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「"アンナ・ボレーナ"のチケット?」
 カテリアの白く艶やかな毛並みにブラシをかけていたマリアーヌは、手を止めることなく視線だけを上げた。
「そう。リネット様からお届けだよ」
 ハーヴィスはテーブルの上に封筒を置くと、椅子に腰掛ける。
 ああ、とマリアーヌは封筒を見やり微笑を浮かべた。
「リネット様が先日ご観劇されたそうなんだけれど、すごくよかったそうよ。それで私にもぜひ観に行きなさいっておっしゃられてたの」
 つい二日ほど前のお茶会でリネットが楽しそうに感想を言っていたのを思い浮かべる。
 早速話題のオペラチケットを用立ててくれたのだ。
「へぇ。可哀想な王妃のお話だよね? 僕はもっと陽気なものが観たいな」
 ワインを開けながらハーヴィスが笑う。
 "アンナ・ボレーナ"。
 ヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンを描いたイタリア歌劇だ。
 王の寵愛を失い、罠にかけられ処刑された哀れな王妃。
 王家の歴史の授業でいつだったかハリスに教わったことがある。6人もの妻を娶った君主と、その妃たちの話を。
 マリアーヌは苦笑しながらブラシを置き、そっと手でカテリアの背を撫でる。
「観たい……って、ハーヴィス観に行くの? アンナ・ボレーナ」
 勉強をかねてマリアーヌはたまにジョセフィーヌと観劇に行くことがあった。だが、ハーヴィスと観に行ったことは一度しかない。初めてマリアーヌがオペラを見に行ったときだ。そのときは、そう喜劇だったと思い起こした。
「チケットは2枚頂いているじゃないか。誰を誘うんだい?」
 当然僕だろう、と言った口調のハーヴィス。
 ジョセフィーヌを誘おうかと思っていたマリアーヌだったが、そういえば彼女もまた近く友人と見に行く予定だと言っていたことに気づく。
「誘ってあげてもよろしくてよ? ―――でも珍しいのね、観に行こうとするなんて」
 茶化すように笑いながら、マリアーヌは首を傾げた。
「カテリアが好きそうな話だからね。かわりに僕が見てきてあげようかと思ってね」
 再三注意しているにもかかわらず昼間からのワインを味わいながら、ハーヴィスがカテリアを見る。
 マリアーヌもまたカテリアに視線を落とし、その鼻先をつつく。
「あら、カテリア観たいの?」
 ニャァ―――、とカテリアが小さく鳴いた。
 興味半分といったくらいだろうか、とマリアーヌは判断する。
「一緒に観に行く?」
 そうカテリアを覗き込むと、イヤ、というように顔を背けた。
 その様子を見ていたハーヴィスが笑い声をたてる。
「カテリアは出不精だからね。まぁいいさ。ところでマリーは僕とでは不服かい?」
 カテリアを抱きかかえながらマリアーヌは「滅相もございません」と、笑顔を作って返した。
「ではマリー嬢? たまにはオペラでも観に行きましょうか」
 ハーヴィスは微笑んで、すでに2杯目のワインを飲み干した。










***











 眩いばかりの光を放つシャンデリア。
 舞台から発せられる熱気が霧のように漂っている。
 そして空気を震わし、響き渡る歌声。
 舞台の上では王妃アンナ役の歌姫が透明感溢れる歌を惜しみなく披露している。
 話は第1幕終盤。

   愛人である女官を王妃にしたいと思っているエンリーコ8世(ヘンリー8世)の策略により、
   王妃アンナは初恋の人であるパーシー卿と再会する。
   パーシー卿はアンナに愛を告げるが、アンナはそれを拒否した。パーシー卿はその場で
   自殺を図ろうとし、アンナは気を失ってしまう。
   そこへエンリーコ8世がやってき、アンナを不義の罪で捕らえられてしまうのだ。

