28






 その日、夕食を食べることなくマリアーヌは部屋に閉じこもった。
 ハーヴィスが呼びに来たが、どうしても動く気になれなかった。
 一夜明け、早朝にハーヴィスが出かけていく気配を感じていた。
 一緒にオセに戻り、最後に一目でいいから双子に会いたいと思う気持ちはある。
 だが会ったところで、恐らく何も言うことはできず、あの時のように不安にさせるだけになってしまうだろう。
 ずっと泣き続けていたせいで腫れぼったく重いまぶたをうっすらと開け、マリアーヌはオセを去っていく双子に想いを馳せた。
 すでに涙は枯れ果てている。
 時間がたつにつれ、思考は途切れていく。残るは虚無のみ。
 身じろぎひとつせず、マリアーヌは天蓋を見つめ続けた。
 そして太陽が傾きだしたころ、静かに部屋の扉が開いた。
 その音に、そっと目を閉じる。
 ゆっくりと足音が近づいて来、ベッドの端が軋んだ。
「大好き、だと、そう言っていたよ」
 ハーヴィスの声が響き、暖かな手がマリアーヌの前髪を遊ぶように撫ぜる。
 双子の笑顔が不意に思い浮かび、マリアーヌは目頭が熱くなるのを感じた。
 ハーヴィスの手から逃れるように背を向ける。
「マリー。お昼ごはんは食べた? まだだろう? 作るから一緒に食べよう」
 だがハーヴィスの手は飽きることなく、マリアーヌの髪を優しくなで続ける。
 涙が出そうになる。
 双子が無事に旅立ってよかった、そう思う。
 だがそれと同時にどうしようもない寂しさと、逃れることのできない苦しさに胸が押しつぶされるのだ。
 マリアーヌは唇を噛んで、ハーヴィスの暖かさを感じないように体を強張らせる。
 ややして、ハーヴィスのため息が響いた。
 ベッドが再び軋み、ハーヴィスの足音が遠のく。だが部屋に出るではなく、ベランダへの窓が開け放たれた。
 微かに聞こえてきたのは鳥たちの羽ばたく音。
「マリー。そろそろゆっくり話をしよう。いつまでもこのままじゃいけないだろう」
 なにも話すことなどない。
 そうマリアーヌは胸のうちで呟く。
 どれくらいだろうか、重い沈黙が流れた。
 そして独り言のようなハーヴィスの呟きが、こぼれた。
「――――天気、崩れそうだね」
 ほんの少しだけ、マリアーヌはまぶたを上げた。
 部屋の中は柔らかな陽射しに彩られていた。













