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『今日は仕事はいいから、休みなさい』
 すぐにお風呂の用意をさせるからゆっくりして眠るんだよ、とハーヴィスは言った。
 言われたとおりにお風呂に入り、部屋へ帰ると泣き疲れたせいかすぐに深い眠りの中に落ちていった。
 そして翌日、目覚めると身体が軋むように痛んだ。
 客室で幾度となく身体を押し開かれた感覚が甦る。
 首を大きく振って頭を空っぽにし、支度をしようとベッドを降りた。
 ――――ニャァ。
 どこにいたのかひらりとカテリアがマリアーヌの足元に歩み寄った。
「おはよう、カテリア」
 微笑を浮かべ、カテリアを抱きかかえる。
 カテリアはじっとマリアーヌを見つめた。
 小さな瞳が心配気な光を宿していることに気づく。
 カテリアが小さな、優しい声で鳴きマリアーヌの頬をなめた。
 くすぐったさに、さらに頬を緩めるマリアーヌ。
「どうしたの、カテリア?」
 カテリアは返事をする代わりに2度3度とまたマリアーヌの頬をなめる。
 珍しいカテリアの行動に、怪訝に思いながらもマリアーヌは自分のまぶたが腫れぼったく重いことに気づく。
 もしかしたら昨夜泣きすぎたせいで目が腫れているのだろうか。
 そのせいで、カテリアが心配しているのだろうか。
 そう気づいて、マリアーヌはカテリアの頭をそっと撫でた。
「大丈夫だよ、カテリア」
 小さな瞳を覗き込んで微笑むと、カテリアはしばらくマリアーヌを見つめ、そしてようやくホッとしたように一声鳴いた。
 マリアーヌはぎゅっとカテリアを抱きしめ、その柔らかな毛並みに頬擦りした。
 ハーヴィスの手も暖かいが、カテリアの温もりも心地がいい。
 心の中が穏やかになっていくのを感じながら、マリアーヌは支度をし、カテリアとともに朝食へと向かった。
 食堂に入ると香ばしいパンの匂いがじゅうまんしている。
「おはよう、マリー。―――おやカテリアも、おはよう」
 いつもはない声の主にマリアーヌは驚いて目を向ける。
 テーブルに片肘をついたハーヴィスがいた。朝食の席にハーヴィスがいることはめったにない。
 昼間近の時間帯とはいえ、ハーヴィスを見かけるのはほとんど昼過ぎてからだ。
 マリアーヌは戸惑いながら、「おはよう」と返す。
 ハーヴィスの向かいの席に腰掛けカテリアを隣のイスに座らせながら、どうしたのだろうか、と見てしまう。
 珍しくワインではなくフレッシュジュースを飲みながらハーヴィスが微笑んだ。
「よく眠れたかい?」
 マリアーヌはようやくカテリアと同じくハーヴィスもまた自分を心配してきたのだということに気づいた。
 改めてきのうハーヴィスの胸の中で泣きじゃくったことを思い出し、マリアーヌはわずかに顔を赤らめる。
「よく眠れたわ。きのうはありがとう」
「マリーがお礼を言う必要なんてなにもないよ。僕が謝って許しをもらわなきゃいけないくらいだからね」
 苦笑しながらハーヴィスは言う。
 そんなことはない、とマリアーヌが返事をする前にカテリアの鳴き声がした。
 見ればカテリアがハーヴィスへカテリアが冷たい視線を向けている。
「ああ、わかっているよ」
 苦笑し、ちらりとカテリアを一瞥するハーヴィス。
 カテリアはもう一声鳴くと身を丸めた。
「どうかしたの?」
「いや、別に。ところで」
 ハーヴィスは身を乗り出すとまだほのかに湯気をたちのぼらせているパンを見て笑った。
「マリーのおすすめのパンはどれ?」
 朝食のパンはいつも数種類あって、好きなものをとって食べれるようになっている。
 マリアーヌもまた身を乗り出して、こんがりと焼けたパンたちを眺めた。
「うーん……これ胡桃が入っていて美味しいのよ。ああ、でもこっちのも……」
 頬に手を置き、迷っているとハーヴィスがクスクス笑う。
「マリーのおすすめのパンを取ってくれる? 何個でも食べられるよ」
 そう目を細めるハーヴィスにマリアーヌも微笑を浮かべながらパンを取り分けた。
 ハーヴィスとの朝食は楽しく穏やかに過ぎていった。