 椅子からわずかに身を乗り出して手すりの上に右ひじをつき、マリアーヌは階下の舞台を見下ろしていた。
 リネットが用意してくれていたのはもっともよい貴賓席だ。
 小さなテーブルの上にはハーヴィスのシャンパンが置かれている。幕間でもないというのに、ハーヴィスは特に舞台を見入るでもなく、シャンパンばかり飲んでいるのだ。
「……王妃でも要らなくなったら捨てられるのね」
 舞台に引き込まれながらも、どこか冷静な口調でマリアーヌが呟いた。
 この話の主人公であるアンナは2番目の王妃だった。
 ローマ・カトリックと決別してまで結婚したというのに、新たな愛人が出てきて、その座を奪われてしまうとは。
 後継ぎになるべく男子を産まなかったなど様々な理由はあるのかもしれないが、夫婦という絆はそんな簡単に切れるものなのだろうか。
「まぁこれは特異な例だと思うよ? いちいち王妃を死罪にするなんて、ばかげてる、というかもったいない」
 ハーヴィスが目を細める。
 笑いを含んだ声には、嘆きは皆無で、楽しげな響きだけがある。
「そうね……」
 相槌を打ちながら、マリアーヌは亡き母のことをふと思い出した。
 物心ついたときから父親の姿はなく母と二人で生きてきたのだ。
 母も、父に捨てられたのだろうか?
「ハーヴィスは結婚とかしないの? もし結婚して愛情がなくなったら、あなたも捨てるのかしら?」
 何気なく言った言葉だった。
 特に深い意味はなく、ただ第三者の意見というものを聞いてみたかったのだ。
 幕間に入り、華やかな喧騒につつまれている場内。
 だが二人のいるボックス席だけは、静かな空気が漂っている。
 しかし、ハーヴィスがそれを打ち破るように、シャンパンにむせたのか激しく咳き込みだした。
 シャンパングラスをテーブルに置き、呼吸を整えるように軽く胸元を叩いている。
 そこでマリアーヌはようやくハーヴィスを見た。
 どうしたの?、と首を傾げると、ハーヴィスは咳を静めて苦笑する。
「いや、思ってもみない質問だったから驚いてね」
「そう?」
 うん、とハーヴィスは苦笑を深くした。
 ややして笑みを柔和なものに換え、ハーヴィスは言った。
「僕は結婚はしないだろうね、生涯」
 あっさりとした口調だった。
 なぜだろうと思いマリアーヌはハーヴィスを見つめる。
 だがすぐにオセのオーナーという立場上、商売柄上そう言っているのだろうかとも思う。
「一般的に愛情がなくなったからといって、ばっさり縁を切ることもないんじゃないのかい。もしそうなったら、世の中一人身ばかりだ」
 再びシャンパンをあおりながら、ハーヴィスは笑った。
「――――まぁ、僕自身の場合は最初から捨てると思うがね」
 抑揚のない言葉に、マリアーヌは怪訝にする。
「最初から?」
 何を捨てるのだろうか、と聞き返すも、ハーヴィスは物憂げに目を眇めるだけで何も言わなかった。
 オペラグラスで階下を眺めながら、じゃぁ、とハーヴィスが呟く。
「マリーはどうなんだい?」
 質問を返され、マリアーヌはハーヴィスの返事と同じようにあっさりと、
「私も生涯結婚しないと思うわ。仮にそのような場合になったとして……どうするか予想がつかないけど」
 言いながらマリアーヌは、自分でした質問だというのに、自分自身がたいした答でないなと頭の端で思った。
 今度はハーヴィスが不思議そうにオペラグラスからマリアーヌへと視線を転じた。
「女の子は結婚を夢見るんじゃないのかい?」
 冗談ぽく笑うハーヴィス。
 マリアーヌはきょとんとして、首を傾げた。
「だって私にはカテリアの世話があるし。カテリアには私とハーヴィスしかいないんでしょう?」
 それは本心であり、マリアーヌにとってはなんの疑問も抱かないことだった。
 まるで永遠にありつづけるかのように。
「それに、ハーヴィスがいるし」
 マリアーヌは自分のために注がれていたシャンパンを初めて口にしながら、微笑した。
 一瞬驚いたようにハーヴィスがわずかに目を見開く。
「カテリアの世話はもちろん、オーナー様もとっても世話がかかるのだもの。いまで充分だわ」
 カテリアがいて、ハーヴィスがいる。
 それはすでにマリアーヌにとって当たり前のこととなっていた。
 邪気のない笑顔で言って、シャンパンを一口、二口と飲むマリアーヌを、ハーヴィスはじっと見つめ、「そうだね」と笑う。
 そしてハーヴィスは笑みを消し、再び階下を見やった。
「そうか………マリーはまだ――――恋をしたことがないんだね」
 そして、マリアーヌに聞こえないほど小さな呟きが、劇場の広い空間へと消えていった。

 







***






 新しい王妃の誕生を知らせる祝砲を聞きながら、錯乱したアンナは死んでいく。
 懐かしい昔の日々を、思い出しながら。
 美しく幸せだった日々に帰りたいと、狂気と正気の狭間をゆれながら。
 





