『桜を見ながら〜first flush〜』
2
その日の夕陽は、晴れていたこともあってとても綺麗なオレンジ色を空に広げていた。
染み渡るようなオレンジのグラデーション。
水平線に滲む太陽の光。
夕焼けに照らされた高層ビルの群。
「うっわー、きれー」
思わず感嘆が漏れる。
素晴らしい夕日と、隣には大好きな人がいる。
幸せな気持ちが心の中を満たす。
「綺麗だね、先輩」
遊を見る。
と、遊が手を伸ばし、水都の前髪にそっと触れる。
「お前もオレンジ色に染まってるぞ」
小さく笑う。
そう言う遊も、木々もベンチもカップルたちも、みんな染まっているのだ。
遊は眩しそうに夕日を見やって、近くのベンチに腰を下ろした。
水都も隣に座る。
静かに、夕日を眺める二人。
しばらくして、遊が大きく伸びをしながら、欠伸まじりに言った。
「今日は、遊びまくったなー」
「うん。楽しかった」
自然と笑みがこぼれる。
生まれて初めてと言うくらい、笑って笑ってとても幸せで、あっという間だった時間。
今日の一日を思い出しながら夕日を見ると、ふと切なくなった。
日の終わりを感じ、さっきまでとは違った感傷的な眼差しで沈んでいく太陽を見つめる。
急に黙り込んだ水都。
遊はそっと手を伸ばし、軽くその頬をつねる。
「なにボーっとしてんの。寂しくなってきたとか?」
笑いながら訊くと、
「……うん」
素直に頷く水都。
遊が吹き出す。
ムッとして目を向けると、予想外に優しい目で遊が笑っていた。
「また来るだろう?」
だから寂しくなんてないだろう、とその目が言っている。
「うん、来る!」
顔を綻ばせ、頷く。
「今度はドライブで、かな」
「……ドライブ? 先輩、免許とるの??」
「明後日から教習所に通うことになってる」
「えー知らなかった」
「ついこの前決まったんだよ。知り合いのおじさんが安く車売ってくれることになって、で、免許が急きょ必要になったわけ。だから教習所行って、春休み中はバイトも増えてるから…。なんだか忙しくなるわけだ」
水都は目をしばたたかせて、「大変そうだねー」と何の気なしに返事する。
意味ありげに水都を見つめる遊。
その視線をきょとんとして受ける。
「水都、明後日から春休みだろ」
「ん。でもすぐに学校で特別補習と予備校の講習も始まっちゃうんだよね」
受験生である3年へと進級する水都。
きのうで2年続けたテニス部も引退して、春休みから受験にむけて、勉強をがんばることにしていた。
「お前も忙しそうだね」
ベンチの背もたれに体重を預けながら、遊がげんなりした口調で言う。
「そうだね。私も先輩も忙しくって、春休みだって言うのに遊ぶ暇もないよねー」
苦笑いを浮かべながらそう言って、自分の言葉にふとひっかかりを感じる水都。
遊はなにも言わず、水都が気づくのを待つ。
(………遊ぶヒマもない…?)
心の中で呟いてみる。
ん?、と首を傾げ、頭の中を整理する。
(私も先輩も忙しくって、だから――――――だか……)
数十秒の沈黙の後、水都が叫んだ。
近くにいたカップルが驚いて水都を見た。
だが水都はそんなことを気にする余裕も無く、上擦った声で、
「も、もしかしてっ―――――あ、会える時間とかって少なくなったり…」
「スル」
言いながらしぼんでいく声に遊が言葉をつないだ。
瞬間、呆然と目を見開く水都。
「気づくの遅いよ、お前」
笑いながら遊が言ったが、それどころではない。
付き合いだしてまだ2週間。
春休みになれば会えるのだ、と当たり前のように思っていた。
なのに…あえなくそんな考えは打ち砕かれた。
「え…え……えー………?」
半べそ状態の水都は、がくっと肩を落とす。
頭の中が真っ白で、心はついさっきまで楽しかったのが嘘のように、どん底まで沈んでいる。
(……補習が朝からで…昼過ぎから7時まで予備校で…。先輩は教習所で…バイト……って確か9時とか10時ごろまでだから……)
時間もまったくあわない。
考えれば考えるほど、パニックになっていく。
ショックのあまり黙り込んでしまった水都。
「おいー? んな顔するなって。別に遠距離になるとかじゃないんだし。会える時間少なくなるけど、2〜3週間のことだし」
2〜3週間。
ばら色の日々になると思い込んでいた2〜3週間。
短いようで、まだ付き合いだしたばかりの水都にはとても長い時間に感じる。
「それに」
チャリ…と、金属のこすれる音。
遊がポケットからキーホルダーを出した。
ぼんやりと視線を上げると、
「水都、俺んちの鍵もってるだろー? 好きなときに来ればいいし」
鍵――――――。
遊と付き合いだした日、貰った鍵。
一度だけ、遊の家には行ったことがあった。
だがその時はまだ引越しの荷物があって、片付けだけを手伝ったのだ。
それ以外はほとんど外で遊んでいたので、行っていなかった。
遊の明るい口調と、いつでも遊の家にいけるのだ、という安心感にわずかだが心も落ち着いてきた。
遠距離なわけじゃないのだ。
会おうと思えば、会える。
そう、自分を励ます。
そしてようやく水都は微かな笑みを浮かべて遊を見上げた。
「うん……そうだよね…」
瞬間、水都の唇がふさがれる。
付き合いだして3日目にしたファーストキス。
あれから何回目のキスだろう、ぼんやりと遊の体温を感じ思う。
思わずぼうっとして、ほんの数秒で離れていった遊の顔を見つめる。 遊も水都をじっと見つめる。
そして吹き出した。
「やっぱ、お前おもしろい!」
キスのあとよく言われる言葉。
(……私ってそんな変な顔してるのかなぁ………)
内心思いつつ、頬を膨らませてそっぽを向く。
「もうっ! じゃーしなきゃいいじゃないですかー」
唇を尖らせて言うと、そっと遊が肩を引き寄せる。
「かわいいーって言ってんだよ」
耳元で囁かれる言葉。
火がついたように真っ赤になる水都。
その反応を見て、大笑いする遊。
もう!!!、と怒りかけて、そこでようやく水都はまわりに人気があることを思い出した。
さらに真っ赤になる。
ユデダコ状態の水都の頬を遊が優しくつねる。
本気ではなく、すねたように怒る。
それは本気じゃないから、楽しい瞬間。
甘い時間。
(きっと―――大丈夫)
幸せが心の中を満たす。
少しぐらい忙しくてあえなくても、きっと大丈夫。
そう、この時は思っていた。
『いま、予備校終わったよ〜。疲れたぁ〜。
先輩、教習所どうだった? ぶつけたりしないで運転できた?
