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朝の目覚めは軽い頭痛を伴っていた。
額を押さえながら起き上がると昨日着ていたドレスのままだ。
何故だろうと考え、そういえばハーヴィスの執務室でワインを飲み寝てしまったのだと思い出した。
部屋に戻ってきた記憶はない。
だがうっすらと運ばれてきた感覚を覚えている。ハーヴィスが連れてきてくれたのだろう、とマリアーヌはベッドから降りた。
お酒は強いほうではないが、かといって弱いというわけでもない。
昨夜はさほど飲んだという意識はないが、悪酔いしてしまったのだろう。
それにしても何故急に特に好きでもないお酒を飲んでしまったのだろうか。
洗面台へおもむき顔を洗いながら疑問に思う。
明確な答えは浮かんでこず、マリアーヌはため息をつき着替えた。
若草色のドレスはなんの刺繍も、細工も施されていないシンプルなものだった。髪を一まとめにし、手早く結い上げる。
一見使用人にでも間違われそうな質素な服装だが、ドレスの生地や髪留は最上級のものだ。
着替えを終えたころ、ノックの音がした。返事を返すとシェアが入ってきた。
「おはようございます、マリアーヌ様」
親しみ深い笑みで声をかけるシェアにマリアーヌも笑みを向ける。
「おはよう、シェア。昨日は着替えもせずに寝てしまったわ。変わったことはなかった?」
オセへ来た最初の頃はシェアに起こされる毎日だった。だが月日とともにその関係は変わっていっている。
いまシェアは紅茶の用意をしていた。部屋に深い紅茶の香りが漂う。
「先ほど、ローランド様のお使いの方が見えられました。お昼頃、マリアーヌ様に時間をとっていただきたいとのことでした。正午過ぎにいらっしゃるそうです」
「―――先ほど?」
ソファに座ったマリアーヌは驚いて置時計に視線を向ける。
まだ朝の7時だ。こんな早い時間に使いがくるとは……。
「なにかあったのかしら―――」
昨夜オペラを見に行ったばかりなのに、と呟き、そして思い出した。
別れ際のキスのことを。
おそらくそのことでだろう。
ハーヴィスはローランドが自分のことを好きと言っていた。
にわかには信じられないことだ。
だがそうなのだろう。―――ローランドの気の迷いかもしれないが。
マリアーヌはそっとため息をこぼし、淹れたての紅茶を飲む。
濃い目に淹れられた紅茶は頭をすっきりさせてくれる。
「シェア。ローランド様がお越しになられたらいつものお部屋にお通しして。昼食は済ませていらっしゃるでしょうから、そうね……ローランド様のお好きなアップルケーキを用意しておいて」
ゆっくりと紅茶を味わったあと、マリアーヌは立ち上がって言った。
「私はこれから庭園でローランド様をお迎えするためのお花を用意して、それから仕事に入ります」
「はい、かしこまりました」
どういう話をしにローランドが来るのかはわからない。
だが彼の人柄を考えるならば、こちらも誠意を持って対応しなければならないだろう。
恋という未知のことに戸惑いを覚えつつも、気を引き締めるようにマリアーヌは背筋を伸ばした。
「どうぞ、ローランド様」
ローランドのためにブレンドした茶葉で淹れた紅茶を前に差し出す。
「……ありがとうございます」
そう答え紅茶に視線を落とすローランドの表情は固い。
流れる沈黙にマリアーヌは胸の内でため息をつく。
ローランドがやってきたのは先の使いにあったとおり正午を過ぎた頃だった。
出迎えたマリアーヌに開口一番、「昨夜はすみませんでした」とローランドは謝罪したのだ。
厳しい表情のまま黙り込んでしまったローランドをなんとか促して、いつもローランドを通す部屋まで連れてきたのだ。
いつもなら喜んで飲む紅茶も、たっぷり生クリームを添えたアップルケーキにもまったく手をつけない。
どうすればいいのだろう、とマリアーヌは紅茶を一口含む。
「……ローランド様」
そっと伺い見るように視線を向ける。
ローランドはわずかに顔を上げた。
「すみません」
「私などに謝らないでください。怒っていませんし、責めたりもしませんわ」
その言葉にローランドは眉を寄せ、マリアーヌを真っ直ぐに見つめる。
