『桜を見ながら〜first flush〜』
3
「今日、デート?」
講習が終わり、隣に座っている吉木奈央が頬杖をつき言った。
からかうような笑みを含んだ眼差しが水都を見ている。
手早く教材をバッグに押し込んでいきながら小さく頷く。
「まぁね…」
「久しぶりなんじゃないの?」
同じ高校でもある奈央とは一年生のとき同じクラスで仲がよかった。2年の時は違うクラスだったが、ずっと仲がよい。この予備校へも一緒に通うことに決めたのだ。
遊と付き合うことになったときも真っ先に報告した。
「そうだね」
他人事のように言いつつも、内心では浮かれて気がはやっている。
それを見透かしているように奈央はにやにやと笑っている。
「いいな〜ラブラブデート」
「奈央なんて、毎日のように会ってるくせに」
近所に住む幼馴染と奈央は交際しているのだ。
「会ってはいてもデートじゃないしー。三崎先輩のようにカッコよくないし」
「うっわーヒドイ。健太くんに言うよ」
「いいのいいの、健太はかっこいいじゃなくて、可愛いタイプだから」
ちょっと眉を寄せ奈央を見る。
「なに、ノロケ?」
「えー違うよ〜」
笑う奈央に、水都も吹き出す。
いつでも会える奈央たちが羨ましい毎日。だが今日は遊と会えるから、心もゆったり対応できる。
「今日はなにするの? 久しぶりだから甘えまくり?」
「甘えませーん」
「え〜。ウキウキでしょ? 会ったそばからチューとか」
「……奈央、セクハラ親父みたい」
思わず呆れると、ケータイが鳴り出した。
遊からの電話だ。
教室内の時計を見る。
待ち合わせまであと40分ほどあった。
「もしもし」
「水都?」
どうしたんだろうか、もう待ち合わせ場所に着たのか。
そんなことを考える。
「うん。どうしたの、先輩」
「ごめん、水都」
遊が低く言った。
その言葉を聞いたとたん、水都から笑みが消える。
「急にバイト入った。断ったんだけど、どうしても人手が足りなくってさ……」
申し訳なさそうな声。
浮かれていた気分はいっきに消えうせる。
「本当にごめん。でも今日は―――――」
「いいよ、別に」
遊の言葉を最後まで聞かず。明るい声で遮った。
「だってバイトなら、しょうがないよ。がんばって、先輩」
まるで気にしてないというように言った。
間が空く。
しばらくして、いつもと変わらない軽い調子の遊の声が響く。
「ああ。ほんとごめんな、バイト終わったら電話するから」
「いいよ別に、疲れてるだろうし。じゃあね」
「わかった。………じゃあ」
一呼吸おいて、電話を切った。
通話時間の止まった液晶を見つめる。
パタンと折りたたんでバッグの中に放り込む。
そしてようやく小さなため息をついた。
「デート中止?」
はっとすると奈央がじっと見つめていた。
「先輩バイトになっちゃったんだって」
苦笑してみせる。
「残念ねー」
「仕方ないよ」
「ふーん。冷たいんだ」
笑いを含んだ声に、びくっ肩が震えた。
思わず目をしばたたかせると、奈央が吹き出す。
「冷たいってなによ。だってしょうがないじゃない」
少し苛立ちを感じた。
冷たいなどと言われるとは思わなかった。
「しょうがないねー。しょうがないっていいながら、無理やり我慢してるわけなんだ」
「そんなんじゃないよ。バイトだから、しょうがないじゃない」
奈央は声を立てて笑う。
「私だったら、ちょっと文句言うなー。しょうがなくっても」
「……それは奈央は付き合って長いから。でも私はまだ……。それに、迷惑かけたくないし」
そう、迷惑をかけたくない。
わずらわしいと思われたくないのだ。
「ふーん」
笑みを消して、奈央は横目に水都を見る。
「水都ってさぁ」
そう言って、黙る。
続かない言葉が気にかかって、なによ、とキツく呟く。
「恋愛なんて割り切れないから楽しいんだよ」
少しして奈央が言ったことは、よくわからなかった。
「は?」
「会えなくて寂しい。会えて嬉しい。ドタキャンされてムカつくー。仕事だってなんだって、そんなの知んない。会いに来てよ〜」