バイト頑張ってね☆』
ピッ、送信ボタンを押す。
送信中の画面を見つめ、水都は深いため息をついた。
バスの窓枠に頭をつけて、流れていく景色を眺める。
だんだんと日々は春の風景へと変わっていっている。
もう春休みに入って10日がたとうとしていた。
あの一日デートからすでに2週間がたとうとしている。
その間、あえたのはほんの2回。
それも3時間程度の短いひと時。
遊はバイトと教習所通いで疲れているし、水都も予想外に課題の量や講習が大変で毎日ヘトヘト状態。
メールはヒマがあれば。電話は遊のバイトが終わったあと、11時ぐらいに一回。
それだけは毎日かかさずにしている。
でもやっぱり寂しかった。
何度目かわからないほどのため息が、漏れる。
虚ろな気持ちの水都を乗せたバスはやがて家の近くの停留所で止まった。
降りて、少し歩いていると着メロが流れ出す。
そのメロディーは遊専用のだったから、水都は驚きつつ慌ててケータイを取り出した。
「もしもし!?」
裏返った声。
「こんばんわ」
笑みを含んだ、軽い口調の、だが優しい声が水都の耳に入り込む。
「あれ、先輩、バイトじゃないの?」
「んーサボり中」
笑いながら喋る遊の声はあっという間に水都の身体を幸福で満たす。
「さっき予備校終わったってメールきたから、そろそろバス降りたかなって思ってさ」
「うん。いま降りたよ」
「いま、どの辺」
「んーとね、うちの近所の公園のそば。ほら並木道がある…」
説明しながらふと目を上げると、木に蕾がちらほら見える。
「ああ、あの桜並木な」
遊が言った。
そう、ここは桜がすごいんだった、と水都は暗闇にうすく浮かぶ蕾を見ながら思った。
「今度、見に行こうな」
「え、あ、うん」
何気ない遊の一言。
だがとても嬉しくなる。
だがケータイの向こう側、遊のいる場所の喧騒に、水都は少し寂しくなる。
遊に話しかける男の声。
それに答える遊の声が、遠ざかる。
自分とは別な場所にいることが、はっきりとわかって、その雑音を聞きたくなくて、ケータイを耳から離す。
すこしして、ケータイから「おーい?」と大声で呼ぶ遊の声が聞こえてきて慌てて返事をする。
「なにやってんの」
大好きな遊の声。
(……会いたいな…)
声を聞くと会いたくなる。
「んーなんでもない。ほら先輩、サボってばっかりじゃ怒られちゃうよ! またあとでね」
明るくそう言うと、「はーいはい。じゃぁ、またな」と言って電話は切れた。
水都はケータイの画面を見つめる。
液晶のライトが消えてもしばらくの間、見つめていた。
(………会いたくなっちゃったよ、先輩)
目の端に、わずかに滲む涙。
なぜ自分はこんなに弱いのだろう、そう思ってしまう。
べつに忙しくっても平気だと思っていたのに、あっという間にそんな気持ちはなくなっていた。
だから。
水都はそっとバッグにケータイをしまう。
ここ数日、遊と喋っていても、最初は嬉しくてしかたないが、すぐに心は沈んでいた。
声を聞くと会いたくなるから。
遊の笑い声を聞くと会いたくなるから。
だから、逆に苦しくなる。
それは会えないから。
忙しくて疲れていると知っているから、バイトが終わったあとに会いに来てなんて言えるわけがない。
会いたいのに、会えない。言えない。
だから、声を聞きたくない。
だから、毎日の電話が切なくて仕方がない。
苦しくて、寂しくなってしまうから。
水都はそっと息を吐き、空を見上げた。
まだ8時少し前。
だが空は暗く、すでに星を輝かせていた。
[2003/8/12/thu]
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