30
チチチチチ―――――。 間近で聞こえてきた小鳥の声に、マリアーヌは目を醒ました。 部屋の中には朝日が差し込んでいる。 心地よいまどろみの中で、状況がよくわからずぼんやり視線をさ迷わせた。 チチチチ――――。 再び鳴き声が響き、見ると右翼に小さく包帯を巻いた鳥がテーブルの上を飛び跳ねている。 そこでようやくマリアーヌは昨夜からのことを思い出した。 ハッとして横を見るが、ハーヴィスの姿はない。 と、ポンと肩になにかが触れた。 首だけを動かし見れば、ソファの上部にちょこんと立ったカテリアが、前足を乗せてきている。 ニャァ―――。 おはよう、というより、遅い、とでも言いたそうな鳴き声だった。 「………カテリア。おはよう」 苦笑しつつため息をつき、マリアーヌはカテリアを抱き上げた。 久しぶりにカテリアに触れたような気がする。 マリアーヌはだいぶ世話をしていなかったが、カテリアの毛並みは相変わらず艶やかで手触りが良い。 腕の中のぬくもりが、とても愛しく感じ、マリアーヌはカテリアに頬擦りした。 「ほったらかしにしといてごめんね」 呟くと、カテリアはじっと見上げ小さく喉を鳴らす。 マリアーヌはそっとカテリアを抱きしめた。 しばらくその暖かさに浸っていると、静かに扉が開いた。 「―――――目、醒めたんだね」 ハーヴィスの声がかかり、無意識にマリアーヌは身体を強張らせた。 昨夜の、はじめて見た暗い眼差しが思い出される。 カテリアを抱きしめる手に知らず力を加えながら、振り向く。 「おはよう」 にっこりと向けられた笑みは優しく、そして眼差しもまた穏やかなもの。 なぜかホッとしながら、ぎこちなく「おはよう」と返事をする。 だが今度はきのう散々泣き喚いた自分の醜態を思い出し、ハーヴィスから目をそらしてしまった。 まだ苦しさも哀しさもあるが、憑き物が落ちたような穏やかさもある。 冷静になれば、ハーヴィスに対してのこれまでの自分の行動の幼稚さが急に恥かしくなってきた。 ―――ニャァ。 どうハーヴィスと顔を合わせ話せばいいのか迷っていると、カテリアが顔を上げ、鳴いてくる。 「お腹空いてないかい? カテリアはどうやら早く朝食をとりたいようだよ」 軽く明るい笑みをハーヴィスが向けてくる。 マリアーヌはカテリアの背を撫でながら、ようやくの思いで「そうね」とだけ返した。 途端にハーヴィスが吹き出す。 「どうしたんだい、マリー。えらくしおらしいね」 ムッと頬を膨らませるも、首を傾げ優しく見つめてくるハーヴィスにため息をついた。 精一杯背筋を伸ばして、 「それは淑女ですからね。しおらしいじゃなくて、おしとやか、の間違いだけど」 と、強がって言うと、さらにハーヴィスが笑い出した。 「ああ、そうだね。マリーはどこをとっても麗しき淑女だ」 からかうような口調に、やはりまたムッとしてにらむ。 「一緒に朝食の準備するだろう?」 だが視線があい、手を差し伸べられ、マリアーヌは自然と口元を緩めていた。 憎くてもどかしくて、でも大切な、残された自分の居場所。 「手伝ってあげてもいいわよ」 マリアーヌはわざとらしく澄ました笑みを作って言った。 チチチ――――。 小鳥が飛ぶようにして部屋を跳ね回っていた。
***
昨夜の嵐が嘘のような晴天だった。 朝食をとった後は、初めて屋敷の周辺をゆっくりと散歩した。 雨のせいで地面はぬかるんでいたが、空気はいつも以上に澄んでいた。 「せっかくだから今日1日ゆっくりしてから帰ればいいのに」 お昼過ぎには屋敷を出発したいと言ったマリアーヌにハーヴィスが残念そうにもらした。 確かにここへきて、結局今朝くらいしかまともに過ごしていない。 だが早くオセへ戻りたかった。 そしてエメリナのお墓へ行きたかった。 エメリナの好きだった花をたくさん買って、早く会いに行きたくなったのだ。 「じゃぁ僕は馬車の用意をするように言ってくるから。あとこの小鳥はコンラッドに任せるからね」 そうハーヴィスは小鳥を連れて、白い家へと降りていった。 残されたマリアーヌは閑散とした屋敷内を改めて見渡した。 着の身着のままでこの別荘へ連れてこられたから、これといって帰り支度をする必要もない。 だから最後にと散歩でもするように屋敷の中を歩いてみた。 どこもかしこも真っ白。陽射しが輝くように反射している。 目を細めなければ眩しい。だがすべてが暖かさを感じさせ、居心地がよい。 ニャァ――――。 不意に鳴き声が聞こえ見ると、カテリアが螺旋階段にいた。 おいで、というように再度鳴く。 階段をのぼっていくカテリアのあとをついていった。 3階の廊下をゆっくりと歩いていくカテリア。 突き当たりの部屋で立ち止まった。 ニャァ、とマリアーヌを振り返る。 「この部屋に入りたいの?」 鍵は開いているのだろうか、とドアノブを回してみる。 すんなりと扉はあいた。 そして甘く華やかな香りが溢れてきた。 マリアーヌが使うように言われた部屋よりも一回りほど広い室内。 やはり白を基調としている。 床は白地に花の刺繍をあしらった上品な絨毯が敷き詰められている。 白大理石造りの暖炉の上にはたくさんの花々が活けてある。 だが広さにかかわらず調度品はテーブルとソファだけだ。 マリアーヌは一歩足を踏み入れて、壁に飾られた絵に気づいた。 