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このお部屋をお使いくださいませ。なにかご入用のものがあれば、お申し付けください。
ステファンは言って、マリアーヌを残し去っていった。
マリアーヌは唖然とした面持ちで部屋を見渡す。
二つ続く部屋。いかにも高級そうな調度品が並んでいる。床に敷かれた絨毯は異国の風景が織り込まれたもの。ソファーはボルドー色で、触れただけでその手触りのよさとやわらかさがわかる。
奥に進むと寝室になっていて、天蓋つきの大きなベッドがある。マリアーヌの腰の位置くらいまである高いベッド。
パールピンクのネグリジェと肌触りのよいガウンが用意されていた。
鼻腔をくすぐる香りに視線を向けるとベッド脇のテーブルに薔薇がいけてある。
マリアーヌは予想もしていなかった部屋の広さと、馴染みのない最上級の空気に包まれ、しばらくのあいだ立ち尽くしていた。
と、ドアがノックされた。
マリアーヌが小さく返事をすると、先ほど給仕していた少女が入ってきた。
少女はお辞儀をした。
「今日から身の回りのお世話をさせていただきますシェアと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
さらに目を点にするマリアーヌにシェアは「お着替えをお手伝いします」と告げた。
どういうことなのかわからないマリアーヌは促されるままにネグリジェへと着替える。
滑らかな生地にむず痒さを感じた。
「ご用がありましたらベッド脇にあります紐をお引きください。すぐに参りますので」
見ると確かにベッドのそばに天井からさがった紐があった。
返事もできずにいるマリアーヌに頭をたれてシェアは部屋をでていった。
マリアーヌはしばらくして仕方なさそうにベッドにもぐった。
身体を包み込む柔らかな感覚。
今の状況がどうしても飲み込めない。
明日、もう一度あのオーナー……ハーヴィスと話をしなければならない。
マリアーヌは金色の天蓋を見上げ、思った。
それにしても――――。
「…………眠れるかな」
ぽつり、マリアーヌは呟いた。
遠くで声が聞こえた。
自分を呼んでいるような声。
眠りの中でマリアーヌはゆらゆらと意識を揺らす。
「……………アーヌ様………マリアーヌ様」
幾度か呼ばれ、ようやくマリアーヌは重くまぶたを開けた。
「朝でございます。お起きください」
まだまどろみの中。再び目を閉じれば深い眠りに簡単に落ちてしまうだろう。
そんなマリアーヌに「もうまもなく朝食の用意が整います」と言う声。
無理やり眠りから引きずり起こされ、マリアーヌは気だるげに身を起こした。
声の主を見るとシェアだった。
「おはようございます、マリアーヌ様」
一瞬状況がわからず、ぼんやりとシェアを眺める。
そして自分がきのうこの館へ来たことを思い出す。
同じ働き手のはずのシェアがなぜマリアーヌ様などと呼ぶのだろう。
いまだ覚めきらない頭の端でそんなことを考えながら、マリアーヌはベッドから降りた。
「こちらのお洋服にお着替えいただきます」
シェアの言葉に頷きながらネグリジェを脱ぐ。着るのを手伝おうとするシェアを遠慮しながら差し出されたドレスに着替えた。
それはきのう着ていたドレスとは違うシンプルなものだった。なんの装飾も膨らみもない黒のドレス。
ただ着心地のよさ、生地の上質さはあいかわらずのように思えた。
それでも華やかなものよりはマシだ。
着替えを終えると昨夜の食堂に案内された。すでに朝食の用意は整っていた。
焼きたてのパンにミルク、卵にソーセージと紅茶。
シンプルなメニューだが、これまで1日1〜2食しかとれなかったマリアーヌにとっては贅沢このうえない。
並ぶ朝食を眺めるも、あまり空腹ではなく、なかなか食べ進めることができなかった。
「マリアーヌ様、きちんとお食事をお取になられていたほうがよろしいかと。これからお仕事となりますが、最初はやはり大変だと思いますので」
言われ、マリアーヌはシェアを見上げる。
「あの………シェアさ………シェア様は食べないの?」
もごもごと小さく言うと、シェアが微笑んだ。
「私はさきほど朝食はすませております。お気遣いありがとうございます。――――マリアーヌ様、私のことはシェアとおよびくださいませ」
でも、と戸惑うマリアーヌ。
自分が様付けで呼ばれ、同じくこの館で働くシェアを呼び捨てにするのはおかしいのではないのだろうか。
そう思うも、食事をとるように促されてマリアーヌは釈然としないままパンを口に運んだ。
しばらく食べていると早々と満腹になってきた。
紅茶を飲んで、ほっと息をつく。
昨日の夕食はもちろん、朝から満腹になるなんて生まれて初めてだ。
ぼーっとしていると、不意に鐘の音が響いた。
ビクリとして視線を走らせると、柱時計の音だった。
マリアーヌはそこで今が何時なのか知った。
―――――5時?
