20







 ジェラードとの一件があってから5日が過ぎた。
 セルマが売られていって4日。
 マリアーヌはハーヴィスにセルマが売られていった理由も、その後ジェラードがなにも言ってこないのかを聞くこともできなかった。
 自分の臆病さを感じつつ、まるで幻であったかのように日々は平穏を取り戻していた。
「おはよう、ハーヴィス」
 お昼からはじまるマナー等の個人レッスンの前にハーヴィスの執務室へと赴くのが日課となっている。
 ここ数日、朝食の席についていたハーヴィスが今日はやってこなかった。
 もしかしてまだ執務室にもいないかと思ったが、机の上にワインと吸いかけの葉巻がありハーヴィスが書類に視線を落としていた。
 ソファーにはカテリアが寝ている。
「おはよう、マリー」
 部屋の中へと足を踏み入れると、葉巻の香りにまじり微かな花の香りがした。
 よく知った香水の匂いにマリアーヌは部屋を見渡す。
「どうかしたかい?」
 微笑を浮かべるハーヴィスに、「エメリナが来たの?」とマリアーヌは何気なく言った。
「………ああ。ちょっと彼女のお得意様のことで話があってね」
 普段なら仕事関係のことはマリアーヌか、マローを通してエメリナに伝える。
 わざわざハーヴィスが彼女を呼び出してまでの話とは何なのだろう。
 そう怪訝にするも、「ああ、マリーに嬉しいお知らせだ」と、ハーヴィスが笑顔でマリアーヌの思考を遮った。
「嬉しい知らせ?」
「今日の午後の勉強会は中止。先生お二方が急用で来られないんだ」
 マリアーヌは目をしばたたかせて、軽く頬を膨らませる。
「嬉しいだなんて、私勉強するの好きよ?」
 至極真面目な顔のマリアーヌに、ハーヴィスは吹き出す。
「ああ、そうだね。マリーは優秀な生徒だった。では言い換えて、残念ながら今日の勉強は中止。せっかくだから今日はカテリアの世話もいいよ。夕方の仕事まで自由にするといい」
 え、でも……、とマリアーヌはカテリアに視線を向ける。
「今日はカテリアの爪を切ってあげてようと思ってたんだけど」
 本当に眠っているのかカテリアは何の反応もない。
 かわりに再びハーヴィスが吹き出し、笑い出した。
 ムッとしてハーヴィスを軽くにらむと、ハーヴィスは口元を押さえ笑いを静める。
「ごめんごめん。いや、マリーは本当に真面目で仕事熱心だと感動しただけだよ」
 誉めているのか馬鹿にしているのかよくわからない言い訳に、マリアーヌはつんと顔を背けた。
 ハーヴィスは苦笑しながらマリアーヌのそばに歩み寄る。
「それじゃぁマリーにお使いを頼もうかな。いいかい?」
 机の端に軽く寄りかかり、ハーヴィスはそう言って紙になにか書き始めた。
 ちらりマリアーヌが視線を向けると地図らしきものを書いていた。
 お使いを命じられることなどなかったので、つい興味深げに見てしまう。
 ハーヴィスは簡単な通り名と数件の建物を書き、手前の店に"サノア"と記し、そこから3件横に丸印をつけた。
「サノアの店はわかるだろう?」
 いつもドレスを用立ててもらう仕立て屋サノア。
 何度かハーヴィスとともに店にも立ち寄ったことはある。
 マリアーヌが頷くと、ハーヴィスは小さく笑って丸印をつけた店を指し示した。
「3件横にね、新しい店ができているんだよ。なかなか評判の店で、ここで買ってきて欲しいんだ」
 きょとんとしてマリアーヌは「なにを?」と訊く。
「お菓子」
「お菓子?」
「ババロアやタルト類が絶品らしいよ」
「誰が食べるの?」
「もちろん僕」
 マリアーヌはさらにきょとんとして首を傾げた。
 ハーヴィスは甘いものを食べはするものの、そんなに甘いものが大好きというわけではないはずだ。
「何個くらいかってくればいいの?」
「そうだなぁ、僕とカテリアの分で……16個くらいかな」
「16個!?」
 マリアーヌが思わず声を上げると、ハーヴィスが楽しげに目を細めた。
「僕とカテリアの分で2個。残りは―――お駄賃でマリーにあげよう」
 お駄賃に………14個?
