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 ニャァ、と鳴き声一つしてカテリアが椅子から飛び降りた。
 マリアーヌはテーブルの上を片付けながら、「ちょっと待って」と声をかける。
 バスケットの中に綺麗にたたんだナプキンを入れ、ようやくマリアーヌも立ち上がった。
 日陰からでると陽射しが強く、思わず目を細めた。
 マリアーヌがいるのはオセの敷地内にある庭園だった。オセの営業が休みの日のお昼を外で食べることはたまにある。
 今日もまた快晴だったので、カテリアとともにブランチを取ったところだった。
 満腹で機嫌がよいらしいカテリアは軽やかな足取りで庭園を散策している。
 マリアーヌはバスケットを左腕にさげ、カテリアの後を追った。
 ひらりと噴水の近くを歩いているカテリアの姿を眺め、そういえば噴水に落ちたこともあったと、まるで遠い昔のことのように思い出した。
「カテリア、気をつけてね」
 笑いながら声をかける。
 ニャァ、と首を傾け、カテリアは軽く跳躍し噴水を飛び越えるようにして花々の中に降り立った。
「マリー」
 と、不意に呼びかけられた。
 マリアーヌはきょとんとして視線を向ける。
 昼間、まだ太陽が高い位置にある中で外出する支度を整え立っていたのはハーヴィスだ。
 その横にはエリックが控えている。
 マリアーヌはカテリアを抱き上げて、歩み寄った。
「あら、珍しい。ハーヴィスがこんな早くに出歩いているなんて。灰になってしまわない?」
 いつも昼をだいぶ過ぎてから活動をはじめるハーヴィスに、からかうようにマリアーヌは笑いかけた。
 相槌を打つように、カテリアが喉を鳴らす。
「君たちは失敬だね。僕は低血圧だから朝が弱いだけなんだよ。それにたまにはこうやって陽射しを浴びないとね」
 冗談ぽくマリアーヌを軽くにらむハーヴィス。だがすぐに笑みをこぼして、眩しそうに太陽を仰ぎ見た。
「本当よ。ちゃんと日光浴とかしなくてはだめよ。いつもお酒ばかりのんで不健康そうな顔をしているのだから。ねぇ、エリック?」
 一転して至極真剣な顔で言い、マリアーヌがエリックへ同意を求めるように視線を向けた。
 エリックもまた至極真剣な表情で小さく頷く。
 それを見て、ハーヴィスは大きなため息をついた。
「まったくマリー……いつのまにそんなに口うるさくなってしまったんだい。エリックやカテリアはマリーの味方のようだし。ああ、僕はなんて可哀想なんだろう」
 わざとらしく沈痛な面持ちで、ハーヴィスは額を押さえた。
「口うるさいだなんて、心配してあげているのに」
 わずかに唇を尖らせながらも、マリアーヌの目は笑っている。
 それに気づいたのかハーヴィスはにっこりと作り笑いを浮かべた。
「そうだね。ああ、なんてマリーは優しいのだろう。感動したよ」
「そうでしょう? いいのよ、気にしなくても」
 芝居がかった口調で応酬しあう。お互いに儀礼的な笑みを返しあうと、ニャァ、とカテリアの鳴き声が遮った。
 喉を鳴らせてマリアーヌを見上げているカテリア。
「女王様は早くマリーと二人で遊びたいご様子だね。さて、僕らも出かけてくるよ」
 笑いを含んだ、だがどことなく冷やかな声はほんの少し。すぐに明るい声でハーヴィスが言った。
「どちらへ行かれるの?」
 カテリアがマリアーヌの腕から抜け出し、花壇の花々のほうへと歩いていった。
 マリアーヌはちらりそれを見てから、ハーヴィスに視線を戻した。
「ああ、ちょっとジェイル神父が急用があるそうでね」
「そう。―――行ってらっしゃい」
 笑顔で軽く手を振る。
「夕刻までには帰るから」
 ハーヴィスは「なにかお土産も買ってきてあげるよ」と言って、エリックとともに出かけていった。
 それからしばしマリアーヌはカテリアとともに庭園を散策し、穏やかな時間を過ごしたのだった。