「具合のほうは大丈夫?」
 夕方近く、マリアーヌは双子とともにエメリナの部屋にいた。
 イアンはエメリナの横に、イーノスはマリアーヌの横に座っている。
 心配気に訊いてきたエメリナと、その言葉に同じように心配そうな視線を向けてくる双子たち。
 え、と呟きかけてきのう何も言わずに部屋に戻ったことを思い出す。マリアーヌはハッとして笑顔を浮かべた。
「ええ、一晩寝たらすっきり。少し体調が悪かっただけなの」
「そう? そうならいいけど」
「無理しないでね、マリー」
「ちゃんと暖かくして寝てね、マリー」
 エメリナがホッとしたように微笑み、続いてイアンとイーノスが口々に言う。
「ありがとう、みんな」
 今朝からずっと心配してもらってばかりだ。
 だがそれらはすべて優しいもの。
 昔、母親に首を絞められたとき―――助けに入った村人たちの哀れみという名の心配とは違う。
 なぜかふと、昔を思い出した。
 傍らに座るイーノスの髪をぼんやりと撫でていると、「あ!」とイアンが叫んだ。
「マリー! やっぱり僕たちの言ってた通りになったよ」
 イアンが言って、イーノスも「あ!」とマリアーヌを見上げる。
「そうそう、やっぱり2ヶ月だったね!」
 何のことかわからずマリアーヌは首を傾げた。
「なんの話? ふたりとも」
 エメリナもきょとんとしている。
「「セルマのことだよ!」」
 双子が一緒に言った。
 びくり、とマリアーヌは身体を強張らせた。
「セルマ……が、どうかしたの」
 双子たちは怪訝そうにマリアーヌを見た。
「知らなかったの?」
「何を……?」
「……他の店に売られていっただけよ」
 エメリナが双子を遮るようにそっけなく言った。
「そうそう、きのうね、オセを出て行ったんだって」
「他の店に売られていったんだって」
 マリアーヌは驚きを隠せずに視線を揺らす。
 セルマが、売られた。
 確かに彼女はいつ売られてもおかしくない状態だった。
 だが、急すぎる。
 それはすべて昨夜の客室での一件が関係していることは疑いようがない。
 あの―――ジェラードという男が、セルマを指名したという事実はすぐに知れてしまうことだったのだから。
 オセでは客と個人的な取引をすることは許されていない。
 それがきっかけで、売られるのが早まったのだろう。
 恋に溺れジェラードと取引をしたのは自業自得とはいえ、気の毒に思える。
「すごく泣き喚いてたらしいよ」
「無理やり引きずられて行っちゃったんだって」
「別にセルマのことなんてどうでもいいじゃない」
 双子に続いてエメリナが冷めた声で言った。
 らしくないエメリナの口調に、双子は口をつぐみマリアーヌもまた目をしばたたかせた。
「だって――――オセから他のところに売られたからって死ぬわけじゃないし。そんな心配することもないわよ」
 慌てたように紅茶を飲みながら、エメリナが微笑んだ。
 イアンとイーノスはきょとんとエメリナを見ていたが、すぐに「「そうだね」」と笑うと、次の話へと移っていった。
 マリアーヌもまた、新たな話題に笑いながら相槌をうつ。
 だが、さきほどのエメリナの言葉を考えていた。
 オセから売られていったとしても、死ぬわけじゃない。
 それに―――セルマにとってノアと離れることは苦しいかもしれないが、今後新たな恋をすることだってあるだろう。
 そう考えると、少しだけ心が落ち着いた。
 と、扉のノックの音が響いた。
 エメリナに指名が入ったのだろうかと扉を開けると、娼婦のジョアンナがいた。
「ごきげんよう」
 にっこりと営業用の笑顔を浮かべたジョアンナが、するりと部屋の中へ入っていく。
「みんなでお茶会?」
 断りもいれずに勝手にイーノスの隣に腰を下ろすジョアンナ。
 エメリナが眉を寄せてにらむ。
「ジョアンナを招いた覚えはないけど?」
「いいじゃない、ちょっとだけ。マリーさまにお聞きしたいことがあったのよ。すぐに帰るわ」
 だってどうせ訊いてないんでしょう、エメリナ?、とジョアンナは楽しそうに笑う。
 怪訝にするマリアーヌに反して、エメリナが顔を強張らせて立ち上がった。
「ジョアンナ、出て行って。ここは私の部屋よ。あんたに居てほしくない」
「"マリー、助けてっ"」
 声色を変え、高い声でジョアンナが言った。
 イアンとイーノスはきょとんとし、エメリナは顔色を変えた。
 マリアーヌは双子と同様にジョアンナの意図がわからず困惑する。
「ジョアンナッ!」
 エメリナが牽制するように叫ぶ。
「"ごめんなさい、マリー。ごめんなさい、だから、助けて"」
 呆然としているマリアーヌにジョアンナは芝居がかった口調と、悲痛そうな表情を作ってマリアーヌへと手をさし伸ばす。
 まるで、助けを求めるように。
 そしてジョアンナは唇を歪めた。
「―――そう、セルマが叫んでたわよ? 泣きながら」
 マリアーヌは目を見開いた。
 エメリナがマリアーヌをかばうように前へ立ち、ジョアンナを引きずりあげるように腕を引っ張る。
「出て行ってよっ!」
 だがジョアンナはエメリナを一瞥もせず手を振り解くと、マリアーヌを見つめた。
「ねぇ。セルマは貴方になにをしたのかしら?」
 すっとジョアンナの手が伸び、マリアーヌの顎をつかみ自分のほうに顔を向けさせる。
「オーナーが貴方のために、セルマを追い出したんでしょう?」