 目を点にするマリアーヌ。
 ハーヴィスはクスクス笑うと、ぽんとマリアーヌの頭を軽くたたいた。
「マリー1人じゃ選ぶのも大変だろうから、お供にエメリナと双子を連れて行くといい。ああ、もちろんお駄賃もマリー1人じゃなく、みんなで分けるんだよ? それと急ぎじゃないから夕方までに買ってきてもらえばいい」
 そう言ったハーヴィスを数秒眺め、そしてマリアーヌはようやく真意に気づき顔を綻ばせた。
「もちろん! 美味しそうなものを買ってくるわね」
 お使いというのはただの名目の、実際は結局休んでいいということなのだ。
 ハーヴィスは「頼むよ」と微笑する。
「あ、でも。僕のはあまり甘くなさそうなのにしてくれるかい?」
 はっと気づいたように言うハーヴィスに、マリアーヌは吹き出した。
「はい、オーナー。たっぷりクリームののったケーキをお持ちしますわ」
「………マリー?」
 打って変わって不満そうに眉を寄せるハーヴィス。
 楽しげに笑いながらマリアーヌはひらりとお辞儀をすると、
「わかっています。行ってまいります」
と、わざとらしく丁寧に行って身を翻した。
 そして、ため息混じりに笑うハーヴィスの声が響いたのだった。












 エメリナの部屋の扉を弾むように叩く。
 だがいつまでたっても返事はなく、マリアーヌは怪訝に思いながら部屋を覗いた。
 そこに姿はない。
 寝室にいるのだろうか、とマリアーヌは向かう。
「エメリナ?」
 声をかけながら寝室の扉を開けると、鏡台のところにエメリナの姿を見つけた。
 なにか書き物をしているようだ。
 よく故郷の家族へ手紙を書いていることがある。いまもまた手紙を書いているのだろうか。
 そう思うも声をかけても気づかないほど真剣な様子にマリアーヌは目をしばたたかせ、エメリナの後姿を見つめた。
「……エメリナ?」
 遠慮がちに声をかけると、ふとエメリナが顔を上げた。
 鏡越しに目が合う。
 びくり、と身体を強張らせ驚いたようにエメリナが振り返る。
「―――マリー……、びっくりした」
 苦笑いを浮かべたエメリナは掠れた声で呟いた。
「ずっと声かけてたのよ。どうかしたの? 顔色が悪いわ」
 蒼白、という言葉が合う顔色。
 今まで見たことのないエメリナの暗い表情に、マリアーヌは心配に眉をよせ歩み寄った。
「風邪でもひいたの? 大丈夫?」
 床に膝をつき、エメリナを見上げる。
 エメリナはじっとマリアーヌを見つめた。
「エメリナ?」
 いつも元気で明るいのがエメリナ。
 どうしたのだろう、と不安に思っていると、ふっとエメリナが笑みをこぼした。
「大丈夫、よ。ちょっと家族に手紙書いてたら懐かしくなってボーっとしてただけ」
「本当に?」
 それだけなのだろうか。
 いつも心配して励ましてくれるエメリナがなにか悩んでいることがあるのなら、今度は自分が聞いてあげたい。
 そう思って、マリアーヌはぎゅっとエメリナの手を握り締める。
 そしてその手がぎゅっと握り返された。
「マリーは心配症ね。なんでもないの! それよりも、どうしたの? たのしいお勉強の時間じゃないの?」
 いつもと同じ明るい笑顔と口調。
 マリアーヌは気になりながらも、ハーヴィスからのお使いのことを話した。
 とたんにパッとエメリナの笑顔が大きくなる。
「本当に!? ああ、どうしよう、何食べようっ」
 ウキウキとした様子で立ち上がったエメリナは本当に楽しそうで、マリアーヌは少しホッとした。
「それじゃあ早く用意しなきゃね! イアンとイーノスには?」
「これから伝えてくるわ」
 エメリナの笑顔につられ、マリアーヌもようやく心が弾んできた。
「それじゃあ、裏口で待ち合わせね!」
 なにを着ていこうかな、とエメリナが軽やかな足取りで衣裳部屋へとかけていく。
 マリアーヌは気にしすぎだったのだろうかと頬を緩め、またあとで、と声をかけると部屋をあとにした。









「これ美味しそう!」
「僕これ食べたいー!」
「僕はこれこれー!」
 エメリナと双子が目を輝かせてケーキを食い入るように眺めている。
 マリアーヌたち4人は開店したばかりの菓子店にきていた。
 大理石の床に豪奢なシャンデリア。たくさんのお菓子がまるで宝石のように飾られている。
「ねぇねぇ、マリーはどれがいい?」
