25
突然、扉が開いた。
身を寄せ合っていたマリアーヌと双子は揃って視線を向ける。
「イアン、イーノス、しばらくしたらオーレリア夫人がいらっしゃいます。ユアンとともに準備をして下さい」
そう言ったのはマローだ。
その後方に控えた世話係の1人であるユアンが部屋へ入ってくる。
そしてマローはマリアーヌに視線を止めた。
「マリー、あなたは自室へ戻るように」
わずかにため息をつくと、静かな声でマリアーヌに声をかけた。
イアンとイーノスはユアンに準備をはじめましょうと促され不安そうにマリアーヌを見つめる。
「マリー……」
イアンの震える手が、ゆっくりと離れていく。
「マリー……」
イーノスの涙をたたえた瞳が、ゆっくりと遠ざかっていく。
目が痛くなるほど流れつづけている涙をこらえる術もなく、マリアーヌはイアンとイーノスに視線を返すことしかできない。
「さぁ戻りましょう」
マローに促され、力なくマリアーヌは双子の部屋を後にした。
自室に戻ると、沈痛な面持ちをしたシェアが出迎えた。
細かな蝶の刺繍が施されたレースのハンカチをマリアーヌに渡し、紅茶をお淹れします、とその場を離れる。
マリアーヌはハンカチに顔を押し付けるようにして俯いた。
ややしてテーブルにティーポットとカップが置かれる音が響く。
注がれる水音と、ほのかに漂ってくる柔らかな香りに少しだけ顔を上げる。
目の前に置かれた紅茶の水色は透き通った亜麻色をしている。
マリアーヌは手をつけることなく、ただじっとそれを見つめた。
なにも飲みたくも食べたくもない。
動くことさえしたくなかった。
ぐっと、唇を噛み締める。
いつもならばマリアーヌが紅茶を淹れ、それをエメリナと双子が飲んで、楽しいお喋りに華を咲かせていた。
だがそれももうないのだ。
エメリナの死を認識できない気持ちと、反してもう居ないのだと身を引き裂くような痛み。そして自分を守る、そばにいると、心配し泣いていたイアンとイーノスのことが胸を締め付ける。
なにをどうすればいいのか。
エメリナの死は鎖のように身体中に巻きついて、マリアーヌの思考を奪っている。
身にあるのは激情。
だが沈黙することしかできない。
身を丸めるようにしてソファーに座っているマリアーヌをシェアは静かに見守っている。
紅茶が冷めても、マリアーヌは一言も発することなく、ずっと黙り込んでいた。
どれくらいの時間が経ったのか。永遠に続くかのような沈黙は、突然破られた。
大きな音をたて扉が開く。
シェアがわずかに顔を強張らせ、後方に下がる。
「………マリー」
低い呼びかけに、マリアーヌもまた強張り、声の主を見上げた。
眉を寄せ厳しい表情をしたハーヴィスがマリアーヌを見下ろしていた。
不意にマリアーヌの中で激情が蠢きだす。
なぜ。
どうして。
昨夜の続きに戻ったような錯覚を覚える。
なぜ、エメリナをあの男に。
そう繰り返しそうになる。
あの男に売るくらいなら、自分が――――。
だが、思考はハーヴィスの厳しい声に遮られた。
「君は、イアンとイーノスになにを言ったんだ。どうして、会いに行った。休んでいるようにと、伝えておいたはずだよ」
マリアーヌを見据える厳しい眼差し。
それをひるむことなく、逆ににらみながらマリアーヌは立ち上がる。
「どうして? イアンとイーノスにとってエメリナは姉のような存在だったのよ? エメリナが、エメリナがっ……いなくなって。それが、私の―――」
「マリー」
一際冷たい声が響く。
ハーヴィスの射抜くような眼差しに、思わずマリアーヌは黙った。
「それで、君は彼らになんと言ったんだい? 自分のせいでエメリナが死んでしまったとでも言ったのかい?」
「だって!」
パン、と乾いた音がした。
今日二度目の頬を叩かれた痛み。
だがジェシカとは違い、その痛みは小さく、叩く力は軽いものだった。
「いいかい、マリー。君が混乱しているのはわかる。哀しいのもわかる。だが、彼らに会う前に冷静になるべきだったんだよ」
ハーヴィスはそう言って、小さくため息をついた。
「いいかい、マリー。彼らはまだ10歳なんだ。わかるかい? エメリナについては"身請けされ出て行った"とみんなには伝えている。だがB棟に住むイアン、イーノスやごく一部の娼婦たちに事実は少なからず漏れている」
だから、だから―――双子のもとへ行ったのではないか。
そう無言でにらみ返す。
「……つい先ほどオーレリア夫人がいらっしゃった。イアンとイーノスは夫人に会った途端に泣き出してしまったそうだよ」
オーレリア夫人。
