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 暗がりの中、男はダークグレイの瞳でマリアーヌを射るように見つめた。
 マリアーヌは呆然と男を見つめ返す。
「あなたは………」
 見覚えのある顔。
 30代後半くらいの壮麗な男。
 パーティでぶつかった、あの紳士だった。
 なぜ彼がここにいるのかがわからない。
 いやオセの客であったとしても不思議はない。
 ただ、セルマは『仕事は終わった』と言ったのだ。
 混乱して立ち尽くすマリアーヌに男は楽しそうに笑いかける。
「どうしたんだい? 顔色が悪いな」
 残酷な光を宿す目が細められる。
「…………あの」
 干からびてしまったような喉から、必死で声を絞り出す。
「申し訳……ありません。まだお客様がいらっしゃるともしらずに……」
 軋む音がしそうなほどぎこちない動きでマリアーヌは頭を下げた。
 だが言い終わらないうちに男は大きく笑い出す。
「気にすることはない。私は君を待っていたんだからな」
 マリアーヌは困惑に眉を寄せる。
 ――――この男が自分を待っていた?
 急激に言い知れない不安が身体を駆け巡っていく。
 青ざめていくマリアーヌに男は首を傾げて見せ、「セルマを怒らないでやってくれ。彼女もこの店に残りたくて必死なんだよ」と笑いを含んだ声で言う。
 セルマが、手引きをしたというのか。
「セルマを買ってあげるかわりに、君を呼んでもらったんだよ」
 どくどくと動悸が激しくなっていくのがわかった。

 ――――もう一度、君を味わってみたいと、思ってね。

 なにを言われているのか、わからなかった。
 

「それにしても、綺麗になったな」
 男は言いながら、手にしていた何かを指で弾いた。
 ころころとそれがマリアーヌの足元に転がる。
「あの時はただのみすぼらしい子供だったのに」
 あの時、とはいつなのか。
 みすぼらしい?
 男の声が、なぜだろう、パーティで会ったときと同じように遠くで聞こえた。
 マリアーヌはゆっくりと視線を足元に落とす。
「今では、悪徳で有名な『オセの家』のオーナーの寵姫とは」
 楽しげな声が空気を震わせる。
 絨毯に沈むようにして鈍く輝いている一枚の金貨が、目に映った。


 雪、が。
 金貨、が。
 ゆっくりと、金貨が、雪の上に、落ちた――――。

 あれは。


「あの時の君はまるで人形のようだったが。今はどうなのかな?」
 背筋に、悪寒が走る。
 マリアーヌは金貨から男へと、視線を上げた。



『名前はなんというんだい?』


『………マリアーヌ』



「マリアーヌ――――」


 今の君はいったい幾らで買えるのかな。








 暖かいスープが飲みたかった。
 美味しいものが食べたかった。

 お腹が、すいていた。

 パンを食べていると、男の手が身体を触ってきた。
 
 数えるのもバカらしくなるほど久しぶりにお風呂に入り、綺麗になった髪を、男が触っていた。

 まだ柔らかみもなにもない胸に唇を這わせた男。

 幼い身体を、初めてこじ開けた男。



 なにも、感じなかった、あの雪の日。
 暖炉の火の熱だけを感じた。

 人形のように、ただ男のされるままになっていた。

 だから、だから。


 目を、

 見ていなかった。


 身体にまとわりつく男の手のように、蛇のように、絡みつく男の視線と、一度もマリアーヌは目を合わせなかった。


 くらり、とマリアーヌはめまいを感じた。



「おいで。もう一枚あげよう」


 男は笑って、金貨をもう一枚マリアーヌへと放り投げた――――。










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2006,3,27