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上機嫌に酒が酌み交わされていた。
マリアーヌは空になったクラレンスのグラスにワインをつぐ。
「無事に終わりなによりです」
ワインを手にしたハーヴィスがにこやかに言った。頷くクラレンスの顔は珍しく赤い。
今夜はローランドはおらず、部屋には三人だけ。仕事がようやく一段落ついた祝宴だった。
「あの娘は予想以上にうまく立ち回ってくれた」
至極満足げに笑うクラレンスの視線がマリアーヌに止まる。
「やはりマリアーヌの目は確かだったということか」
わずかにからかいを含みながらも暖かい声音にマリアーヌは恐縮しながら「とんでもございません」と首を振る。
いま話にのぼっている娘とはマリアーヌが奴隷市で買ったエロイーズのことだった。
「いやいや、本当に上出来だ。これで彼等の動きも封じる手立てが出来た――」
笑みをたたえたまま、クラレンスは声をひそめる。
ええ、と頷くハーヴィス。
あの夜、奴隷市場で見つけてきた少女はオセへは来ない要人の元へ送られる娼婦であったが、その実は密偵だった。
エロイーズがオセへ来てまだ一年も経たないという短い期間で、あの少女は最重要の仕事を任されていたのだ。
それが危険を大きく伴うものだったことをマリアーヌは知っている。
初めてそれを知らされたときにはどうしても後悔の念を抱かずにはいられなかった。
何故あの時―――、と。
「……アーヌ」
一瞬意識が暗い渦に飲み込まれそうになる。
呼び声に内心我にかえりながら、絶えず浮かべていた笑みのまま「はい」とクラレンスに答えた。
「あの娘にねぎらいをかけてやっておいてくれ。報奨も特別はずむようハーヴィスに言ってあるからな」
過去を悔いても仕方のないこと。
そうマリアーヌは胸の内で深く息を吸い込む。
とにもかくにも、エロイーズがこのオセで業績を認められたのはよいことだ―――、と考えながらマリアーヌは恭しく頭を下げクラレンスに礼を述べたのだった。
エロイーズと会うのは数ヶ月ぶりのことだった。
夕刻に一度顔を合わせ報告を受け、そしてクラレンスとの祝宴のあとマリアーヌはエロイーズの自室のドアをノックしていた。
久しぶりに会うエロイーズはオセを出て行ったときと変わりなく見えた。
歳よりも大人びて見える風貌をした少女。
危険をはらんだ仕事を経験してきたというのに、ようやく終えたというのに、数ヶ月前行ってまいりますと静かに言ったときのまま。
冷静――というべきものなのか、そうでないのか、つかみどころのない少女だ。
マリアーヌはエロイーズを眺めながら、微笑を浮かべた。
「ご苦労様でしたね。クラレンス様がとても貴女の仕事ぶりをお褒めになっていましたよ。それと次の仕事まではゆっくりお休むようにとオーナーが言っていました」
マリアーヌが労わりの眼差しを向けると、エロイーズは深々と頭を下げる。
冷静さ、とは別なものを感じた。
―――深い闇のような。
娼婦として働く少女たちは決して光を浴びる仕事ではないが、それでも華やかさに溢れている。
だがエロイーズは静謐な美しさはあるものの年相応の若さや華やかさは感じられなかった。
それがなにか寂しく感じてしまう。
マリアーヌは、ふと思いついたと言うように顔を上げたエロイーズを見つめた。
「そうだわ、よかったら今度一緒に観劇にでも行かない?」
この少女にも少しでもいいから楽しさや幸せを見出して欲しい。
それが傲慢で自分勝手なことかもしれないとわかってはいたが、言わずにはいられなかった。
エロイーズは表情を動かすことなく、
「お心遣いありがとうございます。ですが、私はマリアーヌ様にお仕えする身―――」
恐れ多いことです、とエロイーズは頭をたれる。
マリアーヌは思わず眉根を寄せ、困惑に苦笑した。
「まぁ、エロイーズ。私に仕えているだなんて……。私と貴女はこのオセにともに働く仲間なのに」
優しい笑みに変え、言葉をかけると、エロイーズはじっとマリアーヌを見つめ小さく首を振った。
「いえ、いまこうして私がいられるのはすべてマリアーヌ様のおかげです。私はマリアーヌ様にお仕えするためにここにいるのだと思っております」
至極真面目に、そして真摯に返され、一瞬マリアーヌは言葉を失った。
ほんの数秒沈黙が落ちる。
マリアーヌは再び笑顔を浮かべた。
「ありがとう。エロイーズの気持ちはとてもよくわかったわ。でもたまにはお茶でもしましょう。エロイーズのお仕事のお話とかもしたいし。ね?」
仕事という言葉を絡めたからか、エロイーズはようやく「はい」と頷いた。
内心ほっとしながらマリアーヌは身体には気をつけるように言い、エロイーズと別れた。
就寝前の一時、カテリアの部屋にて本をめくっていた手が止まる。
ため息が漏れた。
マリアーヌの足の上で身を丸めていたカテリアがちらり視線を上げる。
「どうしたんだい?」
そしてハーヴィスがワイン片手に怪訝そうに訊いた。