棒読みで、まるでセリフでも読んでいるようだ。
キョトンとする水都。
奈央は「ま、素直が一番ってことよ」と、言いながら帰る準備を始めた。
そして身支度を整えると席をたって、水都の肩をぽんと叩く。
「さっ。今日はヒマになったことだし、遊んで帰ろっか」
にっこりと満面の笑顔の奈央に、しばらくして水都も笑顔で頷いた。
夕飯を食べて、お風呂に入ると早々と水都は部屋へ戻った。
ベッドに身を投げ出し、枕に顔をうずめる。
しばらくのあいだそのまま。
そしてため息が漏れた。
少し顔を横に向け、床においてあるバッグに視線をむける。
ちょうどケータイのストラップが半分ほど飛び出ていた。
手を伸ばしかけて、止める。
再度のため息。
そしてまた手を伸ばし、ストラップを引っ張り上げる。
ケータイがぶらり目の前にきて、水都は仰向けになって、ケータイを見上げた。
パチン、と広げる。
意味なく着信と発信履歴を交互に見る。
並ぶのは友人や家族、そして遊の名前。
知らずまたため息が漏れる。
今度はメールを見た。
『おはよう』だとか、『いま帰り』だとか他愛もないことが一日に何回もやりとりしてある。
だがそれは1週間ほど前までで、ここ数日は1日2〜3回ほどしかメールもしてない。
ケータイに登録した遊の名を見つめ数秒、ケータイを胸元で握り締める。
「………センパイ…もう終わったかな……バイト」
終わっても連絡しなくていいといったから、かかってこないだろう。
まだ9時だし、遊のバイトが終わるのは早くても10時ぐらい。
考えると会いたくて切なくて、寂しくなってくる。
でも静かな部屋に一人いると、想わずにはいられない。
「会いたいな…………」
小さくつぶやいた瞬間。
着信が鳴り出した。
ぼうっとしていたから、心臓が跳ね上がるぐらいに驚き身を起こす。
そしてその着信音が遊専用のということに気づきさらに驚き液晶を見る。
オレンジのライトの点滅とともに表示されてるのは遊の名前。
呆けて数秒、ようやくボタンを押す。
「も、もしもし」
「こんばんわー」
なぜか緊張気味の水都とは正反対にのんきそうな遊の声。
軽いいつもの口調にすっと体中の力が抜けるのを感じる。
「こんばんわー……。バイト休憩中?」
「ん? いーや、もう終わった」
ちらり時計を見て、まだ9時半にさしかかったところというのを確認する。
「早かったね」
「ああ。今日はもともと出じゃなかったし。意外にひまだったから、先に上がっていいって言われたんだ」
「そうなんだ。お疲れ様です」
「お疲れっす」
今日会えないと言われたときは硬くなっていた心も、遊の電話でやわらかくなる。
「あー腹減ったぁ」
大きな声が響く。
「な、水都」
「うん?」
「おにぎりつくって。おかかと梅でいいから」
「は?」
きょとん、と問い返す。
ケータイから遊の笑い声がこぼれる。
「おにぎりぐらい、作れるだろ?」
以前デートしたときに作って失敗したエビフライを思い出し、顔を赤くしつつうなずく。
「おにぎりぐらい作れるよ」
「じゃ、作ってて。3個ぐらいでいいよ。おかずはいらないから」
「作ってて、って」
不思議そうに言うと、思いもかけない言葉が返ってきた。
「いま、水都んちに向かってる。あと15分ほどで着くからー、おにぎり作ったら出てきて」
ええ?、びっくりしすぎて「うそ」と思わずつぶやく。
「ほんと。じゃあ15分後な」
そう遊は水都の返事もまたずに電話を切った。
呆然と通話が終わったケータイを見下ろす。
嘘、冗談。
頭の中はパニックになるが、もし本当だとしたら、あと15分しかないのだ、と気づく。
とりあえず、と水都はキッチンへと走っていった。
リビングには妹がTVを見ていた。
まず炊飯器の中をチェック。
ぎりぎり2杯分ほどのご飯がのこっていた。
そしておかかと梅を取り出す。
だがあわてているせいで、ガタンガタンとなにをするにも大きな音を立ててしまう。
「おねーちゃんー? なに、うっさいなーぁ」
リビングから迷惑そうな表情で顔をのぞかせる名都(なつ)。
