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「なにかあったのかい?」
 マリアーヌは白身魚のソテーを切っていた手を止め、向かいに座るハーヴィスを見た。
 一日中飲んでいるのではないかと思われるワインを手にしたハーヴィスがマリアーヌをじっと見つめている。
 遅い夕食の席、すでに食事はメインを終えようとしていた。
 マリアーヌはどう返事をすればよいのかわからず黙る。
 なにかあったかと聞かれればあった。
 エメリナがいなくなるかもしれないと思うと寂しい。
 だがきのうよりも一層エメリナと親しくなれた気がして、嬉しい。
 そして母親のことを思い出すと、いままでになく苦しい。
 渦巻く想いをまとめることができず、マリアーヌは迷った末、答えるかわりに問い掛けた。
「エメリナ……身請けされるの? どんな方、なの?」
 一瞬ハーヴィスは動きを止める。
 だがすぐに小さな笑みを浮かべる。
「いい方だよ。――――エメリナはどんな様子だったかい?」
 なんという方で、どんな地位にある人物なのかを知りたかった。
 だが尋ねられてマリアーヌはエメリナのことを思い出し、切なさに瞳を揺らす。
「気に入ってもらえるように頑張るって言ってたわ……」
「そう」
 もとよりなかった食欲がいっそうなくなって、マリアーヌはナイフとフォークを静かに置いた。
「……ねぇ、ハーヴィス」
 しばらくして、ぽつり呟く。
 なんだい、と穏やかに続きをうながす声。
「どうしたら、エメリナのような優しくて明るくて素敵な女性になれるのかしら」
 心からそう思う。
 ハーヴィスが小さく笑う声が響く。
「マリーはじゅうぶん素敵だよ。君がエメリナの歳になるころには今の比ではなく美しい女王になっているだろうね」
 さらりと言われた言葉にマリアーヌはため息をついた。
「………ハーヴィスってたまにすっごく恥ずかしいことを言うわよね」
「おや、心外だな。僕は本当のことしか言わないよ。マリーは誰よりも美しい女神のような女性だよ」
 歯の浮く、とはまさにこのとことだろう。
 楽しげに唇に笑みをたたえているハーヴィスに、マリアーヌは軽くにらむと食事を再開した。
 パンを口に運びながら、明日は午後早めにエメリナのところへ行こう、そう思った。









 翌日、いつものように夕方になるとハーヴィスのもとへ行き、他愛のない会話をするとオセの表の支配人であるマローの部屋へと赴いた。
 エメリナや双子に予約が入っているかを確認するためだ。
 だが、マローは部屋にいなかった。
 仕方なくマリアーヌは机の上に置いてある帳面を見る。
 客室の番号、予約している客がいる場合はその名とおおよその時間などが記入されている。
 エメリナと双子の名がないか探していると、マローが戻ってきた。
「お疲れ様です」
 マリアーヌが微笑を向けると、マローは挨拶を返しながらやってきてマリアーヌが手にしていた帳面をすっと取った。
「今日はイシュメル様がお越しになられます」
 初めて会ったときからマローは一貫して敬語を使う。実直で娼館の支配人というより執事という言葉が似合う男だ。
 マリアーヌは双子を贔屓にしているイシュメルのことを思い出し、今日は双子にどんな服を着せるか考える。
「わかりました」
 客の好むように仕立てるのも世話役であるマリアーヌの仕事だ。
「それとエメリナはすでに仕事にはいっています」
 マローの言葉に、マリアーヌは思わず落胆してしまう。
 基本的に夜が栄えてはいるが、昼間から来る客もいる。
 ままあることでしょうがない。そう思うも、残り少ないかもしれないエメリナとの時間を思うとさびしかった。
「――――私が連絡をするまで、双子にだけついていてください」
 ぼんやりとエメリナのことを考えているマリアーヌに、静かな声が続く。
 え?、とその言葉の意味がわからず、マリアーヌはマローを見つめる。
 マローはまったく表情を動かすことなく、
「エメリナはいつ仕事が終わるかわかりませんから」
と言う。
 いつ終わるかわからない。
 そんなことはいままでになかったことだ。
 戸惑いを隠せず、マリアーヌは掠れた声を返す。
「それは………。お客様はエメリナを身請けをされるかもしれない方なのですか?」
 マローはわずかに目を伏せる。
「そうです。お客様が気に入られた場合は、そのままエメリナは身請けされるかもしれません」
 きのうの今日。
 まさかこんなにも早くに、とマリアーヌは絶句した。
 さっきハーヴィスに会ったときには、なにも言わなかったのに。
「あの……その方は……なんという方なのですか」
「……グラトン伯爵様です」
 聞いたことのない名だった。
 やはり常連客ではないのか。
 黙りこむマリアーヌにマローはただ淡々と「今日もお仕事頑張ってください」と言った。
 
