52
リザがオセの家へ来て一週間が過ぎようとしていた。
ナンバー1の部屋を与えられたリザは忠実にその地位を固めるべく仕事に集中している。
マリアーヌが見る限り、ハーヴィスとの接点はなくほっとしていた。
だがほっとする自分自身に困惑をせずにはいられない。
リザがやってきた日、自分がハーヴィスに言ったことなどを思い返しては、
何とも言えない気持ちになっていた。 意味不明なことを言ってしまった恥ずかしさ。
一週間たってもリザの存在を考えると息苦しさを覚え、いまだハーヴィスのそばでは胸の苦しさを覚える。
仕事には集中していても、仕事を離れると気を抜けばハーヴィスのことばかりを考えている始末。
これがいったいなんなのか――――。
確信はもてないものの、うっすらと理解は及んでいっていた。 もしかしたら。
その想いの正体を彼の親友に尋ねることはあっても、だがその返答があるはずもなく。
曖昧な感情を持って波にさらわれるようにマリアーヌはゆらゆらとしていた。
「………マリアーヌ?」 声をかけられ、はっと我に返る。
横を見れば心配そうな面持ちで見つめてくるローランド。
そして眼下にはすでに幕が下りた舞台。
どうやら観劇の途中思考が飛んでしまっていたようだ。
ラスト付近を覚えてはいるものの、カーテンコールなどがあったか記憶にのこっていない。
ローランドといるというのに、別のことを考えて上の空などという失態。
慌てて笑みを取り繕うマリアーヌをローランドはどこか寂しげに見つめ、逸らした。
「行きましょう」 促され劇場をあとにする。すでに待機していた馬車へと向かう。
道すがら観劇したオペラについての会話をするも、あまり弾まなかった。
空気を重く感じ、内心マリアーヌはため息をつく。
いまの現状をつくったのはまぎれもなく自分だとわかってはいるが、ローランドはなにか
考えている様子で雰囲気を変えるすべがない。 ローランドとマリアーヌの姿を認めた御者が
馬車の扉を開く。 だが乗り込むでもなく、ローランドは立ち止ってしまった。
どうしたのだろうかとマリアーヌはそっと様子を窺う。 「ローランド様?」
まるで先程の自分のようにぼんやりとした様子のローランドに遠慮がちに声をかける。
ローランドは視線を向け、微苦笑をこぼした。
「マリアーヌ……、もし時間が大丈夫でしたら少し散歩しませんか? それか歩いて帰るか」
そう言ってきた。 オセの家までの道のりをローランドに歩かせるなどできるはずがない。
散歩してもいいが、もしなにかあったら、など一瞬さまざまな考えが沸き上がる。
だが切なげに瞳を揺らしているローランドに、マリアーヌは頷くことしかできなかった。 「たまには歩くのも楽しいかもしれませんわね」
ほっとしたように微笑むローランド。 手を差し伸べられ、その手をとる。
ゆっくりと二人夜の道を歩き出した。 かつんかつんと街灯が照らす石畳に小さく響く足音。
密着しているわけではないが、二人で腕を組んで歩くのにももう慣れていた。
ローランドと社交の場へ赴くようになってすでに数カ月たつ。
自分と彼が周りからどう噂をされているのか、知らないではない。
公爵家の息子であるローランドと、その遠縁の田舎娘という名目上の立場の自分がいつも連れだっていれば噂がたたないはずかない。 ローランドの妻となる女性は格式ある家柄の子女が選ばれるだろう。だからそれまでの繋ぎ―――独身時代のいい思い出としての
“恋の相手”として社交界の中でマリアーヌはまわりから見られていた。
本当の関係を言えるわけでもないので、それは肯定も否定もせずにそのまま流されている。
だがしかし、こうして肩を並べ歩いていいのだろうか。
マリアーヌはいつも思わずにはいられなかった。
ローランドの隣は穏やかな空気に包まれていて、とても落ち着く。ただ今夜は心地よいとは言えない
沈黙が支配しているが。 マリアーヌは細く、ローランドが気付かないように小さなため息を吐き
ながら、夜空を見上げる。 ひんやりとした夜更け。空は雲ひとつなく、大きな満月が輝いている。
満月のせいか、あまり星が見えなかった。 いつだったかもこうして夜道を歩いたことを思い出す。 懐かしい。 そう思うも、そのとき傍らにいたのはローランドではなくハーヴィスだ。 それに思い至るとマリアーヌはなんともいえない気分になり視線を落とした。 罪悪感に似たものを覚える。 それは事実罪悪感なのだが、どうしてそう感じてしまうのか―――。 逡巡しながら、自分のことを好きだと言ってくれているローランドのそばで違う男のことを考えてしまっているからだろうかと、気付く。 まだローランドは―――。 自分のことを好きでいてくれているのだろうか。 そうだとして……、その想いに応えてもらえていないというのは……どういう気持ちなのだろうか。 そんなことを考え、無意識にローランドの立場に自分を置き替えてしまう。 もし。 もし、自分が――――“あの男″を好きだとして。 もし、もし――――……。 「夜風が気持ちいいですね」 不意にローランドが呟いた。 我に返ったマリアーヌは、また自分の意識が他へそがれていたことに気付く。胸の内でどうしようもない自分に嫌気さえ覚える。 「……ええ。