「マリー、これなんかどう?」
 イアンとイーノスがそれぞれケーキを指差しながら聞いてきた。
 アプリコットのたっぷりつまったタルト、フランボワーズののったチーズケーキに洋酒の効いていそうなフルーツケーキ。濃厚そうなチョコレートケーキなどなど、きらびやかな店内の光に照らされているケーキの数々は見ているだけで心が弾む。
 マリアーヌもまたエメリナたちと同じように目を輝かせて「うう〜ん」と悩んでいた。
「もう全種類頼んでしまわない?」
 エメリナが、選びきれないっ!、と叫んだかと思うとそう言った。
「「賛成〜!」」
「えっ? で、でも」
「大丈夫よ、きっと。オーナーも好きなだけ食べていいっていうつもりでたくさん買ってくるように言ったんだと思うわ」
 言ってエメリナは自分で自分の言葉に大きく頷いている。
 双子たちもまた大きく頷く。
 でも……、と渋るマリアーヌを無視してエメリナは店員に、「全種類いただけるかしら?」と営業用の微笑で注文した。
 高級店だけあって、物怖じもせず店員は「かしこまりました」と、エメリナに負けず劣らない上品な微笑を浮かべた。
 にわかに忙しく動き回る店員たちに、なにかに気づいたようにエメリナが店員に話し掛けている。
 イアンとイーノスは相変わらずケーキたちに目を奪われたままだ。
 全種類のケーキのうち2個はハーヴィスたちの分だとして、残りはマリアーヌ達のものだ。
 軽く20種類以上あるケーキをいったい4人でどうやって食べるというのだろう、と呆然と立ち尽くしているマリアーヌを見てエメリナが吹き出す。
「どうしたの、マリー」
「だって……食べきれない……」
「残ったらほかの従業員達にもわけてあげればいいだけじゃない」
 屈託なく言ったエメリナに、それもそうだとようやく気づく。
 エメリナはおかしそうに笑いながら双子を呼び、そしてマリアーヌの手を引っ張った。
「さぁ、食べましょう。紅茶は頼んでおいたから」
 そう言って店内の奥へと進んでいくエメリナ。
「どこに行くの?」
「こちらでございます」
 答えたのは菓子店の店員だった。
 案内されて出たのは店のテラス。
 白い猫足のテーブルが設置され、このテラスで食べれるようになっているのだ。
 そしてテラスに面し、手入れの行き届いた緑に溢れる庭園が広がっている。
「わぁー!」
「すごーい」
 イアンとイーノスが爽やかな空気にのって香ってくる葉の匂いに気持ちよさそうに深呼吸している。
「この前、お客さんからこの店のこと聞いてたの」
 椅子に腰掛けエメリナが庭園を眺めているマリアーヌに言った。
「そうだったの。ここの庭園は散歩していいの?」
「もちろん。食べ終わったら散歩しましょ。お腹一杯のまま帰ったら、今日の仕事に差し支え出そうだし」
 早々とお腹をさすって苦笑するエメリナに、マリアーヌは耐え切れず笑い出した。
「なにー?」「どうしたのー?」、と双子も席につき見上げてくる。
 マリアーヌとエメリナは目配せをし、微笑んだ。
「今日はお腹一杯食べようね、って言ってたのよ」
 途端に双子は「「食べる食べる〜」」と顔を輝かせた。
 4人で談笑していると、しばらくして紅茶と、そしてケーキたちが運ばれてきた。
 皿にきれいに盛り付けられたケーキがテーブルの上にところせましと並べられていく。
 甘い香りや、フルーツの爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
 双子はただただ楽しそうにケーキを眺めている。
 が、マリアーヌとエメリナはそっと顔を見合わせた。
 確かに全種類を注文したが……。
 いざ目の前に広げられると、あまりの多さにめまいがしてきた。
「「いただきまーす」」
 弾んだ声でイアンとイーノスがフォークを持つ。
 それを見てマリアーヌたちも意を決してケーキに向かい合った。
 そしてそれぞれが思い思いのケーキを選んでフォークを入れ、口に運ぶ。
 次の瞬間「美味しいっ!」という叫びとともに、4人の頬がとろけるように緩んだことは言うまでもない。
 いつのまにかあれよこれよとケーキは4人の胃の中に落ちていったのだった。
 








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2006,4,16