肖像画だった。 引き寄せられるように近づいて、そして知らずため息をついた。 美しい女性が、いた。 まるでそこに存在するかのように、いまにも喋りだしそうなほど生命力にあふれた女性が描かれていた。 美しく、凛とし、そして人を惹きつける魅力的な笑みを浮かべた女性。 豪奢な金の髪、サファイアブルーの瞳。オリーブグリーンのドレスは胸元が大きく開いており、豊満な胸がのぞいている。 首にかけられた大きく輝く宝石のネックレス。 金縁の椅子にゆったりともたれかかった女性は白い猫を抱いていた。 まどろんでいるのか寝ているのか、絵の中の猫は目を閉じている。 マリアーヌはしばし絵に見惚れ、そして振り返った。 ソファの上に丸まっているカテリアを見つめる。 「―――ねぇ、カテリア。この女性と……猫って」
「エリーザとカテリアだよ」 カテリアのかわりに答えたのはハーヴィスだった。 いつのまに来ていたのか、ハーヴィスが扉に寄りかかっていた。 ハーヴィスは微笑み、マリアーヌのもとへ歩み寄る。 「カテリアの主であり、オセの家を開いた我が麗しき女王」 そう言った口ぶりはどこか楽しげで昔を懐かしむかのようだった。 マリアーヌは改めて肖像画を見上げる。 本当に、非の打ち所のない美しい女性だった。 みずみずしい肌とばら色に染まった頬と唇。 若さを感じさせつつ、威厳と風格をも漂わせている。
「………すごくお若いのね」 初めて見るエリーザという女性は、どう見ても20代前半にしか見えなかった。 華やかで麗しいこの女性がオセを開いたとは、到底信じられない。 マリアーヌの呟きに、ハーヴィスが可笑しそうに笑う。 「彼女は若作りなんだよ。この絵が描かれたのは確かオセを開く直前だったから……」 16年前――――。 顎に手をあてハーヴィスが思い出すようにして言った。 「僕が18のときだったから、エリーザは32歳だったはずだよ」 マリアーヌは驚いて、絵とハーヴィスを交互に見る。 「32歳? どうみても20代前半か18、9歳くらいにしか見えないけれど」 言いながら、なにか妙なひっかかりを覚えた。 絵の中の女性エリーザが32歳にとてもではないが見えない。 だがそれと同様に、いまハーヴィスが言ったことが、気になった。 なんだろう? 気になって考えるマリアーヌに、ハーヴィスが失笑する。 「まぁ確かに。僕と並んでいるとよく姉弟と思われることもあったしね」 マリアーヌはわずかに眉を寄せ、気づいた。 そう、だ。 ハーヴィスは16年前、18歳のとき、と言ったのだ。 そう16年前―――? マリアーヌは目をしばたたかせてハーヴィスを見つめた。 「……ね、ハーヴィスっていくつなの」 いまさらな質問だ。 オセへきてもう1年以上、2年近くたつというのに自分はこの男のことを何も知らなかったのだと気づく。 聞きながら、まだなにか引っかかりを覚えていたが、 「僕? いま34だよ」 と、あっさりとした答えに、思わず絶句し思考は止まった。 呆けた表情のマリアーヌを見て、ハーヴィスが吹き出す。 「どうしたんだい、いったい?」 「だって、だって……。ハーヴィスも20代前半くらいにしか見えなかったから」 「ああ、よく言われるよ。僕も相当の若作りだろう? まぁこれといって昔からなにも成長していないしね」 なかなか大人にはなれないものだねぇ、などとのんきに笑うハーヴィス。 マリアーヌはしばらく呆けつづけて、そして目を細めた。 「そうね。精神年齢に比例して若く見えるのかもね?」 少しだけ意地悪く言うと、ハーヴィスはわざとらしく傷ついた、というように顔を伏せた。 「ひどいよ、マリー」 「あら、ごめんなさい」 そして顔を見合わせ、笑いあう。 マリアーヌは笑顔のまま、再びエリーゼへと視線を向けた。 「ねぇ、ハーヴィス」 「なんだい」
「―――――この方は」 この美しさに溢れた貴婦人は。 「なぜ」 どうして。 「オセの家を開かれたの?」 幸せと、眩いばかりの光をまとっているのに。
不思議だった。 ハーヴィスは口元に笑みを浮かべ、ソファにいるカテリアを抱き上げた。 「さぁ」 首を傾げるハーヴィスをマリアーヌはそっと伺った。 その横顔は、眼差しは遠い過去を思い出しているようにも見えた。 「――――居場所を作っておきたかったんじゃないのかな」 居場所? 怪訝にするマリアーヌに、ハーヴィスは、なにか呟いた。 え?、と聞き返す。 だがハーヴィスは「なんでもないよ」とエリーザを見上げ、そして部屋を出て行った。 マリアーヌもまたエリーザを見上げる。 ――――ニャァ。
呼ぶように鳴き声が廊下から聞こえてきた。 マリアーヌはようやく肖像画の前を去り、部屋を後にした。
屋敷を出、鍵をかけたあと、その鍵がマリアーヌの手に落とされた。 ―――――いつでも好きなときに来ていいよ。 君にあげるから。 そう、ハーヴィスは微笑んだ。
そしてマリアーヌたちはオセの家への帰路についた。
第2部:終
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2006,6,15
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