 いつのまにか外は暗くなっていた。
 小一時間ほど前、ハーヴィスが夕食ができたと呼びに来たが、そのまま部屋にいる。
 正確には昼間からずっとベッドに寝たままだった。
 寝ていたわけではないが、起きていたともいいがたい状態だった。
 日がくれ夜の帳が下りたころ、ぽつぽつと窓にあたる音がしだした。
 次第に激しさを増し、窓に打ち付けてくるのは雨だ。
 いつのまにか風も強くなっているらしく、うねるような音とともに、木々がざわめく音が聞こえてくる。
 マリアーヌはぼんやりと身を起こし、窓のほうを見た。
 ベッドサイドに置いたランプに灯を点す。
 窓の外で吹きすさぶ風の声は、休むかのように弱まるときがある。
 ―――――。
 その時、ふとマリアーヌはなにか、聞こえた気がした。
 耳を澄ますも、再び風のうねり声と雨音だけしか聞こえてこない。
 マリアーヌはランプを持つと、窓に近づいた。
 レースのカーテンを開ける。窓の向こうの景色は見えない。映るのは、薄明るい室内とマリアーヌの姿だけだ。
 だがそれでもマリアーヌはじっと外を見つめる。
 窓に手を置き、しばらく眺めた後、手を滑らせ床に膝をついた。
 窓の外で、なにかが動いた気がした。
 なにかいるのだろうか。
 逡巡した後、ほんの少しだけ窓を開けた。
 わずかな隙間から雨が風に押されて入ってくる。
 雨粒をよけながら、ランプの明かりをかざす。
 小さな影が見えて、とっさに窓を開けた。
 そして窓際に逃げるようにして倒れた小鳥を見つけた。
 容赦なく打ち付けドレスを濡らす暴雨。
 だがマリアーヌは躊躇うことなく身を乗り出すと、小鳥を掴まえた。
 風が窓を閉めるのを邪魔するように吹きすさぶが必死に押さえ込み、ようやくの思いで窓を締め鍵をかけた。
 ほんの数十秒のことにかかわらず、頭からずぶ濡れになってしまっていた。
 ぽたぽたと落ちてくる水滴を気にもとめず、マリアーヌは手の中の小鳥を見下ろす。
 右翼が傷つき僅かに血が滲んでいた。
 小さな木の破片がついている。この暴風雨の中、折れた木々にでもぶつかってしまったのだろうか。
 そっと傷口から木片をとってやると、小鳥は小さく震えた。
 手当をしてやらねばならないと思い、部屋を出ようとし立ち止まる。
 数日過ごしたばかりの、この屋敷のどこになにがあるのかわかるはずもないのだ。
 どうしよう、と小鳥を見下ろす。
 傷のせいか震えている小鳥は弱弱しい声で微かに鳴く。
 地下にある物置部屋を探せばあるだろうか。
 自分自身を拭くことはせず、小鳥を拭いてやり肌触りのよいストールにくるむと、部屋を出た。
 ハーヴィスに会うのがいやで、そっと足音を立てず静かに歩いていく。
 だが地下への扉を開けたところで運悪く、地下から上がってきたハーヴィスと出くわしてしまった。
 地下の厨房でワインのつまみにでも用意したと思われるスモークチキンののった皿を手にしている。
 ハーヴィスは目を丸くし、濡れたマリアーヌとその腕に抱えた小鳥を見比べる。
 そして吹き出した。
 マリアーヌは思わずムッとして顔を逸らす。
「おやおや、そんなにびしょ濡れになって。―――小鳥くんは怪我をしてるのかな?」
 空いたほうの手で小鳥に触ろうとするハーヴィスから、身を捩って逃げる。
「冷たいね、マリー」
 小さく笑うハーヴィスの横を、無理やり通り過ぎろうとした。
 だが腕がつかまれ引き止められる。
「薬箱の場所はわかるのかい? それにそんな濡れたままでいたら風邪をひくよ。手当は僕がしてあげるから、君は着替えてきなさい」
「―――結構です」
 冷たく返すが、ハーヴィスの笑いが大きくなるだけだ。
「ほんとうにマリーは頑固でおばかさんだね」
 からかうような口調にカッと頬が熱くなる。
「ほら、貸して。早く着替えてきなさい。濡れた格好で歩き回られたら廊下が汚れてしまうからね」
 笑いつつ、だが優しさを含んだ声。マリアーヌの手の中から小鳥を抱き取ると、ハーヴィスはさっさと居間へ入っていった。
「……待っ」
 追いかけようとするが、いままで歩いてきたところが水で線を描くように濡れていることに気づいた。
 マリアーヌは仕方なく、急いで着替えに自室へと戻ったのだった。