 




 胸に鉛でもあるかのような重苦しいさを感じる。
 昨日まで笑いあっていたエメリナがいないなど実感がわかない。
 ただ苦しいだけ。
 だがエメリナにとってはいい話なのだと自分に言い聞かせる。
 エメリナは双子に身請けのことを伝えたのだろうか?
 双子の部屋へ向かいながら、考える。
 エメリナは双子に話す、と言ってはいたが……。
 どちらにしても双子に暗い顔を見せるわけにはいかない。
 双子の部屋の前に立ち、マリアーヌは深呼吸をした。
 ぎゅっと唇を噛み締め、扉をノックすると中へ入る。
 お絵かきをしていたらしい双子はぱっと顔を上げ、「「マリー、ごきげんよう」」と明るい声をかけてくる。
「ごきげんよう、イアン、イーノス」
 二人のもとへ行き、そっとその頭に手を置く。
 いつもと変わらない二人の様子に、マリアーヌはほっする。そして平静を装いながら、今日イシュメルが来ることを告げ、さりげなくエメリナのことに触れた。
「エメリナはね、今日はもう仕事に入っているの」
 仕事の合間や仕事前に時間があえば、いつもみんなで集まっていることが多く、決まって『今日はエメリナは?』と訊かれる。
 だから、マリアーヌは先にそう言ったのだ。
 イアンとイーノスはちらりと視線を交わす。
「ふーん、そうなんだ」
「エメリナは売れっ子だからね」
 いつもならばすぐに頬を膨らませて残念がる双子。
 だが今日はいつになく物分りがいい。
 知っている、のだろうか。
 思わず動揺に笑顔を固まらせるマリアーヌ。
 きちんとエメリナのことについて話したほうがいいのか、そう迷うマリアーヌの手を、イーノスがつかみ元気よく振る。
「ねぇねぇ、マリー。イシュメル様はまだすぐには来ないんでしょう?」
「お絵かきまだしてていいよね!」
 イーノスが伺うように、イアンがねだるように見上げてくる。
 マリアーヌははっとして、緊張を解きながら微笑んだ。
「ええ。まだ大丈夫よ。―――何の絵を描いていたの?」
 ごまかすように明るい声で、マリアーヌは二人の絵を覗き込む。
 双子は屈託のない笑顔で、互いに競うように「これはね」「これはー」と話し出す。
 相槌を打って絵を見ながら、少しのことで動揺する自分にマリアーヌは内心ため息をついたのだった。









***









 結局その日のうちにエメリナが戻ってくることはなかった。
 翌日、ハーヴィスにエメリナのことを訊くが、まだ、と言われた。
「マリー。お客様は大層エメリナを気に入られたご様子だ。もうこのまま、戻ることはないかもしれない」
 寂しいかと思うが双子のためにも、いつもどおり元気に頑張るんだよ。
 そう、ハーヴィスは言った。
 頷くことしか、できない。
 昨日からずっと頭の中にはエメリナのことがあった。
 だが、”いつか一緒にエメリナの故郷に行く"と、約束をしたのだ。
 それにここを出て新たな生活をするのはエメリナ。
 いつまでも自分がくよくよしていてはいけないのだ、とマリアーヌは気を引き締めて、そして今日もまたエメリナの部屋には行かずに双子の部屋へ向かった。
 出迎えてくれるイアンとイーノスの屈託のない明るさに、癒され安堵する。
 エメリナに心配をかけないよう、しっかりしなければと心から思った。


