『桜を見ながら〜first flush〜』




1




「あーッ!!! 焦げてる〜!!!」
 まだ肌寒い早朝。
 とある家の台所で、煙と絶叫が上がった。
「きゃーっ!!!」
 慌てて川原水都は油の中に浮かぶ焦げたエビフライをすくいあげていく。
 キツネ色はとうに過ぎて、衣は濃すぎる茶色になっていた。
 水都はキッチンペーパーに広がるエビフライのはずの黒い物体からでる油を見て、深いため息をついた。
 と、隣からもため息。
 ぎょっとして振り向くと、母親が頬に手を当てて、エビフライを沈痛な面持ちで眺めている。
「ヤダわぁ…。そのエビ高かったのに…」
 嘆く母。
 そしてもう一方からもため息が漏れた。
 見ると妹の名都(なつ)がしかめっ面でこれまたエビフライを覗き込んでいた。
「うっわぁーサイアクだね。こんなの食べたら肺がんになっちゃうよ」
 冷ややかな声で言う。
 水都は小刻みに震えると、左向き右向きしながら、
「うっるさーい!!!」
と、絶叫した。
 名都は耳に指を突っ込んでダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。
 母・都は「ご近所迷惑でしょ」と冷静に娘を軽く叩く。
「もうっ!! 二人とも話しかけないでよねっ、気が散るでしょ」
 水都の言葉に母妹はいっせいに「は? 最初に叫んだのは水都でしょ」と言った。
 水都は無言で顔を背ける。焦げたエビフライを見下ろした。
 そしてキッチンの柱にかけてある時計を見上げた。
 時間は8時半を回っていた。
 10時には彼氏である三崎遊と駅で待ち合わせをしていた。
 時間がない…。
(……間に合うんだろうか…)
 焦りが生まれる。
 遊と付き合いだして2週間。放課後遊んだりはしていたが、日中の丸1日デートは今日がはじめて。
 だからお弁当などでも作ってみようと、チャレンジしたのだが…。
「なに、諦めるの?」 
 名都がのほほんと牛乳を飲みながら声をかける。
「あらまぁ、結構手作りのお弁当ってポイント高いのにねぇ」
 都が焦げたエビフライを味見しながら言った。
 水都はやや楽しんでいるふしがある母を、大きく首を振って無視する。
 そして深呼吸をすると、気合を入れなおして、冷蔵庫を開けた。
 いそいで代わりのおかずを作らなくてはならない。
 手当たり次第に物色している娘に、母は嫌そうに眉を寄せて呟いた。
「今日の晩ご飯の材料に使おうって思ってたのに…。水都の来月のお小遣いから材料費をマイナスしとかなきゃね」
 反抗したいところだったが時間がないので水都は無視を決め込み、準備を再開した。 







 


 三崎遊はちらり腕時計に視線を落とした。
 時間は9時50分。
 待ち合わせまで10分もある。
(ちょっと早く来すぎたかなー。 水都の場合、めちゃ早く着いてそうな気がしたけど…まだか…)
 ぼんやりと駅前の花壇の縁に座って、空を見上げる。
 初めての一日デート。
 日中はまだ制服姿の水都しか見たことなかったので、今日はわずかばかり楽しみだった。
 ケータイを取り出してメールチェックをしてると、ふと視線を感じた。 
 目だけを動かして見ると、女子大生ぐらいの女性が二人自分の方をちらちら見てなにか話している。
 遊は内心うんざりとしたため息をつく。
 遊の外見はかなりかっこいい部類に入るほうで、可愛いという言葉にもあてはまる甘い空気をもっている。
 今月頭に卒業した高校でも取り巻きがつくほどの人気ぶりだった。
 告白はもちろん、逆ナンなど数え切れないほどあった。
 案の定二人組みの女性が、いそいそと遊のほうへと近づいてきた。
「ねっ、今からどこか遊びいかないー?」
 初対面であるにも関わらず、馴れ馴れしく声をかけてくる女。
「君の行きたいところ、一緒に行こうよっ」
 二人の女性は遊を挟むようにして立ち、笑いかける。
 強烈な香水の香りに辟易しながら、遊は笑顔を向けた。
 女たちは笑みを返されたことに単純に喜び、その笑顔の裏にあるものに気づかない。
 そして笑顔のまま、目に冷たい光を宿し、遊は口を開いた。
「ごめん、お姉さん方。俺いまあなたたちより3・4は若い女の子と待ち合わせしてんのね」
 軽い口調。
 だが明らかに棘のある、そしてどこかひっかかりを感じる言葉。
「だからさ、どっか行って? まさか十代の現役女子高生にかなう、なんて思ってないよねー」
 笑い声を立てて、遊は二人を見た。
 遊の言葉を飲み込むにつれ、顔を蒼白に、真っ赤にさせる二人。
「じゃ」
 遊は、バイ、と手を軽く振る。
 片方の女がなにか言おうとしたが、遊の冷めた眼差しに口をつぐんで、その場を去っていった。
 遊は疲れたようにため息をはく。
 と、ふとまた視線を感じ、見上げると彼女である川原水都が立っていた。
 片手に大きなトートバックを下げ、水玉のノースリーブのワンピースにデニム。肩からビーズをあしらった小さなポーチを下げている。
 肩につくかつかないかの栗色の髪は顎のラインで二つに結ばれている。
 戸惑うように立ち尽くしている水都。
「…おはようございます……」
 か細い声に、遊はいまのを見られていたのかな、と思った。
「おはよー」
 遊は水都のそばに歩み寄る。
 じっと遊を見つめる水都。
「なに」
「先輩って………モテるよね…」
 憂鬱そうにうつむく水都に、遊は「うん」とあっさり頷く。
「そしてすっごい冷たい…」
 ぽつり呟くと、
「水都以外の女に優しくしたってしょうがないじゃん」
 遊は満面の、さっきとは違う優しさのやどる笑顔で言った。
 笑うとかっこいいよりも可愛さのほうが大きくなる遊の笑顔に、思わず見惚れ、水都はまたため息をついた。
「はいはい」
 恥ずかしい台詞をさらりという遊に、適当に返事を返す。
 遊とは高校卒業してから付き合いだした。
 水都はつい昨日から春休みに入ったばかり。
 だからそれまでは放課後ぐらいしか会えなかった。
 だがそれまで知らなかった遊をしるには十分。
「……先輩ってぜったい……タラシの素質がある…」
 ぼそっと呟く水都に遊は「ん?」と目をしばたたかせる。
「なんでもー」
「そっ? ところで、それ重そうだな。なに入ってんの」
 遊が視線をトートバックに向けた。
 水都も視線を下げ、はっとして目を泳がせる。
「……お弁当」
 ようやくのことで作り上げたお弁当。
 時間がなくて味見さえしてないそれを持っていくかどうか悩んだのだが、母親にもったいない、と持たされたのだ。
(……ていうか…先輩って手作りのお弁当とか…食べたがるのかな…。いまさらだけど…)
 恐る恐る見上げる。
 遊はぽかんとしていた。
「水都が作ったの?」
「うん」
「へぇ…。意外」
「意外?」
「楽しみ」
「楽しみ?」
「にしてちゃダメなのか?」
「…微妙」
 ちらっと視線を逸らす水都に遊が笑い出す。
「まぁ、とりあえず行くか」 
 そう言って遊が水都に手を差し出した。
 怪訝そうに見る水都に「カバン持つよ」と笑う。
 軽々とお弁当と水筒とつまったトートバックを持ち、もう片方の手をまた差し出す。
 またきょとんとする水都。
「なに?」
 と訊くと、遊は屈託ない笑顔で水都の手をとった。
「手、つながないの?」
 つながないならそれでいいけど、と意地悪そうに水都を覗き込む。
 水都はわずかに頬を赤くする。でも平静を装って、遊の手をつないだまま歩き出した。
「先輩、行きますよ」
「はい、はーい」
 付き合いだしてまだたった2週間なのだ。
 しかも日中デートは初めて。
 どうしようもなく浮き足立つような楽しさが水都の頬を緩ませた。











