してはダメでしょう?」
思わず呆れた口調で咎めるように視線を向ける。
その言葉に、ハーヴィスは片肘で頬杖をつき、苦笑する。
「ほんとマリーは母親みたいだね」
「飲み過ぎなハーヴィスが悪いんです。きっと朝まで飲んでいたのでしょう? それなのに今も飲んでいるし」
説教するように言って、運ばれてきた朝食をとり始める。
「美味しいお酒だったんだよ。ジェイル神父もリザのおかげで楽しい夜を過ごされたしね」
マリアーヌは食べる手を止めた。
「……リザ?」
自分の声がひどく冷ややかに感じた。
「ああ。ジェイル神父のお気に入りなんだよ」
確かに美しく滑らかな髪をしていたリザ。
だがこれまで“仕事”ではない場に、“商品”である娼婦を連れていくことなどなかった。
なのに、なぜ?
心臓がわしづかみされた様に苦しい。リザの愛らしくも美しい顔を思い出し、なんともいえない不安が掻き立てられる。
黙りこむマリアーヌにハーヴィスは目をすがめ、
「本当はマリーも誘うつもりだったんだけど、ローランド様との観劇で疲れているようだったからね」
小さく笑った。
昨夜いつものようにハーヴィスの執務室へ行けばよかった、と思う。
そうすればハーヴィスとともに出かけられたのに。
そうすればリザは誘われなかったかもしれないのに。
それと同時に、昨夜のローランドの切ない眼差しを思い出し、誰に対するものなのか後ろめたさが沸き上がる。
「昨日はずっと部屋にこもっていたようだったし、なにかあった?」
誰と、とは言わないが、からかうように向けられた眼差しはローランドとのことを暗に言っている。
自分の内側に渦巻く暗さと切なさと罪悪を感じながらハーヴィスから視線を逸らす。
「別に、なにも」
ふーん、とハーヴィスはワインをあおっている。
マリアーヌは気まずさをとりはらうように食事を再開する。
「ローランド様は君に手を出したりはしないのかい?」
だがやはり手はすぐに止まった。
唖然としてハーヴィスを見る。
やはりからかうような目がそのままこちらを見ていて、マリアーヌは腹立たしさを覚えた。
「おかしな言い方はやめて。ローランド様に失礼だわ」
昨夜抱きしめられはしたが、気持ちを押し付けるでなく一歩引いているのはわかっていた。
いつだって優しすぎるローランドのことを冗談半分に詮索されるのが不愉快でたまらない。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
悪びれるでもなく笑うハーヴィスに苛立ちが増す。
ハーヴィスにとって自分とローランドのことは酒の肴のようなものなのだろう。
そこにあるのは好奇心だけで―――、自分のことを案じる気持など露ほども―――……。
そう、マリアーヌは思って、そして自分自身に絶句する。
これではまるで。
まるで………。
「悪かったよ。機嫌直して、マリー」
首を傾げ目を細めるハーヴィス。
その笑みに一瞬胸が高鳴るも、すぐに気持ちは沈んでいく。
「……ハーヴィスは」
無意識に唇からもれた呼びかけに、ハーヴィスは「なに?」と返す。
自分はなにを言おうとしているのか。
今これから口に出そうとしていることが、自分自身よくわからないまま、自棄になるように言っていた。
「ローランド様が、私を望まれたらどうするの」
きょとんとしてハーヴィスは目をしばたたかせる。
「ハーヴィスはローランド様が私のことを想ってくださっているのを知っているのでしょう。それで、ローランド様が私のことをこのオセの家から……身請けされると言ったら?」
それはきっとないことだろう。
だがゼロとはいいきれない、こと。
ハーヴィスは驚いたように一瞬わずか目を見開いた。その瞳に、冷酷な光が宿る。
ふっと口元に微かな笑みを乗せ、ハーヴィスは問いに対する答えを告げる。
“お客様の望むことはどうのようなことでも”
だから、“可”と、するのか。
「それはもちろん―――お断りするよ」
なんでもないことのように、あたりまえのように、ハーヴィスは笑顔をマリアーヌに向けた。
今度はマリアーヌが目を見開いた。
できれば望んでいた答え。ハーヴィスの瞳は無表情さを纏いながらも、その言葉が真実であることを語っている。
思わずほっと、全身が安堵するように脱力する。
「……本当に?」
「ああ」
「でも、もしローランド様が」
「僕は君を手放すつもりは、まったくないよ」
かぶせるように言われたハーヴィスの言葉は、冷笑に似たものを含んでいて、でも、マリアーヌにとっては嬉しくて仕方ない一言。
ハーヴィスにとって自分は必要なのだ。