「怒っていないのですか?」
「ええ。驚きはしましたが」
だから安心してください、そう微笑んだマリアーヌに対し、ローランドは顔を曇らせる。
「……では、マリアーヌは喜びましたか? 僕に突然キスをされて」
問われたことの意味がわからず、マリアーヌは言葉を失くす。
逡巡し、恐らくはローランドは自分のことを好きなのか、と訊いているのだろうか。
その答えにしばしして辿りつく。
ローランドのことは好きだ。人間として。
だがそれは彼の望む答えではないだろう。
なんと言えばいいのか、マリアーヌは自分の不甲斐なさに唇をかみ締める。
「そんな顔をしないで、マリアーヌ。僕は貴女を困らせたいわけじゃないんです」
ようやく少しだけローランドが気遣うように微笑んだ。
「昨夜のことも、本当にするつもりはなかったのです。ただ、僕の気持ちをどうしたら貴女に伝えられるのかと迷って、勝手に身体が動いてしまったというか……」
ぽつりぽつりと昨日のことを振り返るローランドは自分自身に苦笑しているようだった。
「貴女の気持ちも考えずに行動してしまったことに関しては反省しています。でも正直……勝手な行動でですが……気持ちを伝えたことは後悔していません」
どこまで真っ直ぐな人なのだろうか。
マリアーヌは真摯な眼差しを受け、内心うなだれたくなる。
「……私がこのようなことを言うのはおこがましいかと思いますが……その……ローランド様は……」
歯切れが悪くなる。どうしても自分のことを好きなのだとは信じれなかった。
「―――僕はマリアーヌのことを好きです」
あっさりと、だがしっかりとした口調でローランドは言った。
そこにあるのは優しい笑み。マリアーヌは思わず視線を揺らし、なにか気恥ずかしく頬を染めた。
「ただマリアーヌが僕のことをなんとも思っていないこともわかっています」
続く言葉に顔を強張らせるマリアーヌ。
「……なんとも……などということは」
「言い方が悪かったですね……。僕とマリアーヌは友人。だから友愛はあると思ってます。でも、恋愛感情はないでしょう?」
寂しそうなローランドの声に、マリアーヌは耐え切れずそっとため息を吐き出した。
"恋"ということについて話すのがこんなにも大変なものだとは予想以上だった。
これまで恋愛について話題が上ったことは実際あったが、その対象物は小説やオペラであり、我が身のことなどではなかったのだ。
どうこの状況を収めればいいのかわからず途方に暮れる。
マリアーヌはぬるくなりつつある紅茶をゆっくりと飲み干した。
そしてぽつりと呟いた。
「昨日、色恋のことがわからないと申し上げましたよね」
「ええ」
ローランドは小さく頷き、続きを促すように優しく見つめてくる。
「私は……このオセに来るまで、ずっと狭い世界で暮らしていたのです」
まぶたの裏に浮かぶのは亡き母親の姿。
「物心ついたころには父はおらず、母が私の世界のすべてでした。私は……幼くて、貧しさをどうにかするために身を売ったのです」
わずかにローランドの表情が翳るのをマリアーヌは確認しながら続ける。
「そして母も死に、このオセに売られてきました。ここでようやく知識を得ることができ―――少しだけ人並みにはなったのかもしれません」
なにをどういえば良いのかわからないままだ。言葉を探りながら、マリアーヌは無意識に自分の手を握り締める。
「このようなあからさまなことをローランド様に申し上げるのは心苦しいのですが……、無知なまま娼婦になったせいか……その……身体を重ねるという……行為に対して仕事としてしか見れないというか……。一般的に、恋愛の延長線上にその行為はあるものなのでしょう……?」
的外れなことを言っているのかもしれないと躊躇い言った言葉だったが、ローランドは半ば頬を染めるも真剣に耳を傾けていた。そして頷く。
「……そうですね。僕もマリアーヌも両親が愛し合って生まれたのでしょうし」
「そうなのでしょうね……。でも私には理解はできるのですが、果たしてそういった立場になることがこの先あるのか……と考えるとないとしか思えないのです。誰かに恋し、そして想いが通じること。そしてその先に触れ合うことも……想像できないのです」
身を売ったのは貧しさのため。
