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「オペラはお好きですか?」
 皿にのったお菓子も少しづつへり、それとともに部屋の空気も和やかになってきていた。
 ローランドの問いにマリアーヌは「ええ」と頷き、たまに観劇に行くこともあることを答えた。
「ローランド様もオペラはよくご覧になるのですか?」
 2杯目の紅茶をローランドのカップに注ぎながら、マリアーヌは笑みを向けた。
「はい、私もよく姉や従姉と観に行きます。ただ悲劇的なものは少し苦手で……。それでこの前は……」
 と、ローランドは言いにくそうに目をしばたたかせながら、紅茶に砂糖を落とす。
「どうも涙もろく……よく姉から怒られてしまうのです」
 ため息混じりに呟かれた言葉に、マリアーヌは目を細めた。
「ローランド様はほんとうに感受性がお強くていらっしゃるのですね」
 ティーカップに手をかけていたローランドは恥ずかしそうに苦笑いを浮かべる。
「でも私はそんなローランド様が素敵だと思いますわ」
 一瞬驚いたように目を見開き、顔を真っ赤にさせるローランド。それを隠すように、うつむく。
 その様子を見ながらも、マリアーヌはとくに気にするでもなく、
「心のままに感じることができるなんて、羨ましくもあります」
と続けた。
「……そうでしょうか」
 照れたように言い、顔を上げながら、ローランドはふと怪訝そうにマリアーヌを見つめた。
 不思議そうな色を宿したローランドの眼差しに、マリアーヌは笑顔のまま小首を傾げる。
「どうかいたしました?」
「え……あ、いえ。マリアーヌ……は、あまり心を動かすことがないのかなと思って……」
 そう言うも、すぐに「失礼なことを言ってしまいました」と慌てるローランド。
 今度はマリアーヌが怪訝にローランドを見つめた。
 思ってもない切り返しだった。
 素直にものを感じ涙を流すことができるローランドが羨ましい、それは本心だ。だが話の流れでいっただけの部分もある。
 鋭い部分ももちあわせているのだろうか―――、そう思いながら笑みを作る。
「いえ、お気になさらないでください。とくに深い意味はないんです。そういえば、ローランド様は遠乗りがお好きではなかったでしょうか?」
 とくに深く話すことでもないと、さりげなく話を逸らした。
「以前リネット様が弟君のことをお話になっていらっしゃったんです。いま、ふとそれを思い出して」
 驚いた顔をしていたローランドは納得したように、笑みをこぼした。
「はい、馬を走らせているときが一番好きなんです」
 先ほどまでとは違い、自然な生き生きとした表情で、遠乗りのこと、愛馬のことを話し出すローランド。
 聞いているだけで楽しさが伝わってくるものだった。
 マリアーヌもまた屈託のない笑顔で話を聞いていた。
「――――マリアーヌは馬は乗られるのですか?」
「そろそろ練習をしようと思ってはいるのですが、まだ乗ったことはないんです。すぐ、落ちてしまいそうな気がします」
 口元に手をあて、マリアーヌはくすくすと笑った。
「馬は優しいですから、女性を振り落とすなんてことはしませんよ」
「そうならいいのですけど。あのしなやかな馬の背にのってバランスを取る自信がぜんぜんないですわ」
 すっかり打ち解けた様子のローランドは、ふと思いついたように手を打って、マリアーヌのほうへと身を乗り出した。
「それなら、今度私が教えますよ。私の馬はとても穏やかな性格をしているし、命令には絶対ですから、怖いことなどありません」
 名案、とばかりに表情を輝かせるローランド。
「まぁ、ありがとうございます」
 実際に身分が違いすぎるローランドに教えてもらうことなどないだろう。社交辞令だとしても、そう言ってくれた気持ちがうれしく、にこやかにマリアーヌは軽く頭を下げた。