マリアーヌは笑みをつくろって軽く首を振る。
「なんでもないの」
「そう?」
「そう……」
「そうは見えないけど? なにか気になることでもあったのかい?」
促すように言われ、マリアーヌは視線を揺らす。
わずかに逡巡し、「エロイーズに……」と呟いた。
「彼女がどうかしたのかい?」
「……今日会ったときに、今度どこかいっしょにでかけないかと誘ったの」
そのときのことを思い出し、苦笑が浮かぶ。
逆にハーヴィスの顔には、わずか面白そうな色が浮かんだ。
カテリアは興味なさ気に再び身を丸め目を閉じた。
「エロイーズをねぇ。それで?」
「……私に仕える身だから遠慮するって」
マリアーヌは言いながら再びため息をこぼした。
ハーヴィスは口元に手をあて、小さく吹き出す。
「何がおかしいの」
わずかに頬を膨らませるマリアーヌ。
「いやいや、エロイーズなら言いそうなとこだと思っただけさ」
「そうなの?」
「あの娘は仕事のことだけだからね。君に買われ、君を主とし、仕えている。遊ぶなどという要素を必要としていない」
ハーヴィスはワインを継ぎ足し、微笑する。
反してマリアーヌは眉根を寄せ、顔を曇らせた。
「私は彼女の主ではないわ」
なにか重苦しいものが胸の内を伝う。
同時に一抹の哀しさをも覚え、言葉は暗く沈んだ。
「まぁ彼女にとっては、君によって新たな世界へ来たのだからね。君に仕えようと思っても仕方のない、ごく自然なことでは?」
そうなの、だろうか。
マリアーヌは自分がオセへ来たときのことを思い浮かべた。
ここへ売られて、きっとボロボロに沈んでいくんだろうと思っていたあの頃。
いつか暗く消えてしまえばいい、そう思っていたあの頃。
でも、違った。
だから……。
「彼女と君は違うからね」
マリアーヌの想いを払い捨てるかのように遮られた。
だがそれは優しい声色で、マリアーヌは複雑な表情を浮かべてハーヴィスを見つめた。
「どう……違うの?」
心もとない声になっていることにマリアーヌ自身気づいていた。
「さぁ?」
小さく笑うハーヴィス。
「さぁって……。からかっているの?」
「いいや」
否定しながらも、ハーヴィスは今度はわずかに声をたて笑った。
「まぁ同じ人間なんていないからね。さして気にすることもないさ。どんな環境になっても変わらない場合もあるというだけ」
ワインをあおるハーヴィスを見ながら、マリアーヌはハーヴィスが答える気がないことに気づいた。
変わらない――、それはエロイーズにさきほどあった時にふと思ったことでもある。
なにか言いたかった。だがどう言えばいいのかわからずマリアーヌは黙って口を閉じる。
「なんにしろエロイーズは……、君を裏切ることはしないよ」
君の役に立つだろう。
そうハーヴィスは目を細め言った。
そんなことを言ってほしいわけではなかった。
だがやはり言葉は見つからず、マリアーヌは再びため息をついた。
「そうそう。明日はローランド様と観劇の予定だったかな?」
話は終わったとばかりに次の話題へと転換される。
マリアーヌはエロイーズのことを想いながらも、笑みを浮かべて頷いた。
「ええ」
「また"オルフェオとエウリディーチェ"?」
からかうような眼差しを向けるハーヴィスに、そうよ、とマリアーヌは至極真面目に頷く。
上演が始まったころに一度すでに観に行っていたオペラだった。
そして明日千秋楽を迎えるので、再び観劇する約束をしていたのだ。
「ローランド様のお気に入りのオペラですもの」
何度でも観たいのじゃないかしら。
そうマリアーヌが言うと、ハーヴィスが大きく吹き出した。
「素直な方だからなぁ」
笑い声に、マリアーヌはたしなめるような眼差しを向ける。
「よいことではないの。ローランド様は"愛"を謳う物語がお好きなのよ」
心優しいローランドらしいではないか。
一種の憧れさえも感じるローランドの真っ直ぐさを想う。
と、再びハーヴィスが吹き出した。
マリアーヌが冷ややかな眼差しを向けると、ハーヴィスはすまないすまないと言いながらも笑い続ける。
「ハーヴィス」
「ああ、ごめん。でもローランド様が気の毒でね」
その言葉にマリアーヌが怪訝にすると、ようやく笑をおさめたハーヴィスがワイン越しに視線をよこした。
「素敵な愛のお話を観て、彼の方は何を想うんだろうね」
からかうような口調で問われ、マリアーヌはさらに不思議そうに首を傾げた。
「前途多難」
ワインをあおりながらハーヴィスがポツリ言う。
なんなの一体?、そうマリアーヌが問い返すも、ハーヴィスは「さぁ」と笑うだけ。
そうして、愛のお話を観るべき夜が訪れ。
運命の輪が、ほんのわずか軋む音を立てる―――。
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2008,9,27
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