「うるさい! 名都!」
と、半ば逆ギレモードで言い返すと水都は必死でおにぎりを作り始めた。
三角がやや崩れたようなおにぎりを3つ、のりで巻き終えるともうすでに20分がたっていた。
真っ青になりながらおにぎりをお弁当箱につめる。
「ねー夜食? ちょうだい?」
相変わらず横から口を挟んでくる妹を水都は軽くにらむ。
「夜食じゃないわよ。急いでるんだから」
「なに、お姉ちゃんいまから出かける気?」
そうよ、と言い掛け、もうすぐ10時ということに気づいた。
「こんな夜中にでかけたら怒られると思うけど」
リビングのソファー越しにニヤニヤ笑いながら名都が言う。
おそらく遊と会うのだということに気づいているのだろう。
思わず真っ青に立ち尽くす水都に、にっこり名都は笑いかけた。
「じゃー可愛い妹ちゃんが見逃しててあげるから〜。炊飯器に残っていたごはんも食べたことにしてあげる」
天使のような優しい申し出とともに差し出された手。
「1000円」
水都は憮然と言う。
「3000円」
名都は笑顔でさらにグイと手を差し出す。。
「…1500円」
「3000円」
「………2000円」
「3000円」
まったく譲る気のなさそうな名都に、大きなため息をついて、手を叩いた。
「わかったわよ」
「明日ちょーだいねー。いってらっしゃ〜い」
交渉を終えた名都は満面の笑顔で手をふった。
水都は妹をにらみつつ、お弁当を袋に入れつかむと、外へと飛び出した。
まだ4月上旬。
だから夜はまだ寒くって、水都は思わず身震いした。
部屋着にジャケットを羽織った、いたってラフすぎる格好ということを思い出す。
(き、着替え……)
そう一瞬家のほうへと振り返ったとき、声がかかった。
「挙動不審だぞ」
びくっと視線をむける。
家から少し離れたところに自転車にまたがった遊がいた。
「せ、先輩……」
「おにぎり出来た?」
「あ、うん」
遊のもとへ走り寄る。
遊が手を差し出したので、お弁当袋を渡す。
にっと笑って手をふる遊。
「ありがと、じゃ」
「え?」
帰るの?、と唖然と目を見開く水都に遊が吹き出した。
「嘘だよ」
からかわれたと思うより、声を立てて笑う顔が嬉しい。
ぼうっとしている水都を見つめて遊はその手をとった。
「ちょっと散歩しよ」
少し家のほうを気にしたが頷く。そして遊に促されて自転車の後ろにのった。
自転車の二人乗りなんて何年ぶりだろう。
小さいころはあるが、いまはまったくない。
それに遊とというのがとても新鮮で、照れくさかった。
「なんだか…………中学生日記見たい……」
遊の腰にそっとつかまりポツリ呟くと、
「青春だろ?」
と、笑う声が聞こえた。
自転車はゆっくりと走り出し、徐々に加速していく。
夜風は冷たいが、心地よかった。
自転車は数分走って止まった。
家から10分ほど、いつも利用するバス停の隣にある並木道のある公園。
「――――――わぁ……」
自転車から降り、思わず水都は感嘆した。
夜の闇の中、等間隔に設置された電灯が薄明るく公園を照らしている。
月の光にも似た中に浮かぶのは薄紅いろの花びら。
満開の桜だった。
風に枝が揺れ、綺麗に咲きつくした花びらがはらはらと舞う。
そうここは桜並木が綺麗だったのだ。
「今度見に行こうって、言っただろ?」
遊の声がかかって、水都は驚いて振り返った。
いつだったかだろうか。
一週間ほど前、たしか電話でこの並木道のことがでたことは覚えてる。
そのときはまだ咲いてなく、蕾を見上げたのだ。
きっと遊は寂しがらせないように気を使って言ってくれたのだと思っていた。
それに期待してがっかりするのがいやだから、些細なその約束を覚えていなかった。
だがその会話を、ちゃんと遊は覚えていたのだ。
「………うん…。綺麗だね……」
胸の奥が苦しくなりながら、微笑んだ。
ほんのりと紅い桜が心にしみるほど美しかった。
「毎日見てるだろうけど」
遊の言葉に、大きく首を振る。
毎日この場所を通っていた。だが桜が咲いているのさえ、気づいてなかったのだ。