 大慌てで着替え、床を拭いて居間へ行くと、すでに小鳥は手当をされていた。
 小さな羽に器用に包帯が巻かれている。
 ハーヴィスが小鳥に水を飲ませていた。
「―――あとは私がします」
 他人行儀に声をかけると、ちらりハーヴィスがマリアーヌを見る。
「いいよ。別に」
 笑うハーヴィスに食い下がることなく、マリアーヌは小鳥を渡してくれというように手を差し出す。
「部屋でごゆっくりしてらしてください」
 冷やかで強張ったマリアーヌの声に、ハーヴィスはさらに笑いながら小鳥をストールの上に座らせた。
「取って食ったりしないよ。そんなに僕は信用ないのかな?」
 まぁ座りなさい、と促されるが、マリアーヌは頷くことなく小鳥に手を伸ばす。
 だが小鳥に触れる寸前で、ハーヴィスに腕を掴まれた。
 視線がかち合う。
「いつまでそんな態度をとっているつもりだい」
 なにが、と声なく呟く。
 腕はつかまれたままだ。伝わってくる暖かな体温が苦痛でたまらない。
 振りほどき自室に戻りたくなるが、突き刺すようなハーヴィスの眼差しを逸らすことは逃げることのような気がした。だから挑むようににらむように視線を返す。
 部屋の中を支配するのは沈黙と、反するように窓の外で吹きすさぶ風と豪雨の音。
 ややしてハーヴィスはマリアーヌから手を離した。
 ため息一つつき、視線もまたマリアーヌから小鳥へと逸らされる。
 小鳥は包帯を巻いてないほうの羽を小さく動かしている。
「こんな小さな鳥でさえ、前向きに生きているというのに、君はいつまでたっても前に進もうとしないんだね」
 すっとハーヴィスは小鳥に手を伸ばす。
 小鳥はくちばしでハーヴィスの指を遊ぶようにつつく。
「イアンとイーノスも必死で立ち直ろうと、そしていつか君を迎えにくるために強くなろうとしているのに」
 冷たくもなく、優しくもない、淡々とした口調。
 マリアーヌはハーヴィスの横顔を見下ろし、顔を強張らせる。
 なにか言葉を紡ごうとするも、なにも出てこず、ただ立ち尽くすしか出来ない。
「君の悪い癖、いい加減直すようにとこの前も言っただろう?」
 つとハーヴィスがマリアーヌを見上げる。
「君は罪悪感を覚えると、自己を殺そうとする傾向があるね」
 マリアーヌは眉を寄せた。
 何を言っているのかわからない、と強く、視線だけを返す。
「オセに来たころもそうだったね。ただただ自分に苦しみだけを賭そうとする。そんなに身を売ることに罪悪感を覚えていた? 汚れた自分には幸せなど必要などないと、資格もないと思っていたのかい」
 なんの感情も現していないハーヴィスの眼差しに、縫いとめられてしまったようにマリアーヌは凍りつき、絶句した。



『汚らわしい』



 不意に、耳の奥で甦ったのは――――母親の声、だった。



『汚らわしい』



 お前は恐ろしいことをしたのだ、と母親は言った。
 だが己が身を売り、金を貰う女達がいるのを、知っていた。
 だから、生きるために、仕方のないのだと、思っていた。

『いつか後悔するときが来る』

 母親の言葉はいつだって、暴力よりも確実に心臓を切り裂くような痛みを与えていた。

 だって、お金がないと。
 そう、身を売り、そして、そのたびに、光が、幸せが、遠のいていくのを感じていた。

『汚らわしい』

 言われるたびに、怖くて、怖くて、本当は母親に泣いてすがりつきそうになっていた。

 だから、気づかないうちに目を閉じたのだ。

 ただ、身を売り、そして、目を閉じ、真っ暗な世界で、幸せなど想いも馳せず、日々を過ごすことにしたのだ。





「娼婦が幸せになれないなどということはないだろう。君の母親がどういうふうに君の仕事のことに関して言っていたかはしらないがね。娼婦になったからといって一生がダメになるはずもない」
 ハーヴィスは静かに続ける。
 そっとハーヴィスの手が伸び、マリアーヌを引きずり寄せた。
 動けないでいたマリアーヌはされるがままにハーヴィスの傍らに腰を下ろす。
「君もずっと働いていて、それはわかっただろう? 娼婦など、たんなる職種に過ぎない」
 そんなことはわかっている。
 わかっていた。
 だが。
 だが、『汚らわしい』と刻み込まれた言葉は―――。
「マリー。君はね、綺麗すぎるんだよ」
「私は汚いの」
 反射的に言っていた。
 ハーヴィスは目を細める。
「純粋すぎるんだ。身を売った自分を責めて、幸せなどいらないと、そう思っていたんだろう」
「違う」
 思ったことなど、考えたことなどない。
 違う、と、だから否定する。
 しかし否定したとたんに、そうだったのだ、と過去の自分を見て気づいてしまう。

 オセへ売られると決まったとき、安堵した。
 恐ろしい場所だと、聞かされていた。
 死ぬこともあると、言われていた。
 
 だが実際目の当たりにしたオセはイメージとは程遠く。
 そして自分に与えられた仕事は予想とはまったく違い。
 穏やか過ぎる空気が、苦しかった。
 光を見てしまえば、引きずられてしまいそうになる。
 引きずられてしまえば、戻れなくなってしまう。
 
