『第2部』
11
書類が積み重ねられたそばには書きかけの手紙と放り出されたペン。
その横には吸いかけの葉巻とランプの光に色を濃くした飲みかけのワインがある。
そしてその机に頬杖をつき、神妙な面持ちで目をとじているハーヴィスがいた。
控えめなノックの音が響くが、ハーヴィスは動かない。
静かに扉が開き、マリアーヌがカテリアを抱いて入ってきた。
仕事用のシンプルなデザインのダークブルーのドレス。1年の間伸ばしたままの髪はボリュームをもって後ろにひとつに結い上げられている。
マリアーヌはちらりカテリアを見下ろした。
カテリアは白い眼差しで答える。
ため息を一つつき、マリアーヌはハーヴィスのそばに歩み寄った。
ハーヴィスの耳元に顔を近づけ、
「ハーヴィス!!」
と叫ぶ。
途端にびくりとハーヴィスは身体を震わせ、頬杖を崩した。額を押さえてから、ゆっくりと顔を上げる。
「やぁ、ごきげんようマリー」
浮かぶのは例のごとく満面の笑み。
だがマリアーヌは大きなため息をついた。
「ごきげんよう、じゃないの! また居眠りしてたでしょう? もう、ほんっとうにいっつもお酒ばかり飲んでいるからよ」
まるで母親のような物言いだ。
ハーヴィスは苦笑いを浮かべると飲みかけのワインを手にし、その水面を揺らしながら、
「これはお得意のお客様からもらったものなんだよ。次に会うときに、味についての報告をしなくてはいけないだろう? だから、しかたなく飲んでいるわけさ。それに居眠りではないよ。考え事をしていたんだ」
と、まるで悪戯を見つかった子供のように言い訳をした。
マリアーヌはまったく共感を示すでもなくカテリアと同じく白い目を向ける。
深呼吸ひとつして、凛とした声でとがめるように呼ぶ。
「ハーヴィス!」
首をすくめ、ため息をつくとハーヴィスは降参と言うように手を振った。
「はいはい、僕が悪かったよ」
取り繕うようににっこりとハーヴィスは微笑む。
立ち上がり、マリアーヌに歩み寄った。
「今から仕事だろう? 頑張っておいで」
ぽん、と軽くマリアーヌの頭を撫でる。
それは暖かくて心地のよいもの。心がほっとするのがわかる。
マリアーヌは頷き、そしてにこやかな笑みを浮かべた。
「オーナーも、居眠りなどなさらないように頑張ってくださいませね」
わざとらしく、意地悪に瞳を輝かせて言う。
ハーヴィスはぐっと言葉を詰まらせると、再びため息をついた。
「ああ、ここへ来た頃はとーっても可愛かったのになぁ」
ぼやくハーヴィスに、「なぁに?」と小首を傾げてみせるマリアーヌ。
なんでもございませんよ、とそっぽを向くも、すぐに砕けた笑みを浮かべた。
マリアーヌも楽しげに笑う。
ハーヴィスにカテリアを渡すと、「行ってきます」と軽く手を振った。
「行ってらっしゃい、マリー」
ニャァ、とカテリアも送り出す。
こんな些細なやり取りが、マリアーヌにとってはとても楽しいものだった。
***
「あのボケじじい、すっごくしつこくってイヤになっちゃう」
頬を膨らませて、淡い栗色の髪をした少女が言った。
長いまつげに切れ長の目。美しい顔立ちをしている。
言葉をつむぎだす唇はさくらんぼのようにふっくらとしていて紅い。
きめ細かな白い肌と豊満な胸、くびれた腰に長い足は、どんなドレスを着ても様になる。
黙っていれば近寄りがたさを感じさせる美しさだが、口を開いたとたんに愛らしさが加わるのは少女の気さくで明るい性格ゆえか。
「ボケじじい……って、神父のジェイル様のこと?」
少女――エメリナの艶やかな髪に丁寧に櫛をかけながら、マリアーヌは鏡越しに問い掛けた。
エメリナは大きく頷く。
鏡に映るエメリナは垢抜けきっていて、とても田舎育ちでつい最近ここへ来たとは思えない華やかさがある。
「だってね、あのジジイ、ずーっとずっと私の髪触ってるのよ」
マリアーヌは神父ジェイルを思い浮かべる。
数ヶ月前、地上のサロンで給仕していたときに、その姿は見たことがあった。
恰幅のよい人の良さそうな初老の男で、とてもオセにくるようには見えない。
だが彼はこのオセの常連で、なおかつ大層エメリナをひいきにしている。
「また?」
「そう、また」
そしてどうもジェイルは美しい髪が好きらしく、エメリナを指名するが性的な交わりはないそうだ。
エメリナの髪をとにかく触り、頬擦りし、口付ける。
そして最後に感極まって射精―――、それがパターンとなっているらしい。
エメリナにとってはある意味楽ではあるだろうが、ある意味退屈でもあり不満でもあるらしい。
「私のことなんて無視よ、無視。しかもほんのちょっとの、ほんっとうに1ミリくらいの枝毛でも見つけて小言を言うのよ?