双子には三人の常連客がついている。いずれも高い地位にある人物ばかりで、常連客が双子にかけている金は大きい。
そのうちの一人である侯爵夫人であるオーレリア夫人は最初はこのオセに添った行為を持って双子に接していたが、いまでは変わってきていた。
双子の素直さに触れ、いつしかオーレリア夫人は我が子のように双子と過ごすだけのためにこのオセへ来るようになってきていたのだ。
そして双子もまたオーレリア夫人を慕い懐いている。
「夫人はなんとか双子をなだめようとされたらしいが、泣き止まなかったそうだ」
いま双子は自室に戻りユアンが見ている、そうハーヴィスは告げた。
イアンとイーノスは元気良くいたずら好きで手のかかることも多い。
だが一度仕事となれば、まだ幼いにもかかわらずきちんと身をわきまえ、客のもとに赴く。
それが、仕事の最中に泣くなど、考えられない。
やはりエメリナを失った悲しみが、親しみあるオーレリア夫人の前では抑えきれなかったということなのだろうか。
一時間ほど前、別れたばかりのイアンとイーノスの涙に濡れた顔をマリアーヌは思い出した。
「エメリナの身請けの話をしたとき、イアンとイーノスは驚き、悲しんだ。だが二人は泣くことだけはしなかった。もちろん二人だけになったときに泣いただろうがね………」
マリアーヌはそのときの双子の心情を思い、苦しみを感じる。
「それが、どういうことかわかるかい。マリー」
ハーヴィスがマリアーヌと視線を合わせる。
ハーヴィスの眼差しは厳しさはそのまま、だがどこか哀しげな光が宿っている。
「イアンとイーノスには……まだ君がいたから、彼らは悲しみを我慢して普通であろうとしたんだ。実際、君が二人のもとへ行くまでの間ユアンが世話をしていたが、いたって落ち着いていたそうだからね」
マリアーヌは視線を揺らす。
困惑と、不安が湧きあがってきて胸元で拳を握り締めた。
大丈夫だから―――、と必死で自分を励まそうとしていた姿が思い浮かぶ。
「二人は自分達の悲しみよりも、君を守ることを優先させたんだ。しっかりしようと、そういつも通りに振舞うことでね」
息苦しさを、感じた。
ハーヴィスの言葉が、圧迫感を与えてくる。
「私は……ただ―――」
「だがね、マリー。二人はまだ10歳なんだ。いくら気を張ろうと、まだ幼い精神では揺るぐのも簡単だ」
泣かないで―――。
そう言ったイアンとイーノスの前で、泣いていたのは自分。
ただただ泣いてしまったのは自分。
そして、二人もまた泣いてしまったのだ。
「君が取り乱す姿を見て、幼い彼らが君の感情に引きずられてしまうのも無理ないことだろう」
耐え切れず、マリアーヌはハーヴィスから視線を逸らした。返す言葉が見つからずに、うつむく。 うなだれることしかできないマリアーヌに、しばらくしてハーヴィスが口調を和らげて続けた。
「マリー、しばらく仕事のことはいいから休んでいなさい。落ち着いてからゆっくり話をしよう」
ハーヴィスの手がそっと伸びてきたが、マリアーヌは身を背けて拒絶した。
「……食事はきちんととるんだよ。シェア、あとは頼むよ」
そう言い残し、ハーヴィスは部屋を出て行った。
マリアーヌは俯いたまま唇を噛み締め、そして寝室に閉じこもった。
***
時間の流れがひどく遅く思える。
眠りは浅く、起きている時間が長いからだろうか。
それとも一人で寝室に閉じこもっているからだろうか。
昼と夕方、そして夜にシェアが食事を持ってくる以外は誰も部屋へはこない。
エメリナの死からすでに5日が過ぎていた。
ハーヴィスにはイアンとイーノスのことで注意を受けたときから会っていない。
毎日のように部屋の前までは来ているらしいが、マリアーヌは会おうとしなかった。
入って来ようと思えば入ってこれるが、ハーヴィスもまた寝室まで来ることはなかった。
一人暗い部屋の中で考えるのはやはりエメリナと、そして双子のことばかりだ。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか、幾度となく心の中で繰り返す。
エメリナはこんなところで死ぬような人間ではなかった。
いまはオセにいても、いつかきっと家族の元に戻り、そして幸せな生活をおくるはずだったのだ。
いつか恋もして、幸せな家庭を築いて、子供にも恵まれた明るい未来。
輝くようなエメリナの笑顔を思い浮かべれば、疑いもなく信じれる。予想できる。
それなのに、なぜ。
なぜ、自分が生き、彼女がいなくならねばならない。