ほんとうに。今日はとってもきれいな満月ですし」 言いようのない罪悪感から逃れるように、微笑み、まるでずっと夜空に意識を向けていたかのように振る舞う。 隣を歩く優しい人にたいして、自分はなんと傲慢なのだろう。 そう、思いながら。 「ほんとうに綺麗ですね。でも満月は」 ローランドは言いながら立ち止った。必然、マリアーヌも歩みを止め、ローランドを見つめる。 「―――人を狂わせる……とか言いませんか」 月を見上げているローランドの横顔は、物思いにふけるかのように切なげだった。 「マリアーヌ」 どう返事をするかマリアーヌが逡巡した数秒の間に、ローランドがまっすぐに見つめてきた。 向き合いしばし視線を絡ませる。 それは妙に息苦しくて、逸らしたくなった。だが、逸らすことをしてはいけない気がして堪えた。 そしてその息苦しさは―――ハーヴィスのことを考えるときのものとは違う苦しさで。 そっと伸びてきてマリアーヌの頬に触れる手も、ハーヴィスの手の温かさとは違うもので。 どうしようもなく、マリアーヌは視線を落としてしまった。 「……キス、してもいいですか」 沈黙のあと響いたのは弱々しいローランドの声。 戸惑いに視線を上げる。 ローランドの言葉の意味するものは、親愛の情ゆえのものではなく、恋情ゆえのもの。 なんと答えればいいのだろうか。 可とするべきなのだろうか? ローランドはオセの家にとって大切な人間。 家柄だけでなく、本人はとても優しく真っ直ぐな信頼たるべき人で、拒否などすべきではないのかもしれない。 マリアーヌはそっと唇を噛み、やはり再び顔を伏せてしまった。 再度の沈黙。 そしてローランドの手が優しくマリアーヌの顔を上向かせる。 静かに落とされたキスは――――額にだった。 呆けるマリアーヌは次の瞬間、ローランドの腕の中にいた。 「すみません。……また勝手をしてしまって」 頬を寄せたローランドの胸からは、早い鼓動が響いてくる。 ―――――いいえ。そう小さくマリアーヌは答えるしかできない。 「あの日、想いが通じるまでこんなことはしないと誓ったのに……」 マリアーヌの肩に顔をうずめるようにしてローランドが呟いた。 重苦しいため息がマリアーヌの耳元で響く。 暖かなローランドの腕の中。彼の想いが触れた先から伝わってくる。 あの日、突然キスされたときはなにも感じなかった想い。それが今、向けられる“恋”という感情の熱さと痛さを感じられるのは―――堕ちてしまっているからだろうか。 自分自身が……恋というものに。 今、こうしているのが“あの男”ではない、別の男というだけで、身体が拒絶するように強張ってしまうのは。 “あの男”を好きだからなのだろうか。 「僕は……」 “好き”も“恋”も知らなかった。 誰にも聞けず、誰も答えを教えてはくれないだろう、自分のこの感情。 だが、ローランドを見て、感じて気付く。 彼がいつも自分に向けていた眼差しに、想いに、切なさが、自分のそれと重なるから。 「僕は自分がこんなに臆病者だとは……思ってもみませんでした。あの日、貴女と話をした日……正直僕は安堵さえしていたと……気付いてしまった」 あの日、とは想いを告げられたときのことだろうか? マリアーヌはただ黙って立ち尽くす。 ローランドの声が微かに震えていて、なにも言えなかった。 そしてそれきり、ローランドはなにも言わなかった。 ローランドが腕の力を緩めたのはしばらくしてからで、彼もただ黙ってマリアーヌを促し再び帰路についたのだった。
「おやすみなさい」
優しく目を細め、ローランドは馬車で帰って行った。 マリアーヌはもう何も考える気力がなく、ぼんやりと母屋へと向かい歩く。 いつもであれば帰宅した旨をハーヴィスに伝えるために執務室へと行く。 だが今日は、今夜はハーヴィスに会いたくなかった。 会えば、すべての想いの答えが、はっきりと示されてしまう気がして。 それに向き合う自信が、なかった。 執務室のほうへと視線を向け、歩みは自室へと向ける。 たどりついた自室で、灯りをともすこともせずにベッドへ倒れこむように沈む。 マリアーヌはゆっくり目を閉じた。
いつの間に眠ってしまっていたのだろう。 マリアーヌは自分に身をすりよせるようにして眠る暖かな体温を感じ、ぼんやりとした中で微笑をこぼす。 身を丸めたカテリアをそっと抱き寄せる。 ニャァ、小さく鳴き声が響き、その背を撫でる。 「……カテリア」 いつでも艶やかな毛並みに触れるだけで、心は落ち着いていく。 ぺろり、カテリアがマリアーヌの頬を舐めた。 くすぐったさに小さく笑いながら、マリアーヌは目を細め薄暗い室内のどこをみるでもなく視線をさまよわせる。 「カテリアの主は……想う人、いるのかしら……」 ぽつり、呟いた。 それきり静まり返る室内。 マリアーヌは想いを遠くに飛ばしながら、カテリアの背を撫で続ける。 そして猫は―――鳴きも、身じろぎも、なにもせず、ただ沈黙していたのだった。
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2009,10,10
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