 私のため―――に?

 思ってもみない言葉に、マリアーヌは驚く。

「だって、貴方に助けを許しをもとめたのよ? セルマがなにかしたんでしょう? それでオーナーが彼女を追い出したんじゃないの?」
 なんてったって貴方はオーナーの大切な寵姫でしょう?
 セルマが囁くように言った。

 違う。
 そう首を振る。

 セルマが売られていったのは、客と個人的な取引をしたため。
 そう、思っていた。

 だが。
 
 セルマが売られていったのは、彼女のせいで自分が陵辱されたため?
 マリアーヌは、頭をよぎった考えに、何度も首を振る。


「違うの?」
「うるさいわねっ! とっとと出て行ってよ!」
 マリアーヌのかわりにエメリナが叫び、ジョアンナを押しのける。
「そんな怒ることないじゃない。エメリナだって大切な親友のマリーになにかあったんじゃないかって心配だったんでしょう?」
「あんたには関係ないでしょう?!」
 イアンとイーノスはおろおろとエメリナたちを見ている。
 マリアーヌは、なにも言うことができなかった。
「出て行って!」
 バタン、と大きな音をたてて扉が閉まる。
 無理やりジョアンナを追い出し、エメリナが鍵を閉めた。
「……エメリナ」
 そばにきて、ソファーにすわるように促すエメリナの手をにぎりマリアーヌは呟く。
「なに?」
 笑顔を向けるエメリナに、マリアーヌはわずかに俯いた。
「………セルマのこと」
「うん」
「もしかしたら私のせいかもしれない」
 ぽつりとこぼれた言葉に、エメリナは眉を寄せる。
「マリーがなにかセルマにしたの?」
 そうではない。
 そうではないが―――。
「違うんでしょう? なにがあったかしらないし、聞かない。けど、セルマは娼婦に向いてなかった。オセでの仕事に追いついてなかった、それだけのことよ」
 エメリナは強く言い切った。
 エメリナ、そしてイアンとイーノス、それにさきほどのジョアンナもまた性格に問題があるものの仕事は完璧にこなしている。
 それ相応の努力だってしている。
 だが、セルマは違った。
「そうだよ! マリーがなにか悪いことするわけないもん」
「マリーはとっても優しいんだもん!」
 それまで黙っていたイアンとイーノスが、必死にマリアーヌを見上げてくる。
 胸の奥が少し苦しくなる。でも、ほっとした柔らかさも広がる。
「………ありがとう」
 小さく微笑むと、双子もエメリナも微笑んだ。
「ね、マリー。お茶淹れて? マリーの淹れてくれるお茶とっても好きなの」
「ぼくもぼくも!」
「大好き!」
 ハイハイ、と競うように手をあげるイアンとイーノスに自然と笑みがこぼれる。
「美味しいお茶を淹れましょうね」
 しばらくして暖かな湯気と、柔らかな香りが部屋の中にやさしく立ち上った。








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2006,4,9