「ううーん…」
 もぐもぐと口を動かす遊。
 わずかに寄せられた眉が、遊の口の中にあるものの存在価値を現しているのだろうか。
「…やっぱり美味しくない…?」
 不安げに訊くと、遊は首をかしげた。
 いくぶん冷たい風に遊のサラサラの髪が揺れている。
 潮の香りのする海辺のベンチで、二人はお弁当を広げていた。
「チーズの味がする」
「うん。ササミチーズフライだし…」
「ああ、ササミね」
 遊の言葉に水都はお弁当箱の中のササミフライを見つめる。
 衣の色的にはエビフライよりは綺麗に、キツネ色よりやや濃いぐらいだ。
(…ササミってわからないような味だったのかな…) 
 フライを見つめたまま黙り込む水都に、遊が吹き出しながら、
「美味しいよ。ほら水都も食べてみろよ」
 そう言ってササミフライを水都の口元にもってきた。
「え」
 はいアーン、と明らかに水都の反応を楽しんでいるような笑顔で言う。
 水都は仕方なく遊のもつササミフライを見据えると、一口頬張った。
「おお、デカイ口」
 とっさに遊が言って、水都は喉に詰まらせる。
 咳き込む水都に遊が苦笑しながらお茶を差し出した。
「ほらほら、飲んで、落ち着いて」
 冷たいお茶を一気に飲み干す。
 喉につかえていたものがすっととれていくのをかんじ、水都はほっと息を吐いた。
 そして頬を膨らまして遊を見る。
「先輩って意地悪…」
「え、なんでだよ」
 そう言いながらもその顔は笑っている。
「楽しいからついからかいたくなるんだよ。わかるだろ?」
 優しい眼差しで見つめられて恥ずかしくて視線を逸らす。
「そんなのわかりませんー」
「へー」
「へーじゃないって」
 遊は声を立てて笑いながら「さ、次はどれ食べよーかなー」と、次々と食べていく。
 予想よりもお弁当は美味しくて水都も満足だった。
 遊は綺麗に食べてくれて、時折頷くように美味しい、と言ってくれるのが妙に嬉しかった。
「今度はエビフライ作ってきてよ。俺、好きなんだよね」
 食べ終わって一息ついていると、遊が甘えるように水都を見つめて言った。
 その眼差しにドキッとしながらも、エビフライという単語に、やや顔を引きつらせて頷いた。
 それから水都は空になったお弁当箱をバッグにしまい、遊と手をつないで海沿いの道を歩き出した。 
「ここって夕焼けとか夜景が綺麗なんでしょ?」
 二人がいる場所はお台場の海浜公園。
「らしいねー」
 遊が水都を覗き込む。
「見たい? 夕日とか」
 水都は少し考えて、小さく頷く。
「じゃ、遊びまくって帰りにでもまたよって夕日見ていこーか」
「…うん!」
 ちょっとたまに意地悪な時もあるけど、やっぱり優しい遊に水都は顔を綻ばせた。
 そうして二人はジョイポリスなどで散々遊びまくったのだった。







[2003/8/10/sun]