36
驚きをすぐに喜びのような輝くものへと変化させローランドはマリアーヌを見つめている。
真っ直ぐな眼差しを向けられ、数秒逡巡しマリアーヌは気づいた。
浮かべる表情や、いま目の前にいる青年のかもし出す凛としたものになかなか一致しなかったが、あの―――あのオペラで出会った青年と同じやわらかな雰囲気が同質であることに。
「アンナ・ボレーナのオペラでお会いした……?」
マリアーヌが怪訝に呟くと、ローランドは嬉しそうに顔をほころばせた。
「はい! またお会いすることができてよかった」
目を輝かせるローランドに、
「なんだ知り合いなのか?」と、クラレンスの声が響いた。
途端に我に返ったように笑みを消すローランド。
「も、申し訳ありません。先日、オペラを観に行ったときにお会いしたのです」
一歩身を引いて、ローランドがクラレンスに説明した。
マリアーヌの横で、ああ……、とハーヴィスが納得するように小さく呟く。
「お名前をお聞きしていなかったのですが、まさかクラレンス様のご子息だとは驚きました」
にっこりマリアーヌはクラレンスを見、そしてローランドを見る。
目が合い、ローランドは顔を赤くさせた。
「ほう、意外な縁があるものだな」
クラレンスが言いながら、ちらりローランドに視線を流す。
「勉強にしか興味がないのかと思っていたが……。なかなか目が高いではないか」
目を細めるクラレンスと、その言葉にさらに顔を赤くさせるローランド。
マリアーヌは言葉の意味がわからず、ただにこやかに傍観しているだけだ。
「―――とりあえず、場所を移動いたしましょう。ローランド様のお話をいろいろとお聞きしたいですし」
立ち話を切り上げたのはハーヴィスだった。
ローランドがハーヴィスを見て一瞬怪訝そうにしたのをマリアーヌは見た。
「マリー、ご案内しておくれ」
ハーヴィスに声をかけられた。
いつもどおり柔和な笑みを浮かべたハーヴィスに、頷く。
「どうぞ――」
そう先頭に立ち、4人は応接室へと向かったのだった。
ハーヴィスからローランドには紅茶をと言われ、マリアーヌはいつも以上に丁寧に淹れた。
「……美味しいです! マリアーヌさん」
一口紅茶を飲んだローランドは驚いたように顔を輝かせてマリアーヌを見る。
以前、仕事場ではマリーと名乗るように言われていたが、こういう顧客を相手にする挨拶では本名を名乗るようにと言われていた。
マリアーヌは微笑し、
「ありがとうございます。ですが、ローランド様。私のことはマリアーヌと呼び捨てになさってくださいませ」
と、頭をたれる。
ローランドはぎこちなく頷いた。
ローランドという青年は、ひどくオセに不似合いに思えた。
まだ19歳だというローランドは知性的で優しげで、いかにも育ちのよさを感じさせる物腰の柔らかさがある。
暗色の室内にいても、華やかさのある自然な優雅さをかもし出している。
クラレンスの息子だとしても、このオセと係わり合いにかせるにはあまりあっていないのではないだろうか。
オセのことを知り、この青年はどう思うのだろう?
純粋そうなローランドをさりげなく見やりる。
と、目が合う。
慌てたようにローランドは視線を逸らした。
「………?」
微笑を浮かべたまま、内心マリアーヌは怪訝に思う。
どうしたのだろうか。 「ところで、二人の馴れ初めを聞こうではないか」
にやりとクラレンスが口の端に笑みを乗せ、ローランドとマリアーヌを見る。
ローランドはわずかに顔を青ざめさせ、マリアーヌは小さな笑みを浮かべた。
オペラを見て泣いていたなど、言えるわけもないだろう。
そう思い、マリアーヌは、
「先日アンナ・ボレーナのオペラを見に行ったのですが、そのオペラがとても哀しくて、私思わず涙してしまったのです」
ローランドが驚いたように視線を向けてくる。
「涙を鎮めようと夜風にあたっていたところへローランド様がいらっしゃって、私にハンカチをお貸しくださったのです」
そのときのことを思い出すようにしてマリアーヌはゆっくりと言った。
「ほう」と、クラレンスが呟く。
そうでございましたよね、と言うようにマリアーヌがローランドへ視線を止める。
すると「違います!」、と勢いよくローランドが立ち上がった。
驚いて一気に視線がローランドに集まる。ハッとした様子で顔をこれ以上ないほど赤くさせ身を縮めるようにしてローランドは再度腰を下した。
「あ、あの、マリアーヌ……ではなく、私が哀しすぎて泣いてしまっていたのです。そこにマリアーヌが来て……ハンカチを……」
恥かしそうに、最後は消え入るような声でローランドが言う。