***












「カテリア、一緒に行く?」
 そろそろエメリナのお墓へ行って来ようと、マリアーヌはカテリアに視線を向けた。
 ニャァ――、とカテリアは低く鳴いて柔らかなクッションに顔を伏せる。
 それを見てマリアーヌは苦笑を浮かべると「それじゃあ行ってくるわね」と、カテリアの部屋をあとにした。
 裏門を出ると、ちょうど一台の馬車が遠く前方に見えた。
 裏門へ続く道は一本しかなく、必然その馬車はオセの家へと向かってきていることがわかる。
 だが馬車はオセに着く寸前で止まった。
 マリアーヌは立ち止まり馬車を見つめる。
 今日の昼、来訪する予定の顧客はいない。ハーヴィスもついさきほど出て行ったばかりなのだ。
 誰だろう、とマリアーヌが目をこらしていると、再び馬車が走り出す。そしてまた、少しして止まった。
 もう御者や、馬車の様子が見て取れるほどの距離だ。その馬車は家紋が入っていなかったが、造りと御者の様子からマリアーヌはニュルウェズ公家のものだと気づく。
 御者が手綱を引く。だが馬が脚を上げたところで、再度御者が手綱を締める。
 一進しては止まる馬車が、ようやくオセの裏門へたどり着いたのは5分ほど要してからだった。
 何度か顔を合わせたことのある御者にマリアーヌは会釈をした。
 それから御者が馬車を降り、車内へと声をかけ、その戸を開ける。
「……ちょっと待ってくれ、ダニー。やっぱり帰―――……」
 若い男が顔を覗かせながら、御者へと言う。だがそれは途中で途切れた。
 御者のそばに立っていたマリアーヌはその青年と目があい、にっこりと笑顔を向ける。
 なぜか驚いたように目を見開いた青年ローランドは、凍りついたように固まっている。
 どうしたのだろうか、昨日もそう思ったのを思い出しながらマリアーヌは、頭をたれた。
「いらっしゃいませ。あいにくオーナーはただいま外出しております。私でよろしければお話をお伺いいたしますが」
 笑顔のままそう言うと、ようやくローランドはぎくしゃくとした動きで馬車から降りてきた。
「……いえ。あの……」
 しどろもどろでローランドが目を泳がせている。
「もし私でないほうがよいのでしたら、マローを呼んでまいりますがいかが致しましょう?」
 ハーヴィスの側について仕事をするようになってしばらく経つが、顧客の中にはまだ年若いマリアーヌに対して仕事の用件を言わないものもいる。
 実際まだ勉強中なのであるし、いずれ認められ、信頼を得られるようになろうとマリアーヌは考えていた。
「え? いえいえ! 結構です! そんなマリアーヌさんじゃないほうがいいだなんて。僕……いや……私はそれに―――」
 慌てて首を振り、うろたえるローランドに、マリアーヌは思わず頬を緩める。
 僕、と言うほうがローランドには合っているとそんなことを思った。
 ローランドの言葉は途切れ、戸惑うように視線が揺れている。
 この調子でオセへたどり着くまで馬車を走らせては止まらせていたのだろうか。
 ややしてローランドは深呼吸一つして、
「私は……貴女に会いに来たのです。……その用事があって」
 と、言った。
 マリアーヌは内心怪訝に思いながらも、「私にですか?」と笑顔で問う。
「……ええ。あの、昨日お礼を言おうと思っていたのですが言えなくて……」
 ローランドの言葉に、逡巡し、オペラでのことだろうかと気づく。
 お礼を言われるようなことはしていないが、と思いつつマリアーヌは遠くに馬車を見つけた。馬車はこちらへくることなく、遠く向こうを横切っていっただけだ。
「……ローランド様。よろしかったら、お茶お淹れしますので中に入られませんか?」
 公爵家の子息であるローランドがこの場にいつづけるのは色々な面で好ましくない。
 オセへの出入りは慎重にしなければならない。だからクラレンスはオセへ来るときには公家の紋章の入っている馬車ではやってこないのだ。
 笑みを絶やさずにマリアーヌが「どうぞ」と頷くと、戸惑いつつも嬉しそうにローランドは微笑んだ。
 