 光など見ないで、生きていれば。
 辛くても、辛いと思わなくてすむから。


 だがオセへ来てから――――。
 この目の前の男に出会ってから――――。


 ハーヴィスがマリアーヌの頬に触れた。
 暖かい手。
 オセへ来た頃、この暖かさがイヤでしかたなかった。
 幸せを思い出させるこの手が、いやでしかたなかった。
 この手にすがってしまえば、もう闇の中へなど戻れないと思った。

『お願い、そばにいて?』

 だが、耐え切れず、この手を取ってしまった。
 そしてそれからの日々は一変したのだ。
 
 まるで幸せが戻ってきたかのように。
 




 勘違いを、してしまった。





「最初、あまりにも頑なで正直僕もどうしようかと思っていたがね」
 ふっと、微かにハーヴィスが笑った。
「だが君は少しづつ変わってきた」
 そうだろう?、と優しく指先がマリアーヌの頬を滑る。
 マリアーヌは目を見開いて、ハーヴィスを見つめる。

 なぜ、こんな話をしだしたのか。
 なぜ、こんなことを気づかせるのか。

「そうよ」

 胸の奥が燃えるように熱くなるのを感じる。
 マリアーヌはハーヴィスの手を弾くように叩いた。

「そうよ。幸せなどなれないと、思っていた」

 勘違いを、してしまった。

「でも、幸せになれると、思ってしまった」

 慣れていく仕事。
 ツンと澄まし、自分を翻弄する愛らしいカテリア。
 いつでも暖かい手を差し伸べるハーヴィス。
 そして、家族のように笑顔と優しさをくれた―――エメリナとイアン、イーノス。


 そう、勘違いをしてしまったのだ。
 幸せになれたのだと。

 汚れてるのに。
 汚れてるのに。
 

「――――だから? 幸せになれたと思ったのに、自分のせいでエメリナを死なせ、双子を傷つけた、と?」
 そう、後悔したのかい?
 幸せになれたのだと、勘違いした自分に気づかなかったと、後悔したのかい?


 一転して、冷やかに、ハーヴィスは言った。


「エメリナと双子の人生を狂わせてしまったから、また目を閉じ、自分を殺し、幸せになる資格などないと、死んだように生きることに決めたのかい」


 なぜ勘違いしたのか。
 エメリナやイアンとイーノスは幸せになれるはずだったのだ。
 それを台無しにしたのは自分だ。
 幸せになれたのだと勘違いして、彼らとともにいれるのだと勘違いして。
 そうして彼らの光を奪ってしまったのは、自分だ。

 汚れているのに。
 汚れているのに。

 幸せになどなれるはずのなかったのに。
 彼らの幸せを分けてもらえるはずもなかったのに。




「くだらないね」




 目の前の男は、呟き、笑った。
 嘲るような、冷たい笑みだった。


「それはとんだ死に損だ、エメリナにとってみれば」


 瞬間、マリアーヌは手を振り上げていた。
 だがハーヴィスの頬を打つことなく、手は寸でのところでハーヴィスに掴まれる。
「君が罪の意識を感じるのは当然だが、それですべてを否定するのかい?」
 びくり、とマリアーヌの肩が震える。
「マリー、君が幸せを感じたように、エメリナやイアンとイーノスもまた幸せだったと思わないのかい」
「わかってるわ! 幸せだったってことぐらい! エメリナたちは幸せに、幸せにずっと居られるはずだったのよ!」
 耐え切れずにマリアーヌは叫んだ。
「そうじゃない。彼らだって辛いことはたくさんあった。それに彼らだって、君と同じ娼婦という仕事をしていたんだよ」
 そう、だ。
 でも、違う。
 自分は汚れている。
 でもエメリナたちは違う。
 優しくて暖かくて、いつも笑顔を向けてくれていた三人は光に溢れていて。
「君は、君がエメリナたちによって幸せを感じたように。彼女たちもまた君によって幸せを感じたと、そうは思わないのかい?」
 厳しい口調でハーヴィスが言った。
「いいかい、マリー。僕がなぜエメリナと双子達の世話役に君を選んだかわかるかい?」
 ぐっとマリアーヌの腕を掴んだハーヴィスの手に力が加わる。
「エメリナとイアン、イーノスは仕事に対しても前向きで、自立心も強い。だがね、だからといってすべてを完璧にこなせるほど強くもないんだよ」
 雨は降り止まず、一層激しさを増していた。
 だがまったくその音はマリアーヌの耳に入ってこない。
「特にエメリナたちは、もともと素直で家族思いの子たちだったからね。一人で仕事をこなすよりも、誰か信頼できる友人や家族のようなものがいたほうが伸びる。そして、君にもまたそういう人間が必要だと思った。だから、君を世話役にしたんだ。きっと君たちならばお互いに良い関係を築けると……。実際そうだっただろう?」
 胸を衝かれ、マリアーヌは息を詰める。
「エメリナたちにとって、君は大切な存在だったんだ。君と一緒にいて、彼らもまた幸せだったんだよ」
 心に押し入ってくるハーヴィスの言葉に、マリアーヌは苦しげに顔を背けた。