傍にいていいのだ。
そして、はっきりと気付く。
自分の想いがこれまでハーヴィスに向けていた“愛情”とは違うもう一つあることに。
それが、きっと恋というものだということに。
知らず顔が赤く染まっていく。
お互いに向け合った視線。しかしそれは絡んではいない。
「―――それじゃ、僕は少し寝てこようかな」
大きなあくびを一つしてハーヴィスが立ちあがる。
「え、ええ」
「寝過ぎだったら起こしにきてね」
微笑むハーヴィスに、マリアーヌは久しぶりに自然な笑みで頷いた。
去り際マリアーヌの傍で立ち止まったハーヴィスがそっと頭を撫でてきた。
「おやすみ、マリー」
「おやすみなさい」
暖かい手が頭上から離れていくのを寂しく感じる。
部屋から出ていくハーヴィスの背を見送って、マリアーヌはゆっくりと食事を再開した。
ずっと苦しかった胸。それはきっと恋ゆえの症状なのだろう。
今しがた目の前にいて、笑みを向けてくれていたことを思い返すだけで、心臓は音を立てて跳ねる。
“好き”。
それは今まで大切な人たちに向けていた感情とは、また違って、特別で。
『僕は君を手放すつもりは、まったくないよ』
その言葉は苦しさだけだった切ない気持に、暖かさ与えてくれた。
マリアーヌは新たに認めた感情に、ため息をつきながら思う。
この想いを認めて―――そして自分はどうすればいいのだろうか、と。
人は恋をして、それからどうするのだろう?
ぼんやりとマリアーヌはいつもより長く朝食をとったのだった。
午前中の仕事を片づけ、マリアーヌは彼の少女の眠る墓地で本を読んでいた。
それは以前読んだことのある恋愛小説で、そのときはとくに興味も感慨もなく読み終えた。
だが今は訳が違う。まるで教本のようにマリアーヌは1ページづつ丁寧に読み返していた。
「何の本をお読みなの?」
突然響いた声に、本に集中していたマリアーヌは一瞬間を開けて顔を上げた。
そこにはリザがにっこりと笑顔を浮かべ立っている。
ハーヴィスのことを“気に入った”と言った少女。
内心動揺しながらも平然を装い本の題名を言うと、リザは「私も読んだことあるわ。とても面白いわよね」と言いながらマリアーヌの傍に腰を下ろした。
笑みのまま視線を送ってくるリザに、本を読み続けることができずに閉じる。
「なにかご用?」
言い方が自分でも堅苦しく、若干きつくなっていることに気付く。意識的にしているわけではないが、それでも自分の心の狭さを感じ、マリアーヌは胸の内で苦いため息をつく。
「マリーの姿が見えたから。いろいろ聞きたいこともあったし」
まるで邪気のない様子でリザは笑いかけてくる。
それに笑顔をつくり返す。
「聞きたいことって?」
リザは目を輝かせてマリアーヌのほうへと身を乗り出した。
「もちろん、ハーヴィスのこと」
素直に紡がれた言葉にマリアーヌは思わず視線を逸らし身を引く。
そんなマリアーヌの様子を気にもせずにリザはさらに近づく。マリアーヌを囲うように両手をつき、上目づかいで下から覗きこむように見上げてくる。
表情は愛らしいのに、どこか艶やかで。
その瞳に囚われればどんな男も意のままにできるのではないか、そんなことさえ思ってしまう雰囲気が漂っている。
至近距離で小首を傾げリザは続ける。
「この前いただいたマリーの忠告は重々承知しているのよ? でもナンバー1をキープしつづける自信あるし、仕事とは別にプライベートな部分でオーナーに近づいてもいいと思わない?」
まるで甘えるような口調にマリアーヌは顔をそむける。
リザの言うことには一理ある。オセの家では恋愛を御法度とはしていない。恋愛自体は自由なのだ。ただ、恋愛に溺れ仕事をないがしろにすれば、その時点でオセの家にはいられなくなるというだけのこと。
「……思うようにすればいいのではないの」
マリアーヌはしばらくして呟いた。
リザはその答えに満足したように微笑むと、ようやく身を離し座りなおす。
「よかった。ねぇ、それでオーナー……ハーヴィスのこと、聞かせて?」
興味津津といった眼差しで見つめてくるリザに、どうしようもない居心地の悪さを覚える。
そして次いで向けられ始めた質問の数々に―――。
マリアーヌは、ハーヴィスのことを何も知らない、ということに気付かされたのだった。
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2009,10,20
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