『桜の咲く前に』









 まだまだ冷たい風。
 あと数日で3月を迎えようとしているが、寒い日々は続いている。
 頬を冷やしていく風に乗って、合唱が聞こえてきた。
 曲は『仰げば尊し』だ。
 校舎の隣にある講堂からその歌声は流れてくる。
 今日は卒業式なのだ。
 それなのに、川原水都(みなと) は屋上にいた。
 水都は2年生だから関係ないといえば関係ない。だが、だからといってサボっていいわけでもない。
 肩につきそうな薄茶の髪が風に流されて、宙に舞う。
 水都は髪を押さえるでもなく、されるがままにぼんやりと空を、景色を見ていた。
 手すりに全身の体重をかけて、水都は大きなため息をつく。
 いつのまにか「仰げば尊し」は聞こえなくなっていた。
 卒業生による歌声は水都をブルーにさせていたが、それが聞こえなくなってもまだ水都の顔色が晴れることはない。
 今日で変わってしまうのだ。
 水都は手すりを背にして、コンクリだけの屋上を見渡す。
 1日に一度はこの場所へきて、穏やかな時間を過ごしていた。
 人付き合いが苦手なわけでもない、ただそれでもぼんやりとした時間が欲しくて屋上へくるようになったのはいつからだっただろうか。
 一人でぼーっとしていたくて最初に屋上を訪れたあの日。
 だけど。
 水都はため息をついてまた手すりのほうを向き、寄りかかってなにを見るともなく校舎を、風景を見る。
 微かな金属のこすれるような音がした。
 なにか音がしたな、とぼんやりした頭の端で考える。
 と、水都だけの空間が、静かに破られた。
「なーにやってんだよ」
 ビクッとして水都は振り向いた。
 わりこんできたその声は、その主はよく知ってる。
 そしてこの場所にいつもあったもの。
「三崎先輩っ」
 無造作に整えられた明るい栗色の髪をかきあげながら、三崎遊は笑って軽く手を振った。
 水都は一瞬唖然とし、そして慌てた様子で口を開く。
「先輩!? な、なにしてんですか、こんなところで!」
 焦って舌を噛んでしまっている水都。
 遊は首を傾げる。
「ていうか、俺がそれ最初に聞いたんだけど」
 言って遊はおかしそう頬を緩める。
「なーにサボってんだよ。今日は卒業式だろ」
 のほほんとした声に水都は、
(…だから…だよ……)
 と、心の中で呟く。
「せっかくの俺の晴れ舞台なのに、サボるか? ダメだね〜」
 笑いながらおどけた口調で言う遊。
 それとは正反対に感情を押し殺すように無表情な水都。
「……晴れ舞台なら…先輩こそこんなとこに来ていちゃダメじゃないですか」
「もう名前も呼ばれて役目終了してっからいいの」
(……いいの…って…。ほんとうにいい加減なんだから…)
 整った顔立ちと軽い性格の遊は女子には結構人気がある。
 証書授与が終わったからといって式を抜け出してきたらさすがにファンの子たちに気づかれるのでは…、水都はのんきそうな遊を見ながら思う。
(……いつもだって…どこ行ってたのかとか聞かれてたのに)
「最後だから、この場所ともお別れしとこうと思ってさー」
 水都は思考を停止させ、わずかに顔を強張らせる。
 最後だから、わかりきっていたはずのその言葉が、やけに重く響く。
「いやー、ほんとよくここでサボってたよなぁ〜」
 しみじみと笑う遊。
「途中からはなんか一人仲間もできたし?」
 羨ましくすら思えるキレイな二重の目が細められ、水都を見る。
 そう、水都が一人になれる場所を、ぼーっとできる場所を探してこの屋上にたどり着いたのは入学して2ヶ月がたったころだったろうか。
 誰もいないこの場所をお気に入りとし、2度目にここへきたとき、そこに遊がいたのだ。
 屋上のドアを開けて遊の姿を見て、水都は『げ…』とお気に入りの場所の侵入者にたいしてそう思った。
 回れ右、しようとした。
 だが遊はちらっと水都を見ただけ無関心。
 水都はこのままお気に入りの場所を諦めるのが、なにか悔しいような気がして立ち去らず屋上に残ったのだ。
 居心地のよさを求めてきたのに、見知らぬ男子生徒と二人きり、というのは居心地が悪いなんていうものじゃなかった。
 だけど、重苦しい空気がやんわりと破られた。
 突然遊が吹き出した。
 びくっとして見るとマンガ本を読んでいた。
『なぁ、これさ面白くない?』
 そう言って屈託のない笑顔で遊は四コマのマンガ本を水都に差し出したのだ。
 それは水都には面白くなかった。 
『………』
 無言の水都に遊は首を傾げて、えー面白くない??、と不服そうな声をだした。
 そして水都のそばにきて本のページをめくる。
『これは面白いだろう』
 そう自慢げに言う遊。
 だがそれもまたあんまり面白くなかった。
『えー、お前、変』
 名前もしらない会ったばかりの遊から言われて、水都はムッとして遊を見た。
 だが遊の明るい笑顔と優しい眼差しに、言葉をなくす。
