18






 ギシギシとベッドの軋む音が、遠くで聞こえた。

 男の手が、やけに熱く感じた。
 でも自分の身体は、ひどく冷えているように思えた。
 ダークグレイの瞳が楽しげに揺らめいている。
 マリアーヌは掠れた吐息をこぼしながら思い出す。

 以前働いていた、あの娼館の女将はなんと言っていただろうか、と。

 確か、腰を使え、と言っていた。
 確か、甘い声を上げろ、と言っていた。
 確か、演技をしろ、と言っていた。

 下手くそでも、気持ちよさそうによがってりゃいいんだよ、と女将が笑っていたのを思い出す。
 それなりに頑張っていたつもりだったが、今考えてみると、もっと教えてもらっておけばよかったと思った。
 ここは高級娼婦を扱うオセの家だというのに、なにもできない。
 ただ突き動かされ、されるがままだ。
 男の動きに、ただただ揺さぶられるだけだ。


 ああ、こんなことではハーヴィスに怒られてしまうだろうか。



 天蓋を眺めながら、ぼんやりとマリアーヌはそんなことを考えていた。








***









『また、君を呼ぶよ』

 男はそう笑っていた。



 客室を出ると、セルマが真っ青になって壁に身を寄せていた。
 マリアーヌを見て、さらに血の気のひいた表情で駆け寄る。
「あ、あ、あのマリー。あ、のね」
 上擦った声で必死に唇を動かすセルマ。
 マリアーヌはセルマを一瞥もせず「ネックレスはなかったみたい」とだけ言い歩き出した。
 セルマは固まったように立ちすくんでいる。
 そしてマリアーヌは振り向くことなくエメリナの部屋へと戻った。
 部屋の扉を後ろ手に閉め、そのままずるずると床に座り込む。
 仕事中はひとつにまとめている髪が、今は少し乱れて背中を覆っている。
 ぎゅっと髪を握り締める。
 深くため息をついて、膝をかかえ目を閉じた。
 1年以上ぶりに無理やり開かれた身体は、鈍い痛みを響かせている。
 そして全身に残る嫌な感触。
 最後部屋を出るときに耳を噛まれ、囁かれた。
『今日のことは秘密だよ。次も可哀想なセルマを買って上げなきゃいけないからな。それに秘密の逢瀬のほうが、楽しいだろう?』
 マリアーヌは擦るようにして耳に触る。
 オセに来る前までは、日常的だった行為。
 見知らぬ男に身体を差し出すのが、お金を得るためのすべてだった。
 オセに来たときも、それを望んでいたのに。
 なぜ……今、この身体が忌まわしく感じるのだろう。
 ギュッと唇を噛み締める。
 高級品を与えられオセから離れなくなる娼婦達と同じように、いつのまにか自分も感化されていたのだろうか。
 闇を求めていたはずなのに、ここにあったのは陽の光のように暖かなものだった。
 エメリナ、イアンとイーノスのことを思い浮かべ、彼女達もまた毎日辛い想いをして働いているのだと改めて思う。
 こんなことくらいで、動揺している自分に呆れてしまう。
 あの男は、秘密に、と言ったがその必要はあるのだろうか。
 ここはオセ、客の望みは叶える。
 あの男が、自分を望むのであれば、当たり前のように売られるのだろう。

 ああ、それにしても、疲れた――――。

 マリアーヌはため息をつき、顔をふせた。

 しばらくしてマリアーヌは重い腰をあげ、中断したままだった部屋の掃除を再開した。
 何も考えず、ただひたすらに手を動かす。
 ベッドシーツを換え、鏡台を片付け、鏡を磨く。
 鏡に映る自分が目に入るたびに、あわてて逸らす。
 だがふと、手が止まった。
 首筋に赤い痕がある。
 わずかに血を滲ませた痕に、マリアーヌはそっと触れる。
 噛み付くように歯を立てられたのを思い出す。
 無意識に嫌悪感に顔が引き攣る。
 俯き、鏡から離れようとしたとき――――、突然扉が開いた。
 驚いて振り向くと、目が合った。
「……ハーヴィス」
 なぜ、ここにいるのだろうか。
 そう思う。
 いや、それよりも、なぜ、厳しい表情をしているのか。
 いつになく真剣な面持ちをしたハーヴィスが無言でマリアーヌのそばに来る。
 その手がマリアーヌへと伸び、びくりと身体を震わせた。
 次の瞬間、マリアーヌはハーヴィスの腕の中にいた。
「よかった、無事で」
 心底安堵したような声。
 きつく抱きしめられ、ハーヴィスの体温が伝わってくる。
 その暖かさに、緊張が緩む。
「ど……どうしたの?」
 戸惑いながら呟くと、ようやくハーヴィスが腕の力を緩めマリアーヌを見つめた。
「とりあえず、今日の仕事はもういいよ。僕の執務室へ行こう」
「でも……」
 いいから、とハーヴィスは有無を言わせずにマリアーヌをつれて戻った。
 手を握る強い力に、不意に不安が湧きあがってくる。
『よかった』とハーヴィスは言った。
 それはマリアーヌに向けられたものだ。
 だが、なぜそんなことを言うのか。
 不安で頭が回らず、身体だけが微かに震えだす。
 執務室につき、マリアーヌは落ち着きなく視線を揺らした。

「……マリー、これ」

 言って、ハーヴィスがポケットから取り出したものをマリアーヌに見せた。
 暗赤色の石のネックレス。
 今日、ハーヴィスによってつけてもらったもの。
 マリアーヌは目を見開き、とっさに胸元に触れる。
 指先に触れるのは自分の肌だけで、マリアーヌは全身から血の気が引いていくのを感じた。

 落とした?
 どこで?
 どうやって?