 だが、その想いは、呆気なく崩れた。

 ただ、訊いただけ。

 いや、双子にきちんと話しておかなければならないと思っただけ。

 だから――――その名を口にした。

 そして、それは、すべての終わりの瞬間だった。







***








「グラトン伯爵って知っている?」
 何気ないマリアーヌの言葉に、イアンとイーノスは大きく反応した。
 眉を寄せるイアンと、怪訝そうに目をしばたたかせるイーノス。
 その様子を見てマリアーヌは困惑する。
「……どうして?」
 イアンがいつもより低い声で逆に尋ねる。
 何故かエメリナのことを出してはいけないような気がして、マリアーヌは取り繕うように笑顔で答える。
「別にたいしたことじゃないのよ。オーナーがグラトン伯爵からワインをいただいていたから、どんな方なのかしらと思ったの。あまり聞いたことのないお名前だったから」
 もちろんワインの話は嘘だ。
 だがイアンとイーノスは少しだけほっとしたように顔を見合わせた。
「僕たちは直接あったことないけど。聞いた話だと……ちょっとお客さんの中でも、特に……」
 歯切れなく言いよどみ、イアンは口を閉ざす。
 不安が、湧き上がってくる。
 特に?、とさりげなく促すと、イーノスが続けた。
「……ソフィーがちょっと前まで気に入られてたんだけど」
 ソフィー。
 その名に、心臓を鷲づかみにされた気がした。
「ほんの数時間だけで……数日はお客さんがとれないくらいに……その」
 そしてまた言いにくそうにイーノスも口を閉ざした。
 マリアーヌの頭の中にソフィーという少女の姿が浮かぶ。
 白い包帯をいたるところに巻いた線の細い美少女。
 イアンとイーノスが客を迎える―――このB棟で人気の高い娼婦だ。
 背筋に悪寒が走る。
 エメリナを身請けした男が―――B棟の常連?
 なにかの間違いでは、と、誰かほかの伯爵と間違っているのでは、と、否定したくなる。
 だが恐ろしくて、声がでない。
「………ソフィーはここへ来る前も虐待を受けてきてたから、ちょっとは慣れてたけど」
 イアンが小さく呟き、そしてイーノスが抑揚なく続きを終わらせる。
「それでも怖いって。ほかのお客さんよりも――――様は怖いって……言ってた」
 オウム返しに、マリアーヌはイーノスの言葉の中に出てきた名を反芻した。



 ジェ、ラード……?


 伯爵の名はジェラードというの?



 呟きに、双子は怪訝そうにマリアーヌを見つめた。
「そうだけど……。どうしたの、マリー」
「具合悪いの?」
 血の気の引いたマリアーヌにイアンとイーノスが心配げに問う。
「………ううん。なんでもないわ」
 必死で笑顔を浮かべた。
 二人に気づかれないようにしなければならない。
 その一心でひたすらにマリアーヌは明るく微笑みながら、話を逸らした。
 不安を心の奥底に封じ込めて、"いつもどおり"を演じながら、だが頭の中はあの男のことでいっぱいだった。
 そして、双子が仕事に行くと、マリアーヌはハーヴィスのもとへと走った。
 どういうことなのか、聞くために。
 異様なほど激しい動悸に、胸を押さえながら走った。
 なにかの間違いだと言い聞かせながら。


 震える手で執務室の扉を開けた。
 我を忘れていて、ノックもしなかった。



「――――に、白薔薇を」



 ひとつの声が耳に飛び込んだ。
 マリアーヌは呆然と、その言葉を言ったマローを、ハーヴィスを見る。



「エメリナに………白薔薇?」



 突然部屋に入ってきたマリアーヌにマローが驚きに目を見開く。
 そしてハーヴィスは、なんの感情も知ることのできない、冷たい眼差しをマリアーヌに向けた。





 このオセにおいて、


 白薔薇は、


 死を――――意味する。







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2006,4,30