***








「まぁまぁだったかな」
 煌びやかなシャンデリアの下、マリアーヌとハーヴィスは螺旋階段を降りていく。
 幕は下り、まるでパーティのような盛況さを見せるフロア。
 そこかしこから今日のオペラにたいする批評が交わされている。
「面白くなかった?」
「いや、あの狂乱の場がね。もう少し迫力が欲しくなかったかい?」
「そうねぇ……」
 舞台を思い出しながら、相槌を打つ。
 美しく悲しい狂気の歌を思い出す。
 王妃アンナの狂気の演技がもう一つ、と感じてしまうのは、それは現実に狂気に陥るというのがどういうことか、闇を知りすぎているからではないか。
「ま、思ってたよりは楽しめたよ」
 シャンパンも美味しかったしね、とハーヴィスが微笑んだ。
 マリアーヌは思わずあきれたため息をつき、そして笑った。
 帰って仕事というのがいやだね、などとハーヴィスがぶつぶつ言っている。
 しょうがないわ、と返していると、ハーヴィスがふと足を止めて、それまでとは違う笑みを浮かべた。
 ハーヴィスの視線の先を見ると、オセの顧客の一人がいた。
 マリアーヌも顔だけは見たことがある、上得意の客だった。
「ご挨拶をしてこよう。おいで、マリー」
 マリアーヌは連れられて、客の元へと行った。
 海軍本部の幹部だという客はサディアスと言った。一通りの挨拶を交わすと、少し仕事の話をしたいと言われ、マリアーヌは一人化粧室へと向かった。
 とくになんの乱れもないが貴婦人達の中で化粧直しをし、再びフロアへ出る。
 遠めに見ると、まだハーヴィスは話が済んでいない様子だった。
 フロアの喧騒はまだまだおさまりそうになく、マリアーヌはふと目に付いたテラスに出てみることにした。
 ほんの少しひんやりとした空気が頬を滑る。
 外はすでに深い夜の中にあった。
 と、マリアーヌはテラスに先客がいることに気づいた。
 一人の青年がいた。
 うつむいた横顔は哀しげで、うっすらとフロアからこぼれる光に陰影がついている。
 青年はしきりと手の甲でこするように目元を拭っている。
 泣いて、いるのだろうか。
 マリアーヌは精悍で爽やかな雰囲気を漂わす青年を怪訝に見つめる。
 オペラに感動してしまったのか。
 それともなにか哀しいことでもあったのか。
 どちらにせよ、哀しげな涙など似合わないように思え、マリアーヌはそっとそばに歩み寄った。
「あの……」
 もし本当に泣いているのであれば、声をかけないほうがよいのだろう。
 だがなんとなく、青年の小さく鼻をすすって耐えている様子が微笑ましくて声をかけていた。
 青年はびくりと肩を震わせて、振り向きかける。
 だがすぐに硬直する。
 恐らく人に、よもやレディに顔を向けれないと思ったのだろう。
「………なにか?」
 しばしして、ぎこちなく青年が言った。
 少し低い、だが若さを感じさせる凛とした声色。
 マリアーヌは横からレースのハンカチをそっと青年に差し出した。
 青年は驚いたようにハンカチを見、そしてマリアーヌに向き直る。
 20代前後くらいの整った顔立ちの青年だった。
「とても哀しいお話でしたものね」
 柔らかな微笑を向けると、青年は呆けたようにマリアーヌを見つめる。
 マリアーヌは青年にハンカチを手渡した。
 青年は少ししてから、はっと我に返ったように目をしばたたかせ、暗がりでもわかるほど顔を赤くさせた。
「は……はい」
 青年は視線を泳がせながら、恥かしげに呟く。
「ハンカチお使いになってくださいませ」
「えっ。あ―――ありがとうございます」
 おろおろとハンカチを握り締めている姿に、マリアーヌは微笑を禁じえなかった。
 純粋な性格をしているのだろう。
 暗がりではっきりとはわからないが、見た感じ仕立てのよい服を着ている姿は品のよさを感じさせる。
 身分の高そうな青年と、自分があまりしゃべっているのは好ましいことではない。
 マリアーヌはそう思い、
「それでは、失礼します」
 早々と会釈をすると、青年もまた慌てたように頭を下げた。
 マリアーヌは笑顔を残し、身を翻す。
 フロアに戻るとちょうど話を終えたハーヴィスがマリアーヌに気づいて軽く手を振った。
「どこへ行ってたんだい?」
 ハーヴィスのもとへ行き、その腕に手を添える。
 マリアーヌは小さな笑みをこぼして、先ほどの感受性豊かな青年のことを話したのだった。










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2006,8,5