 と、にわかにローランドの視線が泳ぐ。そして、しまった、とでも言うように口元を多い顔を逸らした。
 一介の使用人に変なことを言ってしまったと後悔したのだろうかとマリアーヌは思ったが、目に見えてローランドの横顔が赤く染まっていくのをみて、内心首を傾げる。
 時折ローランドの見せる慌てた様子がなにを指しているのか、マリアーヌには気づく由もなかった。
 ややしてローランドは、耳を赤くしたまま視線を泳がせたまま、マリアーヌに向き直った。
「……マリアーヌが迷惑でなければ、その、今度……」
 真面目な方、とマリアーヌは目を細める。
 せっかくの好意を断る必要もなければ、断れる立場でもない。
「ローランド様のお心遣い、本当にありがたく思います。機会があれば、ぜひお願いします」
  マリアーヌがそう言うと、ローランドはほっとしたように、そして嬉しそうに頬を緩めたのだった。
 







***












 カテリアの部屋でゆったり本を読んでいると、ハーヴィスがノックもなく入ってきた。
「はい、お土産」
 ハーヴィスが上着を脱いで椅子にかけ、そして一つ包みを差し出した。
 ニャア、とマリアーヌの側に丸まっていたカテリアが包みに鼻を近づけ匂いをかぐ。
「何かしら?」
 ほのかに滲んでいる甘い匂いに、自然と顔がほころぶ。
 タイを緩めながら、すぐそばの椅子に座るハーヴィスに視線を向けて、開封した。
 円形の箱に入ったのはシュガークッキーだった。
 まぁ、と思わず嬉しさに頬が緩む。ふんだんに粉砂糖がまぶされた丸いクッキーを早速口に運んだ。
 ほろほろと口の中で崩れていくクッキーの食感と砂糖の甘さがとても美味しい。
 口の中いっぱいに広がる味をじっくり堪能する。
「美味しいかい?」
 ハーヴィスの問いに、もごもごと口を動かしながら大きく頷いた。
 それはよかったと、ハーヴィスが可笑しそうに笑っている。
 マリアーヌはじっとクッキーを眺めているカテリアのために、ハンカチを広げると食べやすいように砕いてやった。
「ハーヴィスはいらないの?」
「僕はいいよ。ジェイル様のところで食事をご馳走になってお腹いっぱいだ」
 背もたれにゆったりともたれながら、苦笑するハーヴィス。
 二つ目のクッキーを頬張りながらハーヴィスを見ると、わずかだが顔が赤い。
 きっとジェイルとともにワインを数本空けてきたに違いない。
 それでも今日は休日であるし、とマリアーヌは小言を言うのはやめにした。
 クッキーを食べながら、そんなことを考えていると、ハーヴィスがじっと視線を向けていることに気づく。
「なに?」
「―――ローランド様がいらっしゃったそうだね」
 クッキーを続けて食べたせいで喉が渇いた。マリアーヌは近くのテーブルに置いていた紅茶をとり、喉を潤すと微笑して頷いた。
「ええ。この前のオペラでお貸ししたハンカチを持ってきてくださったの。それに新しいハンカチまで用意してくださって」
 昼のことを思い出し、楽しげにマリアーヌは目を細める。
「へぇ」
 椅子の肘置きに頬杖をつき、気だるげな眼差しでハーヴィスが小さく笑った。
「ローランド様って、本当にお優しい方なのね。純粋なところがおありになるというか」
「そうだね。だからこそあえてクラレンス様はここへ連れてこられたのだろうがね」
 ハーヴィスの言葉に、マリアーヌは口元に運びかけていたクッキーを持つ手を止めた。
 昨日ローランドと再会したとき、このオセとかかわる事によって彼がどう変わるのか興味がわいた。
 単純にそう思った。
 だが今日ゆっくりと話してみて、複雑な思いが湧く。
 たとえ客と言う立場であれ、あの青年がこの場所と関わることはいい影響を与えることはないだろう。
 優しく純粋なローランドは、そのままでいたほうがよいのでは。
「どうかした?」
 ふと顔を曇らせたマリアーヌに、ハーヴィスが問い掛けた。