マリアーヌはしばし呆けたようにローランドを見ていたが、思わず吹き出してしまった。
嘘のつけない真面目な性格が如実に現れていた。
ハーヴィスは微笑ましいといった感じの笑みを浮かべている。
「お前は昔から感受性が強かったからな。有りえる話だ」
クラレンスが苦笑する。
「だが、ローランド。せっかくのマリアーヌの好意を無為にするのもどうかと思うぞ」
「えっ……。あ……すみません」
慌てたようにローランドがマリアーヌに視線を向ける。その眼差しは不安そうに揺れていた。
マリアーヌは安心させるように微笑し首を振る。
「いいえ、私こそ余計な真似をいたしました。でも……ローランド様の正直さを見せていただいて、嬉しく思いましたわ」
小首を傾げそうマリアーヌが言うと、再びローランドは顔を赤くさせる。
「正直さもほどほどにしておけ」
ため息混じりのクラレンスの言葉に、今度は青くなるローランド。
マリアーヌは口元に手を当て、笑みを押さえた。
きっと皆から愛され育てられたのだろう。全身から滲み出ている純粋さが、マリアーヌにはとても微笑ましかった。
それからは話はローランドのことからオセのこと、仕事のことへと変わっていった。
ローランドの表情は一転して真剣なものになる。
オセの業務内容のところではわずかに顔が強張っていたようにも思えるが、その真っ直ぐな面差しは凛としていた。
オセと関わることによって、この青年も変わるのだろうか。
ふと、マリアーヌは思ったのだった。
裏門へと行く最中、マリアーヌは何度となくローランドと目が合った。
そのたびにローランドは慌てて視線は逸らすこともあれば、何か言いた気にその眼差しが揺れることもあった。
マリアーヌは怪訝に思いながらもそれを表には出さず、ローランドをクラレンスを見送った。
「なにかご入用の際は、いつでもお申し付けください」
そうローランドへハーヴィスが声をかけ、そして馬車は動き出した。
馬車が見えなくなって、二人は屋敷に戻る。
「ローランド様には気の毒なことをしたかな」
執務室につくと、不意にハーヴィスが言った。マリアーヌは小首を傾げる。
「なにが?」
小さな笑みをこぼし、ハーヴィスは椅子に腰を下ろしながらマリアーヌを見つめた。
「ローランド様がマリーと話しをしたそうにしていらっしゃっただろう」
マリアーヌは「私と?」と言いながらも、確かにそのような態度があったことを思い出す。
「なにかオセのことで聞きたいことでもあったのかしら」
そう呟くと、ハーヴィスが可笑しそうに声をたてて笑った。
その笑いの意味がわからず、マリアーヌは怪訝に「なに」と言いかけた。
だが、ニャァ、と鳴き声が割り込んできて、マリアーヌは声のしたほうを見た。
カテリアがひらりと机の上に飛び乗る。
「カテリアも呼べばよかったね」
最近では珍しくハーヴィスがカテリアを抱きかかえながら言った。
カテリアが青い目を細め、ハーヴィスを見上げる。
「今日はローランド様がいらっしゃったんだよ」
ハーヴィスは長い指でカテリアの小さな顎を上向かせた。
興味なさそうにカテリアが小さく喉を鳴らし、ハーヴィスの指から逃れるように顔を逸らす。
「……カテリアもローランド様のこと知っているの?」
マリアーヌがカテリアの額を撫ぜると、カテリアはくすぐったそうに鳴き、ハーヴィスの腕から抜け出てきた。
当たり前のように自然とカテリアを抱き上げるマリアーヌ。
「ああ。なにせローランド様はエリーザの甥に当たる方だからね。僕とカテリアもだいぶ前だが一度会ったことがあったんだ。まだ―――ローランド様が4歳の時だけれどね」
まぁローランド様は覚えていらっしゃらないだろうが、椅子の背にもたれ掛かりながらハーヴィスが言って微笑した。
そう、と相槌を打ちながらも、マリアーヌはローランドは覚えているのではないだろうかと思った。
「人っていうのは成長するのだと、大きくなられたローランド様を見てしみじみ感じたよ」
ハーヴィスが芝居がかった口調で言った。
マリアーヌは思わず吹き出す。
「それは15年もたてば誰だって変わるでしょう」
カテリアの背を撫でながら言うと、
―――――そうありたいものだね。
ハーヴィスは静かに笑った。
ニャァ、とカテリアの鳴き声が、なにか答えるように低く響いた。
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2006,10,1
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