 それに答えるようにハーヴィスがゆっくりと告げる。
「A棟の103のベッドに落ちていた」
 A棟の103、それは先刻マリアーヌが男といた客室の番号だ。
「マリー……」
「ごめんなさいっ」
 ハーヴィスの言葉を遮り、マリアーヌは叫んだ。
「ごめんなさい、あの、私……間違って客室に入ってしまって、だから、あの」

 秘密だよ、と男は言った。
 もし真実を言えばセルマがとがめられるかもしれない。
 もし真実を言えばあの男にこれからも売られるのかもしれない。
 もし真実をいえば――――。

 混乱する思考が、途切れる。
 暖かなハーヴィスの指先がマリアーヌの首筋に触れる。
 乾いた血を残す赤い痕をそっと撫でる指。
 そして首筋から、マリアーヌの顎へと移動し、優しく上を向かせる。
「マリー、落ち着いて。君を責めているんじゃないんだよ」
 マリアーヌと目線を合わせ、ハーヴィスが安心させるように優しく微笑む。
「パーティの時、君に話しかけた男性がいただろう? 今日あの客室を利用した方だ」
 ハーヴィスの言葉にマリアーヌは眉を寄せる。
「あの方……ジェラード様は常連というわけではないんだが、たまにいらっしゃるんだ。―――B棟をご利用にね」
 B棟―――。
 その言葉に、びくりと身体が震えた。
「あの方は嗜虐趣味の強い方で、それに気に入ったものに執着されるというのを噂で聞いていたんだ。だから、あのパーティで君とぶつかり、それからずっと君のことを見ていたとエリックから報告を受けて注意していたんだが―――」
 すまなかった、とハーヴィスはマリアーヌの頬をそっと撫でた。
 不意に目頭が熱くなるのをマリアーヌは感じた。

 大丈夫だったかい。

 怖かっただろう。

 ハーヴィスの手が優しく頬をすべり、そして髪を撫でる。
 マリアーヌの瞳から涙が一滴こぼれ、ハーヴィスの手に落ちた。
「あの人………はじめて……私を買った人だったの」
 わずかにハーヴィスが驚いたように眉を寄せた。
 マリアーヌはハーヴィスの服のすそを握り締めて、掠れた声で続ける。
「私が綺麗になっていたから、だからまたって。―――また……」
 首筋に這う舌の感触が、ふっと思い出され、身体が震える。
 ハーヴィスはそっとマリアーヌを抱き寄せて、頭を撫でた。
「でも……私……前と一緒で、なにもできなかったの」
 されるがままだった。
「ごめんなさい。……ごめんなさい」
「マリー、なんで謝るんだい。君はここの娼婦じゃないんだ。だからなにもできなくとも謝る必要なんてないんだよ」
「でも……」
「たとえ以前娼婦をしていたからといって、突然無理強いをされたら、誰だって怖いに決まっている。ごめんね、マリー」
 涙が、堰を切ったように溢れ出す。

 
 怖かった―――。
 本当はいつだって、怖かったのだ。


 マリアーヌはハーヴィスの胸元に額をつけ、声をあげて泣きだした。


 ハーヴィスはずっとマリアーヌの背をそっとなで続ける。
 優しい暖かさが背中から全身に広がっていく。
 生まれてはじめて、声をあげ、泣き続けている自分が不思議だった。
 涙とともに、過去の自分が剥がれ落ちていく気がした。


 それから長い間泣き続けたあと、しゃくりあげるマリアーヌの髪をハーヴィスの指がそっとすいた。
 泣きすぎたのか、目が痛かった。
 まぶたも重く感じる。
「大丈夫?」
 覗き込んで見つめてくる穏やかなハーヴィスの眼差しに、マリアーヌは微かに頷いた。
 ハーヴィスは涙に濡れたマリアーヌの頬を優しくぬぐう。
「マリー。もう2度とこんなことが起こらないように約束するから、安心していいんだよ」
「………でも……あの人、また……」
 私を買うって言ったわ―――。
 最後は消え入りそうな声で、ようやくマリアーヌは口を動かした。
「大丈夫。早急に手は打つからね。君が心配することはない。でももし、同じようなことがあったら、そのときは仕事のことなどなにも考えずに逃げなさい。いいね?」
「でも」
「いいから。わかったね」
 不安と心配とが入り混じったハーヴィスの眼差し。
 マリアーヌは頬に置かれたハーヴィスの手の暖かさを感じながら、小さく頷いた。







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2006,4,2