「……なんとなく……ローランド様には今のままでいてほしいと思ったの」
 マリアーヌは指についた砂糖をハンカチで拭きながら、ため息混じりに言う。
 ニャァ――、とカテリアが一声鳴き、マリアーヌの膝の上へのぼってきた。マリアーヌは抱き上げて、クッキーの粉がわずかについたカテリアの口の端をそっとふき取る。
「確かに綺麗なものにはそのままでいて欲しいと思う気持ちはわからないでもないよ」
 小さな笑みを浮かべ、ハーヴィスは首を傾げて言った。
 カテリアの背を撫でながら、マリアーヌも小首を傾げて視線を返す。
「意外ね」
「おや、失敬だなぁ」
 顎に手を当て、言葉とは反対に笑いをこぼすハーヴィス。
 軽くため息ひとつつき、マリアーヌはカテリアに頬をよせるようにしてひざを抱えた。
「……オペラを見たり……本を読んだりして涙をすることなんてある?」
 品性や社交性を養うため、さまざまな芸術に触れるようにと言われている。
 音楽を聴くのは好きだ。オペラを見るのも、本を読むのも楽しい。
 だが、それだけだ。
「所詮"作り物"さ」
 目を細め、ハーヴィスがマリアーヌを見つめる。
 そう。
 どうしても、一線を引いてみてしまうのだ。
 舞台の上で繰り広げられる物語は真に迫って思わず息を呑むこともある、だが――――。
「よくわからないときがあるの。本を読んでいても、なぜ主人公は悩んでいるのかしら、とか」
 共感できない自分は欠落しているのだろうか。
 たまに、思ってしまうことがある。
 マリアーヌは、そう、ぽつりぽつりと呟いた。
 ニャァ――――、とカテリアが鳴き、マリアーヌの頬をなめた。
 肌をすべるカテリアのやわらかい毛並みに、頬が緩む。
「気にすることなどないよ」
 ハーヴィスの穏やかな声に顔をあげると、そっと頭を撫でられた。
「マリーは、いま色んなことを経験しているのだからね。それに――、マリーは充分感受性豊かだよ」
 ふわり、と前髪をすくようにハーヴィスの指が触れる。その指先のあたたかさに、自然と心がやわらぐのを感じた。
「そうかしら」
「そうだよ」
 優しく、そしてなにか愉しそうな響きを宿したハーヴィスの声。
「君はまだはじまったばかり―――。これからゆっくりと見ていけばいい」
 いろんなことをね。
 マリアーヌはじっとハーヴィスを見つめ、静かに頷いた。
「ところで、マリー。ローランド様は、なにかおっしゃっていなかったかい?」
 昼間のことを思い出し、とくに仕事のことはいっていなかったと、首を横に振る。
「別にオセのことなどじゃなくっていいんだよ。たとえば今度観劇に誘われたとか」
 カテリアを抱きなおしながら、マリアーヌは「ああ、そういえば」と微笑んだ。
「今度乗馬を教えてくださるとおっしゃっていたわ」
 答えると、ハーヴィスは少しだけ声をたてて笑った。
 きょとんとして見上げると、ひどく楽し気な表情をしている。
「それはそれは、結構なことだね」
「社交辞令でしょう?」
 何の気なしにマリアーヌは言った。
 とたんにハーヴィスの大げさなため息がひとつと、カテリアの喉が鳴る。
「なぁに?」
 目をしばたたかせながらハーヴィスとカテリアを見る。
 カテリアは小さく鳴いて、身を丸め、ハーヴィスは目はわらったまま苦笑いをつくっていた。
「貴公子様も前途多難だね」
「なに?」
「いえいえ。さてと、なんだか喉が渇いたな。マリー、ワイン飲みたいな」
 軽く首を振って、ハーヴィスはぐんと伸びをひとつして言った。
「だめよ。今日たくさんジェイル様のところで飲んできたんでしょう?」
「そんなには飲んでないよ」
「だめです」
「ちょっとだけ」
「だーめ」
 そうして押し問答をしつつ、ゆったりと夜は更けていくのだった。







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2007,1,7