51
部屋の中からハーヴィスの返事があり、中へ入る。
ハーヴィスは相変わらずワイン片手にイスに座り、書類に視線を落としていた。
マリアーヌは無表情なハーヴィスの横顔を黙って見つめる。
いつもであればリザの案内を終えたことを報告し、次の仕事について話をする。
だがなぜか声をかけることができなかった。
リザとの会話が頭の中を駆け巡っていて、落ち着かない。
その上に複雑な心境にどうしたらいいのかよくわからなかった。
「―――………どうかした?」
黙りこんでいるマリアーヌに気付き、ハーヴィスが怪訝な表情で視線を向ける。
小さく首を横に振りマリアーヌは執務机の前に立ち、やはり無言のままハーヴィスを見つめる。
ハーヴィスは目をしばたたかせて笑う。
「どうしたんだい、マリー。僕の顔になにかついている?」
「……いいえ」
ようやくマリアーヌは小さく呟いた。
微かな溜息が響き、イスを引く音と足音がし、マリアーヌの傍らにハーヴィスが立つ。
「マリー?」
優しい声。頭を撫でる暖かい手。
不意に涙が出そうになる。
自分の気持ちが、心の動きがわからない。
いったいどうしてしまったのだろう。
涙を堪えて、マリアーヌはハーヴィスを見上げる。
「なにかあったのなら言ってごらん」
「………なにもないわ」
首を傾げ顔を覗きこんでくるハーヴィスと視線が合う。
「ほんとに?」
返事ができず、マリアーヌはそっとハーヴィスの袖を握る。
「……マリー?」
まるで小さな子供のような自分。
ハーヴィスにすがりつくような自分が―――、嫌になる。
「どうして………リザを雇ったの?」
気にすることなどない。なのに、気になってしかたがない。
ハーヴィスを好きだと言ったあの少女が。
甘い香りを漂わす少女が。
「ジェイル神父から紹介されてね。まぁ、彼女の存在は以前から耳にしていたし、話してみたら気が合ってなんとなく?」
やはりジェイル神父のところで、あの日会っていたのだ。
少しだけ安堵する。
「リザが……ハーヴィスのことを気に入ったって言ってたわ」
小声で言うと、ハーヴィスは一瞬目を点にするも声を立てて笑った。
「へぇ。それは光栄だね」
目を細めるハーヴィスは、さきほどのリザと同じように楽しげだ。
「……リザを愛人にするの?」
無意識に出た言葉は強張ったものだった。
「まさか」
笑いを堪えたハーヴィスが首を横に振る。
安心し、だがそれでも不安がぬぐえない。
なにがこんなに不安なのだろう。
「本当に? リザは綺麗だし……愛らしいし……それに……」
マリアーヌは言い淀む。
高級娼婦として一流のリザであれば男を一人虜にすることなど簡単だろう。
だがそれを口にするのは憚られた。
「僕は商品には手を出さないよ」
なんの感情も見えないあっさりとした口調のハーヴィス。
“商品”。その言葉にまたひとつ安堵を覚える。
リザはハーヴィスにとって“特別”ではないということだから。
「……リザが手を出してきたら?」
それでも不安を消し去ることができず、問い続ける。
ハーヴィスはマリアーヌの頭を撫でていた手を止めた。
笑みは浮かべて入るが、その目は無表情にマリアーヌを見つめる。
「そんなに俺のことが気にかかる?」
無機質な声。
「………え?」
戸惑うマリアーヌの目に映る男は一瞬冷たく笑うも、すぐにいつも通りの穏やかな笑みに戻る。
「心配ないよ。リザに手を出すことはない。壊しちゃったら大変だからね」
最後の言葉の意味がわからずに眉を寄せると、ハーヴィスは陰鬱な光りを眼に宿す。
口元が歪むように弓なりにつり上がる。
「僕はちょっと変わった性癖だから」
思いもかけない告白に思わずマリアーヌは呆けた。
「変わったって……」
絶句するように呟くと、内緒だよ、とでも言うようにハーヴィスは唇に人差し指を当てる。
「まぁ、ちょっとね」
気にならないといえば嘘になるが。さすがに性癖について問い詰めるような恥ずかしいことはできない。
マリアーヌは幾分混乱した頭を軽く振り、俯いた。