いつもうつむいて歩いていたから。
「さーってと、桜を見ながら食べようかな」
ベンチに腰を下ろし、遊はグリーンのお弁当袋からおにぎりを取り出した。
水都も横に座る。
「あの、急いでたから、ちょっと形が……」
遊の手にしたおにぎりに視線を走らせ、慌てる。
丸に近い三角のおにぎりを見下ろし遊は笑いながら一口食べた。
「ん! 梅のおにぎり」
当たり前のことを大きな声で言い、美味しい、とあっという間に平らげる。
「水都も食べない?」
そう1つ渡され、口に運ぶ。
塩がほんのりきいたおにぎりはおかかが入っていた。
まだ少し温かい。
おかずもない、おにぎりだけ。
お昼でもないけれど、遊と並んで食べると、まるでピクニックにでも来たような感覚になる。
特別な人と過ごすだけで、ほんのひと時でもとても特別になる。
「……美味しいね」
顔をほころばせて遊を、桜を見た。
おにぎりを食べ終えると、遊が近くの自販機でホットのお茶を買ってきて二人で飲んだ。
「元気だった?」
一息ついた、というように大きく伸びをして、ベンチにもたれかかると遊が言った。
「うん、元気だよ」
遊と会っているときはいつだって元気で幸せだ。
自然な微笑みに遊も微笑む。
そっと手が伸びて、頬に触れる。
暖かい指先にドキっとして、次の瞬間、ほんの少しのキス。
「なんか、すごい久しぶりな気がする」
遊が優しげに目を細めた。
「忙しくて、あんまり会えなかったもんな。せっかくの春休みだったのに」
「……しょうがないよ」
そう笑った水都に遊は小さな笑みをこぼした。
どこか切なさを感じさせる笑み。
「ちょっと、歩こうか」
一人二人と並木道を歩く人が見えて、遊が立ち上がった。
バスの停留所そばにある駐輪場に自転車を置き、池もある公園を一周することにした。
手をつなぎ、他愛のない会話をしながら月夜の道をゆっくり歩く。
バイトや教習所での話しは楽しく、いろんな出来事を聞かせてくれるのが嬉しかった。
その二つのために合う時間も減っていると考えると切なかったが。
「もう学校始まるんだなー」
「そうだねー。先輩ももう大学生なんだよねー…」
もうすぐ新学期が始まる。
だがもうあの学校で遊と会うことはないのだ。
「寂しい?」
まるで水都の気持ちを読んだかのように遊が立ち止まって、水都の前に回りこんだ。
顔を覗き込まれ、わずかに赤くなる。
「え、あ……。べつに……だって、卒業しちゃってるし、しょうがないし」
少しうつむいて言うと、小さなため息が響いた。
遊のため息に、不思議に思い見上げる。
瞬間、抱きしめられた。
「…………先輩…?」
遊はキスするのも抱きしめるのも突然でびっくりすることが多い。
でも腕の中は暖かくてホッとするから大好きだった。
人気はなかったから、そのまま身を預けた。
そっと髪を撫でる感触が心地よい。
ずっとこの瞬間が続けばいいのに、と思ってしまう。
「―――――――なぁ……水都」
あまりに心地よくて、夢の中のような気さえした。
「……なに…?」
安心しきってしまう。
「俺のこと好き?」
微笑が浮かぶ。
「当たり前だよ…先輩」
いつものように自分に好きと言わせて照れさせようとしているのだ、とそう思った。
「ホント?」
だが、真剣な声に驚いて水都は顔を上げようとした。
しかしさらに抱きしめる手に力に加えられ、遊を見ることはできなかった。
「先輩? なんで……?」
苦しいほど抱きしめられる。
戸惑っていると、深いため息が響いた。
「んーちょっと不安になってみたり」
自嘲するような声。
なぜ遊が不安になるのか、水都は眉を寄せる。
「水都ってさー会いたいとか言わないだろ……。今日もドタキャンしたのに文句も言わないし」
それは、と言いかけるが、遊の切なそうな声に言葉がでなかった。
「そんなにがっかりしたり、会いたいって思うほど……」
また、今度は吐き出すようなため息が漏れる。
「べつに……そんなに俺のこと…好きじゃないのかなー………って…」