なぜ、なんの価値もない自分のかわりに彼女があの男に差し出されなければならなかったのだ。
なぜ、彼女を差し出したのだ。
あの男への憎しみ。
ハーヴィスへの怒り。
そして自分への――――憎しみと怒りと、生きていることへの嫌悪。
息をすることさえも、自分にはする資格がないような気がしてくる。
だから、マリアーヌは身を潜めるようにして小さく身を丸め、ろくに食事もとらずにベッドのそばでうずくまっていた。
***
カーテンを開ける音と、足音が聞こえた。
ぼんやりとした頭の中でそれらを認識する。
寝室にこもってすでに6日が経過していた。疲れはピークに達していて、不本意ながらも深い眠りの中に落ちてしまっていたらしい。
半分目覚めながらも、身体はまだ睡眠を欲している。
一瞬目を開けるも、すぐにまぶたは閉じ、夢と現をさ迷う。
「起きなさい、マリー」
声がかかり、つと、マリアーヌの髪が撫でられた。
触れた先から伝わってくる馴染みのある暖かな体温に、一瞬で目は醒め身体は強張った。
ギリシ、とベッドを軋ませマリアーヌのそばに腰をおろしたのがわかる。
「マリー、朝だよ」
そうハーヴィスが言った。
だがマリアーヌは強く目を閉じ、寝たふりをする。
「早く起きて、着替えなさい。出かけるから」
出かける?、不思議に思うも、返事はしない。
「マリー?」
その声はいつもと変わらない優しい声で、起きなさい、と囁きながら頬を滑る指先もまた優しいもの。
心の中に躊躇いなく入ってきそうになるその暖かさに、マリアーヌは必死で抵抗するように身を丸め、頭からシーツをかぶった。
シーツ越しに、ハーヴィスのため息が響いてくる。
再びベッドが軋みハーヴィスが離れたのを感じた。
ほっと緊張がわずかに緩む。
「オーナー命令だよ」
だが次の瞬間、勢い良くシーツが剥ぎ取られた。
それでもマリアーヌはかたくなに目をつぶったまま。
「まったく、強情だね」
小さな苦笑混じりの声とともに、マリアーヌは抱きかかえられた。
突然抱き上げられ、驚いて目を開ける。
途端にハーヴィスと目が合った。
ハーヴィスは「おはよう」と笑う。
無言で顔を背け手足をばたつかせる。
「危ないなぁ。落ちるからだまってなさい」
だが抱きかかえたハーヴィスの腕は意外に強く、そこから逃れることができない。
「着替えないそうだから、このまま行ってくるよ」
マリアーヌを抱えたまま、寝室を出て行くハーヴィスが言う。
「はい、かしこまりました。行ってらっしゃいませ」
返事をするのはシェアだ。
どこへ行くというのだろうか。
早くハーヴィスから離れたいと思うが、数日食事をとっていない身体では抵抗する力も長くは続かなかった。
ハーヴィスはどんどん歩みを進めていく。
マリアーヌはただただハーヴィスから顔を背け目を閉じるだけ。
そして、急に視界が明るくなった。
目を閉じていてもわかる明るさに、まぶたをあげると朝日が目に飛び込んできた。
外?
驚いて視線をさ迷わせるとそこが屋敷の裏口だということに気づく。
小さな門の向こうには馬車が一台待機していた。
どこへ行くというのか。
もしや自分はほかのところへ売られるのだろうか?
ふと、そう思った。
馬車のそばにはマローがいて、ハーヴィスの姿を確認すると馬車のドアを開けた。
マリアーヌは放り投げられるようにしてハーヴィスに馬車の中へ入れられた。
「……った」
少し乱暴な扱いに、頭が反対側のドアにあたってしまって思わず声を上げてしまう。
質の良い革張りの椅子に倒れこむようにしているマリアーヌは、不意に視線を感じた。
目を向けると、向かいにカテリアが座っていた。
目が、合う。
カテリアはほんの数秒マリアーヌを見つめると、気だるげに視線をそらし、眠るようにまぶたを閉じた。
マリアーヌは数日振りに会ったカテリアをぼんやりと眺める。
カテリアも一緒に出かけるのだろうか。
売られるというわけではないのか。
どこに行くのだろう。
困惑と不安に戸惑っていると、ハーヴィスが乗り込んできた。
「さぁ、出発だよ」
マローによって馬車のドアが閉められ、いってらっしゃいませ、と声が続く。
向けられた楽しげなハーヴィスの笑みに、マリアーヌは視線を背け、窓の外を見る。
馬のいななきとともに、二人と一匹を乗せた馬車はゆっくりと動き出した。
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2006,5,18
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