 わかっている。
 だが、不幸にしたのもまた、自分なのだ。


「でも、でも」
 掠れた声で呟くマリアーヌ。
 頭を振るマリアーヌに、容赦なくハーヴィスは続ける。
「エメリナはうすうす勘付いてはいたよ。僕があの方の元へ行くように言ったとき」
 あの方―――。
 マリアーヌは目を見開く。
「マリー。エメリナは君のためにあの方のところへ行くことを決めたわけじゃない。彼女は彼女自身のために決めたんだ。マリー、君の苦しむ姿を見たくないと」

『マリーに? 冗談じゃない、マリーに指一本だって触れさせないんだから!』

 エメリナが、そう啖呵を切ったんだよ、とハーヴィスが告げた。
 堪えきれず、マリアーヌの瞳から大粒の涙が溢れ出す。

「やめてっ!」

 必死でハーヴィスの手を振りほどき、マリアーヌは叫んだ。
「結局、私のせいなのよ!」
 血を吐くような声。
「あの時、私が、あの雪の夜、あの男に出会わなければッ」
 エメリナが死んでからずっとあの日のことを思い出していた。
 まだ幼い自分が、初めて身体を売った夜。
 
 金貨が転がってきた。
 男が言った。
 ――――一緒に来ないかい、と。
 食事と暖と、金貨をくれた男。
 金貨が貰えて嬉しかった。
 暖かい食事を母に与えられると思った。
 ――――汚らわしい、と母に言われた。
 ショックだった。
 でも、耐えた。
 

 だが、やはり、すべては間違っていたのだ。
 
 あの男に出会わなければ。

 幸せなど求めず、きちんと身をわきまえていれば。


「だって、だって、だって! 私がいなければ、エメリナは」


 死ななくてよかったのに。





 箍が外れたように、マリアーヌは泣きじゃくる。




「マリー……。"もしも"や、運命や、必然なんていうものは、ないんだよ」

 ひどく冷えた声だった。
「君がどれだけ、過去を後悔しても戻ることは出来ない。そして、エメリナの死もまた。すべては偶然。そこに必然性をもたせるんじゃないよ。君が初めて身を売った客が、オセの客だったことは偶然であり、君がオセへ売られてきたのも偶然なのだから」
 偶然?
 そんな言葉ですべてが片付くというのか。
「エメリナの死もまた偶然、運の悪い事故だったんだ。彼女だって死ぬつもりであの方のもとへ行ったわけじゃない」
 ハーヴィスは言い、泣き喚くマリアーヌの顎を掴み上げ、涙で濡れた瞳を見下ろした。
「エメリナの死を認めるんだ。君が自分自身を責めたところで彼女は戻らない。そして喜びもしない。君が全部を否定すれば、君を大切にしていたエメリナ自身も否定するということなんだよ」
 マリアーヌの唇から嗚咽がこぼれる。
「じゃぁ、ねぇ、どうすればいいの……っ」

 あの男と出会わなければ。
 オセへ売られてこなければ。
 エメリナと出会わなければ。

 同じことしか考えられない。

「私なんかっ……」

「マリー」

 マリアーヌの言葉を遮り、その涙を、ハーヴィスが舐めとる。
 穏やかな瞳に見据えられ、一瞬、マリアーヌは動きを止めた。





「なら―――――僕を、殺すかい?」


 ハーヴィスは、優しく微笑んだ。










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2006,6,10