当たり前のことだが、自分はハーヴィスについて知らないことがたくさんある。
「マリー」
ハーヴィスの指が顎に添えられ、顔を上に向かされた。
だがなんとなく視線を合わせることができずに目はハーヴィスの首筋に止める。
「知りたい?」
耳元で囁かれる。
吐息が耳にかかり、微かにマリアーヌの肩が震える。
そして驚きにハーヴィスを見た。
笑っている男はゆっくりとマリアーヌに顔を近づけてきた。
ぺろり―――、その舌で唇を舐められる。
一気に羞恥で顔が熱くなっていくのを感じながらマリアーヌはハーヴィスを固まったように見つめる。
悪戯を楽しむように目を細め、触れあうくらいの唇同士の近さで、ハーヴィスの指がマリアーヌの唇をなぞる。
声も出せず、視線を逸らすこともできずにいるマリアーヌは全身が心臓になってしまったかのように動悸が激しくなっていっていた。
「君はどんな味なんだろうね」
闇より暗い呟きが響く。
そして唇が触れあう寸前――――、空気を裂くようなノックの音が響いた。
すぐにハーヴィスが離れていく。それに安堵と寂しさを感じながらも、マリアーヌはまだ動けない。
ハーヴィスが短く返事すると、扉の向こうからエリックの声がした。
ドアノブがまわる小さな音とともに、
「マリーちゃんはみんなに守られているねぇ」
ぼそりハーヴィスの言葉が漏れた。
怪訝に思い、ようやくマリアーヌは固まっていた身体を動かしハーヴィスを見る。
だがハーヴィスはいつも通りの顔でワインをグラスに継ぎ足していた。
「失礼します」
エリックが入ってくる。
「サノアが参りました」
室内に足を踏み入れた一瞬、マリアーヌを一瞥したエリックはハーヴィスに向かって報告した。
仕立屋サノア。
「そう。エリックわざわざありがとう」
普段であればプライベートに関する用事はハーヴィス付きの執事ステファンの役目だ。
だがそれがエリックだったとしても、珍しくない。オセの家に戻ってきているとき、エリックはさまざまな役目をこなしているから。
エリックに笑顔で礼を述べるハーヴィスの言葉に潜む棘にマリアーヌが気付く由もなく、エリックは一礼するとすぐに部屋を辞した。
「ところで、先日クラレンス様がおっしゃっていた夜会のこと覚えているかい?」
「え、ええ。もちろん」
先程までの話しは途切れたまま。先程までの異様な雰囲気は消え去った室内。
「その夜会用のドレスを新調するから」
だからサノアを呼んだのだとハーヴィスが言った。
先日ドレスを数着新調したばかりなのに、と一瞬マリアーヌは思うも、すぐに頷く。
クラレンス自らが赴くように命じた夜会だ。これまで出たことのある夜会よりも主催者の地位は高い。
くれぐれも隙を見せるような、あなどられるようなことはあってはならない―――、そんな気がした。
「僕も見立てるからね」
ハーヴィスがドレス選びに立ち合うのは久しぶりのことだ。
「好みに合わせたいからね」
ワインを飲みながら、続けて言うハーヴィス。
誰の、と一瞬思うも、クラレンスとハーヴィスの会話にのぼっていた人物のことだろうかとマリアーヌは察する。
「どのような方なの?」
この前も訊いたが、再度問う。
「さぁ」
だがやはり回答は得られなかった。
「まぁ、一つだけ言えるとすれば」
つと唇を舐めてハーヴィスは妖しく笑う。
「確執がなければ―――オセの家の最上顧客となるかただろうね」
夜会が楽しみだね。
楽しげに目を細めるハーヴィスに促され、マリアーヌは仕立屋の待つ部屋へと向かったのだった。
そして
『いつか、教えてあげるよ。さっきの続きをね』
音のない暗い呟きが―――密やかに闇にこぼれたのを、マリアーヌは知らない。
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2009,10,3
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