身体を差し出すだけでよかった。その行為に意味はない。
お金のために、客を満足させるだけの行為だったのだから。
女を買う男がいる。
そこになんの想いがなくとも。
だから―――。
「わけのわからないことを言って申し訳ありません。ただ……私は身を売るには幼すぎて……無知で、それゆえに恋愛というものに対しての意識が欠落してしまったのかもしれないと……思いまして」
言って、マリアーヌはうつむいた。
どれくらいだろうか。しばらく沈黙が落ちた。
うつむいているせいでローランドの表情は見えない。
「―――マリアーヌ」
優しい声が響いて顔を上げると、ローランドは少し笑っていた。
「そんなに難しく考えなくても大丈夫ですよ」
「……え?」
「確かに身を売ったことで男性に対して不信感から恋愛に対しても不信を抱くこともあるかもしれない。でも」
ローランドは立ち上がってマリアーヌのもとに歩み寄り、傍にかがみこむ。そっとマリアーヌの手を握った。
「マリアーヌは大丈夫です。欠落なんてしてません」
断言するように言われ、戸惑ったようにローランドを見つめる。
「マリアーヌには親友と呼べる人がいるのでしょう? 母が世界のすべてだったと言いましたよね。友情もお母様への想いも、すべて愛ですよね」
ローランドの手は暖かかった。
「人を愛することが出来るなら、恋だってできますよ。いまはただまだ恋に出会ってないだけだから」
できればその相手が僕であれば嬉しいのですが、とローランドは照れたように微笑む。
穏やかなローランドの眼差しと言葉に、マリアーヌは驚きに目を見開く。
「……そう……なのでしょうか」
「もちろんです」
大きく頷いてローランドはわずかに目を細める。
「こんなことを言うと失礼になるのかもしれませんが……。マリアーヌは可愛いのですね」
邪気のないローランドの笑みに、マリアーヌは虚をつかれる。
「僕は君が年下だということを忘れてました。いつも美しく完璧だったから」
美しく完璧?、誰のことを言っているのだろうか、と思う。
だがそれよりもその言葉の意味を考えると自分に対する評価が下がったということのなのだろうか、そうマリアーヌは一抹の不安を覚える。
ローランドはそんなマリアーヌの考えを一蹴するような満面の笑みで口を開く。
「―――もっと好きになりました」
目を輝かせるローランド。
マリアーヌは思わず頬を赤らめた。
それを見て、ローランドも頬を染める。そして急に慌てたように握っていたマリアーヌの手を離した。
「す、すみません。つ、ついっ」
一気に顔を赤くするローランドに、マリアーヌは呆け、吹き出した。
ローランドの素直で真っ直ぐな性格に心が暖かくなるのを感じる。
彼が言うのであれば、いつか自分も恋というものをする日がくるのではないか、そう思えた。
マリアーヌの笑顔に、ローランドはしばし焦ったようにしていたが、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「マリアーヌ」
一瞬躊躇った表情を見せつつ、ローランドが再びマリアーヌの手を取った。
「貴女がどのような恋に誰と堕ちるかはまだわからない。でもそれが僕ではないとは……言えませんよね」
真摯な眼差しにマリアーヌは笑みを静め小さく頷く。
「迷惑かと思いますが……。僕がマリアーヌのことを想うのを許していただけますか? 決して昨夜のようなことは、想いが通じるまでしませんから」
嫌だと、言えるわけがない。
だが彼のことを考えるのであれば、一瞬たりとも自分に関わるべきではないことは確かだった。
熱を帯びたローランドの瞳に押されるように、マリアーヌはしばしして、
「はい」
そう頷いたのだった。
途端に、顔を綻ばせるローランド。
想うだけでも幸せなのだ、そう表情に表している青年にマリアーヌの心の奥がズキリと痛む。
その痛みがなんなのか、いまはまだマリアーヌが気づくことはなかった。
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2009,5,8
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