消え入りそうな声が耳元で告げた。
驚いて、驚いて、水都は大きく目を見開く。
胸がドキドキして苦しかった。
なぜそんな、と混乱する。
なにをどう言えばいいのかわからずに、沈黙が流れた。
会いたい、いつでも思っていた。
会えなくて寂しい、いつでも思っていた。
でも、言えば迷惑がかかる、と思っていた。
それなのに、なんで遊が―――――。
「………私……先輩のこと……ほんとに…好きだよ」
苦しくてしかたない。でも必死で言った。
本当だよ、と。
「……うん」
なぜか急に目頭が熱くなってきた。
抑えようなく、涙がせりあがってくる。
『冷たいね』
ふと思い出したのは奈央の言葉。
熱い涙とは反対に、すっと心に入り込んで冷静にさせる。
そして、ようやく気づいた。
自分が、自分のことしか考えてなかったってことを。
会いたい。
でも会えなくて、寂しい。
でもそう言ったら余計に寂しくなる。
会いたいと言って、会えなかったら、嫌な顔されたら、苦しいから。
だから、最初から切り捨てて。
割り切って。
そして、結果は、遊を傷つけていたのだ。
遊だって会いたいと想っている。
そんな当たり前のことを考えたこともなかった。
『ごめんなさい』
声にならず、呟く。
涙を見せては、気づかれてはならないと思った。
これ以上、悲しい想いをしてほしくない。
「………じゃあ…今度から」
奈央はなんと言っていただろう。
素直に、と言っていた。
会いたいなら会いたい、と。
遊の胸の中で涙を必死でこらえて、乾かして。
そして、微笑を浮かべて遊を見上げた。
「今度から……会いたいって、会いにきてって言っていい? もっとずっと一緒にいたいって言っていい? 寂しいって言っていい?」
たぶん泣いたと気づいているだろう。
いまも気を緩めれば零れ落ちるぐらいに涙があふれているし。
「いいよ」
頬を真っ赤にさせた水都の頭を優しく撫で、遊は嬉しそうな安心したような笑顔で囁いた。
「もっと、いっぱい我がまま言っていいよ」
あまりにも優しい声で、水都は耐え切れずに涙を隠すように抱きついた。
一人で悩んで、寂しがって、馬鹿みたいだったと思えるほどの安らぎがあった。
しばらく無言で、そしていつもの軽い笑いを含んだ遊の声が響いた。
「俺もいーっぱい我がまま言うから」
思わずきょとんと顔を上げると、目が合う。
そして吹き出した。
「いいよ。いっぱい言って」
笑って、笑って、キスをした。
今までで一番幸せな味がした。
「あ、もうすぐ12時」
ふと遊が腕時計を見て言った。
ゆっくりと池を一周して、立ち止まってはいろんな話をしていたから時間がかなりたってしまったようだ。
青ざめる水都に、遊が意地悪な笑みを浮かべ、耳元で囁く。
「まだ水都と一緒にいたいな〜」
甘えるような声に青から赤へと顔を染める水都。
「えっ」
「今日はオールナイトだろ?」
「は?!」
さすがにそれはと焦る水都に、小首を傾げる遊。
「えー。さっき水都、いっぱい我がまま言っていいっていっただろー」
わざとらしく拗ねて見せる遊は、次の瞬間堪らずに吹き出した。
「もうっ。先輩のわがままはだめっ!」
「なんでだよー」
「ホントは水都もまだずっと一緒にいたいくせに〜」
ちゅっ、と頬にキス。
茹蛸のように真っ赤になりながら、水都は頬を押さえにらみつけた。
「もう今日は帰りますっ! 私は先輩と違って忙しいんだからっ」
「へぇー」
「へぇーなんですっ」
遊はからかうのが楽しくてしょうがない、という表情をしている。
水都はそれを不満げに見つめ、そしてふと微笑んだ。
「はい、先輩! いつでも会ってあげるから、今日は大人しく帰りますよ」
その手を繋ぎ、まるで保護者のように言う。
今度は遊がきょとんとして、吹き出した。
「はいはい」
繋いだ手は暖かい。
満開の桜は明るく道を彩っている。
桜を見ながら、二人でずっと歩いていこう。
[2004/5/18]
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