"ああ、エメリナ。君はなんということをしてくれたのだい。神から賜った、こんなにも美しい髪を痛ませるなどと……。贖罪してもしたりないことだよ"」
身振り手振りを加えて口真似するエメリナにマリアーヌは笑いをこらえることが出来ない。
「まったくもう失礼しちゃうわよ。こんなに素敵な身体を無視してくれるなんて」
口を尖らせ言って、エメリナはドレスの裾を持ち上げ生足を見せびらかすようにして組んだ。
マリアーヌはエメリナの髪に金細工の髪留めをつけながら、笑いかける。
「そうね、エメリナを前にして髪だけなんてもったいないわ。でもジェイル神父の気持ちも少しわかるかも。だってエメリナの髪はすごく艶やかで綺麗だもの」
エメリナの髪に口付けを落とす。
鏡越しに視線が合う。そして次の瞬間、エメリナは顔をほころばせた。
「やっぱりマリーって姉さんに似てるなぁ。優しくフォローしてくれるところとか」
エメリナには田舎に残してきた姉妹たちがいる。
姉、妹、弟が二人に母親。
その家族のためにエメリナはここで働いているのだ。
「エメリナのお姉さまって18歳でしょ? 私と4つも違うわ」
「そうなんだけど。しかも私より2つ下っていうのも信じられない。ねぇ、マリー年ごまかしてない?」
顔を上げて真剣な面持ちで問い掛けるエメリナに、マリアーヌは声をたてて笑った。
確かにマリアーヌは年相応に見られることがなくなってきていた。
もちろんまだ若いのだが落ち着いた雰囲気に、14歳だと思うものは少ない。
オセの家へ来て1年の間、ジョセフィーヌによる徹底されたマナー教育と老師ハリスによって様々な知識を与えられた。
それらによりだんだんとマリアーヌの瞳は知性を宿し、優雅な動作は気品を漂わせるようになっていた。
もちろんそういった勉強だけでなく仕事も関係するのかもしれない。
オセへ来た当初は地上地下すべてをまわり、清掃全般とした雑用が主だったが、3ヶ月後は給仕を主とする接客もするようになった。
4ヶ月ほど前からはオセの家の娼婦である少女たちの世話役になった。
身の回りの整理や、ドレスの選択や髪のセットなど。
エメリナもちょうどその頃、このオセにやってきた。
入ってきたときから元気がよく明るい性格は、娼婦となっても変わることがない。
誰とでも仲良くなれるエメリナだが、話のあうマリアーヌとは特に仲が良くなっていた。
そして人柄なのか、その美貌からか、エメリナはあっというまにオセの娼婦の中でナンバー1になった。
個室と専属の付き人を与えられたエメリナはマリアーヌを世話役に指名し、現在にいたる。
「ああ、私もあと少しくらいはマリーのように上品になりたいなぁ」
ため息混じりに言うエメリナにマリアーヌは小首を傾げた。
「エメリナは充分気品溢れていて綺麗だと思うわ。どんなドレスでも着こなして颯爽としているとどこかの王女様みたいだし」
最後の仕上げの香水をエメリナに吹きかけながら微笑を向ける。
「そう?」
エメリナは嬉しそうに頬を緩めた。
16歳で娼婦に足を踏み入れたエメリナ。
気が強く明るく美しい。家族と離れ寂しさや不安を抱えているだろうに微塵もそれを感じさせない逞しさ。仕事へと赴くときの面差しは華やぎに溢れていてマリアーヌにはとても眩く見えた。
だが普段こうやって喋っているときは、エメリナがマリアーヌを姉のように思うのと同じで、マリアーヌにも妹のように思えることがある。
「そういえば、きのうね」
と、エメリナが取り出したのは常連客から貰ったお菓子が入った箱。
「エメリナ? 食べたらせっかくの口紅が取れちゃうわ」
「いいじゃない、別に。はい、マリー、あ〜ん」
エメリナが砂糖菓子を差し出してくる。
しょうがなくマリアーヌは素直に食べた。
口の中でとろけるような甘さと美味しさが広がる。
「美味しい」
「でしょ?」
そう言って自分も一つ、とお菓子を口に放り入れるエメリナ。
途端にくしゃっと顔を崩して幸せそうにする彼女にマリアーヌは吹き出した。
「なに、なに笑ってるの、マリーったら?」
「なんでもないわ」
楽しげに言いながら、お菓子の包みを開けていく。
そうしてしばらくの間、部屋には甘い香りと少女達の笑い声が響いていた。
エメリナの部屋の片づけをしていると、まばらなノックの音が響き扉が開いた。
我先にと部屋に入ってきたのは同じ顔をした幼い男の子二人。
イアンとイーノスという10歳の双子の兄弟だ。
この双子もまたオセの家で働いている。
最初から個室を与えられ、B棟で働く双子は息を飲むほど美しい容貌をしている。
天使のような顔立ち。
双子には3人のパトロンとも言える常連客がいる。
「あれ? エメリナは?」
「もうお仕事行っちゃったの?」
イアンがきょろきょろと、イーノスが残念そうに目をしばたたかせる。
「ええ、ついさっき行っちゃったわよ」
手を休めマリアーヌが砕けた笑みを向けると、二人が駆け寄ってくる。
「それならマリー、僕たちの部屋に行こうよ」
少し気の弱いところのあるイーノスがマリアーヌを覗き込む。
「そうそう。僕たちの部屋にはおもちゃがいっぱいあるしね」
天真爛漫といったふうのイアンが甘えるように見つめてくる。
マリアーヌはクスクスと笑いながら、二人の頭を撫でる。
この双子もまたマリアーヌが世話役となっているのだ。
マリアーヌの場合カテリアの世話もあるので、昼間などはそれぞれのメイドが世話をしている。
「もう少しだけ待っててくれる? お部屋の掃除をしてからね」
そう告げると、双子はマリアーヌを挟んで視線を交わす。
「「僕たちも手伝うよ」」
声を揃えて見上げる双子に、マリアーヌは頬を緩めっぱなしで大きく頷いた。
次の瞬間には走り回るように掃除を始める双子。
それもまたここ最近のよくある光景。
マリアーヌは自然と顔をほころばせ、双子とともに掃除を再開した。
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2006,2,18
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