眠いはずだ。
昨夜ベッドに入ったのは確か12時ごろだったはずだ。
それにしてもこんな朝早くから猫の世話をするのだろうか。
そう思ったとき、ノックとともにステファンが入ってきた。
「おはようございます」
老人は昨日と変わらず静かに頭を下げる。
「マリアーヌ様に当面のご予定をお伝えいたします」
マリアーヌの反応を見ずにステファンは続ける。
「まず、これからお昼まで清掃等下働きとなります。昼食をはさみ5時までマナー他のお勉強をしていただきます。それ以降、カテリア様のお世話となります」
なにかご不明な点がございましたらお聞きください。
ステファンは静かに口を閉じ、マリアーヌを見た。
「……勉強?」
昨日ハーヴィスがカテリアの世話だけでなく他にも仕事があると言っていたからそれはいい。だがマナーという言葉に不安がよぎる。
「この"オセの家"にいらっしゃいますお客様は、いずれも身分の高い方々ばかりでいらっしゃいます。
そのためオセ―――当家で働く皿洗い、娼婦などの仕事に関係なくすべての者に礼儀作法を徹底するよう教育しております」
淀みのないステファンの言葉を聞きながら、そういえば昨日初めてハーヴィスに会ったときにも、娼婦として働く前に下準備があるといっていたことを思い出した。
それがこのことなのだろう。
納得してマリアーヌは小さく頷いた。
「お食事がお済でしたら、仕事場までご案内いたします」
そうして今日もまたステファンに案内され、マリアーヌは初仕事へと向かったのだった。
やたらとにこやかな男だった。
歳は30代くらいなのだろうか。姿勢の良い、いかにも紳士然とした男はドリールと名乗った。
「マリアーヌ様には厨房と、そして清掃の仕事をしていただきます。詳しい内容についてはそれぞれの持ち場の者がお教えしますので、それに従ってください」
そこはオセの家の、ハーヴィス曰く、いたって健全な社交場である1階の廊下だった。
地下から1階へと続く扉の前でステファンからドリールへと案内役は変わっていた。
まだ外は少し空が白んでいるくらいだ。
しかし地下にはない新鮮な空気に包まれている。
「あと、マリアーヌ様についてですが他の者には"マリー"と紹介するようにとおおせつかっております。マリアーヌ様も"マリー"と名乗っていただきますようよろしくお願いします」
そうどこまでもにこやかにドリールは言った。
そしてドリールにつれられていったのは厨房。
「ルーザ、彼女はマリー。仕事を教えてやっておくれ」
はい、そう返事をしたルーザは赤髪の小柄な少女だ。
「さぁ! 行くよ!」
ルーザは元気よく言うと、ポンとマリアーヌの背を叩くいた。
厨房から外へと出ると、すぐ近くに井戸があり、そばには大量の野菜があった。
井戸から水をくみ上げて大きなたるの中へと入れる。
「さぁ洗って」
はい、とマリアーヌはルーザとともに野菜を洗い出した。
水は冷たくて指先はひどくかじかんだ。
ずっと洗い続けると肩や腕が突っ張ってくる。それでもひたすら黙々と洗い続けた。
それが終わると洗った野菜を切る作業。
この館に来て何回目の初めてだろうかというようなほど、マリアーヌは大量のジャガイモの皮を剥いた。
それが終わるとルーザから厨房を出て三つとなりの部屋へ行くように言われた。
その部屋には忙しなく動き回る数人の少女たち。
「あなた、マリーね? 私はユアンよ。私についていらっしゃい」
ルーザよりは大人びた雰囲気のユアン。
「今から館中の掃除よ。はい、がんばっていきましょう」
雑巾を手渡され、ユアンほか少女たちとともに掃除が始まった。
そしてそれでいかにこの館が広いかが身にしみてわかった。
大中小の広間。十数はある部屋。廊下の窓から見える風景はどこまでも手が行き届いていそうな庭園となっている。
館中の窓を、廊下を、いたる箇所をすみずみまで拭く。
少女たちは皆元気がよく、いつしか昇っていた朝日に照らされ、どこまでも清浄な空気に満ちている。地下に闇があるなど想像もできない。
マリアーヌは皆に必死について働くのが精一杯で、夢中になって仕事をこなしていった。
すべての掃除が終え、皆とともに部屋に戻ったときにはクタクタだった。
はい、とユアンに渡された紅茶がとても美味しかった。
ほっと一息つき、ユアンから次の場所へ移動するよう指示を受ける。
そして次の部屋に行くと、シェアがいた。
「こちらにお着替えください」
と、着替えさせられたのは若草色のドレス。
「これから昼食になっております」
シェアに案内され、マリアーヌが向かったのは館の一番南にある一室だった。
シェアがその部屋のドアを開ける。とたんに漂ってくる美味しそうな香り。
テーブルに並ぶ肉や魚などさまざまな料理。
ぐう、とマリアーヌお腹がなった。
朝から全力疾走で働いていたようなものだから、それも仕方のないことだろう。
あわててお腹を押さえるマリアーヌの背をそっとシェアが押した。
「マリアーヌ様、頑張ってくださいませ」
見るとシェアは微かに笑っている。
昼食をとるのになにをがんばるのだろうか。
そう思った瞬間、パシン―――と鋭い音が響いた。
ぽかんとして目を向けると、ムチを手にした中年の痩せた女性がマリアーヌを見ていた。
「はじめまして、マリアーヌ様。私、マリアーヌ様に礼儀作法をお教えいたしますジョセフィーヌと申します」
ムチ――――?
困惑するマリアーヌに、にこやかにジョセフィーヌは告げた。
「お目にかかって早々ですが、マリアーヌ様。お腹を鳴らすのはあまりよろしくありませんよ」
お腹がすいたから鳴ったのであって、わざとじゃないだろう。
そう、わずかに頬を膨らませたマリアーヌに、さらに笑顔を大きくしてジョセフィーヌは言葉を続ける。
「ハーヴィス様にはムチの使用許可はとっております。ハーヴィス様のご要望により、特別にお尻にのみの利用となりますが」
「………お……しり?」
思わず呟くマリアーヌの後ろで、静かにドアが閉まった。
振り向くとシェアの姿がない。
「さぁ、マリアーヌ様、楽しい昼食の時間でです。ゆっくり、お召し上がりくださいませ」
ジョセフィーヌの声が響く。
マリアーヌは顔を強張らせ、そしてゴクリと唾を飲み込んだのだ。
マリアーヌにとって生まれて初めて満腹だけども、激しい疲労を伴うこととなる昼食はこうして始まったのだった。
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2005,11,20
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