 








 ローランドを案内したのは、彼の姉であるリネットとお茶会をする部屋だ。
 日当たりがよく明るい室内。
 オセの地下の暗い応接室よりも、こちらのほうがローランドにはあっていると思ったのだ。
「ローランド様は甘いものはお好きですか?」
 ダークチェリーのブラウンケーキと、スコーンを並べ、そして紅茶を淹れる。
 コポコポとティーカップの中に注がれていく飴茶色を眺めながら、ローランドはやや恥かしそうに頷いた。
「はい。あまり量を多くは食べきれませんが、好きです」
 マリアーヌは口元を緩め、「どうぞお召し上がりくださいね」と、紅茶を置いた。
 マリアーヌも席につき、揃って紅茶を口に運ぶ。
「―――やっぱりマリアーヌさんの淹れてくれた紅茶、すごく美味しいです」
 ほっと息をつき、ローランドが微笑む。
「ありがとうございます。とても嬉しいですわ。でもローランド様? 私のことはマリアーヌとお呼びくださいね」
 にこにこと言うと、ローランドは「あ……」とハッとしたように呟いた。
 視線が合い、少しでも緊張を解いてもらおうとマリアーヌは柔らかな微笑みを向けた。
 ローランドはぎこちなく笑み、そしてしばし二人は無言のまま紅茶を味わった。
 ややして、
「あの―――マリアーヌ」
 緊張を含んだ声でローランドが沈黙を破った。そして上着から二つ包みを取り出した。
「オペラでお借りしたハンカチです。ありがとうございました」
 一つ差し出され、「まぁ、わざわざありがとうございます」とマリアーヌは受け取った。
「それとこれを―――」
 もう一つを渡され、マリアーヌは断りを入れてから中を見た。
 レースをふんだんにあしらい、花や蝶の精巧な刺繍が施されたハンカチが入っていた。手触りのよい、最高級であろう品。
 それを手にし、怪訝にマリアーヌはローランドを見上げた。
「ハンカチを貸していただいたお礼です。……受け取って下さい」
 マリアーヌにとってローランドは客であり、立場的に決して対等にならぶことのない相手だ。
 確かにハンカチを貸したが、新しいハンカチを貰うほどのことでもない。
 だが、マリアーヌは頬を緩めそれを受け取った。
「お気遣いいただいてありがとうございます」
 きっと誰にでも優しい人間なのだろう。細やかな気遣いがとても嬉しかった。
 それに受け取らなければ傷つきそうにも思えたのだ。
 それはどうもあたっていたらしく不安そうな眼差しをしていたローランドは、一気に安堵したように表情を緩めた。
「とても可愛らしくて素敵な柄ですわね」
 微笑を向けると、ローランドも嬉しそうに微笑む。
「気に入っていただけてよかったです。他にもいろいろあって、だいぶ悩んだのですが……これが一番貴女に似合っていると思ったんです」
 安心し緊張が解けたのか、先ほどまでとは打って変わった自然な口調でローランドは話す。
「まぁ、ローランド様がお選びくださったのですか?」
「はい。は―――はじめて、ご婦人の方の店に入り緊張しました」
 そのときのことを思い出したのだろう。ローランドは耳の端まで真っ赤にさせた。
 マリアーヌは一瞬目を点にし、そして思わず吹き出してしまった。
 顔を赤くし、緊張しながら選んでいる姿が容易に想像できた。
 ローランドがきょとんとする。
 マリアーヌは笑いを沈め、
「ローランド様に選んでいただけてとても光栄です。大切に使わせていただきますね」
 ハンカチを手にし、改めて微笑したのだった。
 


 




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2006,10,31