 改めてみれば明らかにかっこいい部類に入る遊に、いまさらながら見惚れてしまった。
『ま、いっか』
 呟いて、遊は立ち上がった。
『そんじゃ、お先』
 片手を上げて、背を向ける遊。
 水都はそれを目で追って、手の中にある本にハッとする。
『あ、あのマンガ』
 声をかけると遊は顔だけを水都に向けて笑った。
『あげる』
『えっ』
 待って、と言おうとしたが遊はそのまま立ち去っていたったのだった。
 残された水都はしょうがなくそのマンガ本を読んだ。
 その中でちょっとだけ笑える話もあった。
 そして次の日、水都はなんとなくまた遊のいる屋上へと足を運んでいた。
 それから少しづつ話していくようになって、屋上でのひと時は毎日の日課のようになっていった。
 そしていつのまにか遊に会うために、遊に会いたくて屋上へと行くようになったのだ。
 水都はつい最近のことのような気がする、だがもう1年以上も前のことを思い出していた。
「おーい、川原?」
 気づくと遊が覗き込んでいる。
 ドキッとして水都は身をひく。
「なーにボーっとしてんだよ」
「…あの…懐かしいなぁ……と思って」
 遊は頬を赤くしている水都を可笑しそうに見つめる。
「ほんと、懐かしいねぇ。どもども、お世話になりました」
 わざとらしくペコッと頭を下げる遊。
 水都に言ったのか、この場所に言ったのかわからなかったが水都の胸を締め付けるには十分な言葉。
 水都は沈んでいく心にそっと吐息を漏らしながら、引きつった笑みを浮かべた。
「…卒業おめでとうございます……先輩」
 顔を見られたくなくて深く頭を下げる水都。
 すこしの間、沈黙が流れる。
 そしていつもの明るい遊の声が響いた。
「ありがと」
 水都はなるべく遊をみないように顔を上げた。
 本当はもっと喋っていたい。
 本当はもっとずっと一緒にいたい。
 でもこれ以上ここにいると泣いてしまいそうで、水都は遊に背を向けた。
「先輩とこの場所で過ごしたこと、私…忘れません」
 精一杯の想い。
 水都は遊のことをこの屋上でしかしらない。
 校舎の中の遊はいつも女の子や同級生に囲まれて人気のある先輩。
 自分なんてほんのささいな存在、そう水都は思っている。
「…それじゃあ、先輩」
 目頭が熱くなる。
 浮かび上がる涙。
 水都は奥歯をかみ締めて、息をつめてドアノブに手をかけた。
 その時、
「おーい、水都」
 苦しそうな水都と対比するのほほんとした声が水都を呼び止めた。
『水都』
 初めて呼ばれた下の名前。
 驚きに涙が止まる。
 振り返ると「ほらっ」と遊がなにかを投げた。
 慌ててそれをつかむ。
 手のひらに伝わる冷たい金属の感触。
 水都は恐る恐る手を広げてそれを見た。
「………」
 鍵があった。
 キョトンして顔を上げると遊がゆっくりと歩いてきた。
「これ…?」
 水都の目の前まできた遊はにっこりと笑顔。
「来月から一人暮らしするんだ。で、部屋の鍵」
 相変わらずあっさりとした口調。
 だがあっさりと「そうですか」とは頷けない内容。
「……はぁぁぁ??!!」
 大きく口を開けて叫ぶ水都。
「へ、部屋の鍵って、な、なんで」
「だって俺卒業したらこの場所来れないじゃん」
 そう。だから水都はブルーになっていたのだ。
「そしたらどこで水都と会うわけ?」
 当たり前のように呼び捨てにされている名前。
 遊の口から漏れる自分の名前がとてもくすぐったくって、だが状況が把握できなくて水都は呆けつづける。
「……あ…え」
 口をパクパクさせて言葉をなくす水都に遊が不思議そうにする。
「あれ部屋いやだった? 俺、お前って閉所好きなのかなって思ったから部屋でいいだろうと」
 閉所好きってなんなんだ、と心の中で思わずつっこんでしまう。
「じゃ、こっち?」
 そう言いながら遊はポケットから2枚の紙を取り出した。
 映画の前売り券。
「どっちがいい? とりあえず映画見に行くか」 
「……あ、あの…」
「ん? なに、どっちもいらない?」
 遊の手が水都の手の中から鍵を取り上げる。
 水都はとっさに鍵を取り返そうと、遊の手をつかんだ。
「い、いります。どっちも!!」
 そう思わず叫んで、息を切らせる。
 しばらく見つめあう形になって、水都は自分が遊の手を握り締めたままだということに気づいた。
 暖かな体温が伝わってきて、頬が赤くなる。
 慌てて手を離そうとしたら、遊が離さないように手を握り締めた。
「最初っから素直に受け取ればいいのに」
 意地悪そうに目を細め、優しく笑う遊。
 水都の顔がこれ以上ないほど赤くなる。
「だ、だって…。あ、あの…なんで」
 なんで、と呟きながらその答えは目の前にあり、水都の目から涙が零れ落ちた。
 遊は水都の頭を軽く小突くと、吹き出した。
「やっぱ、お前変!」
 最初の日も言われたこと。
「なんでですかぁー…」
 泣きじゃくりながら、それでも反抗するように頬を膨らませる水都。
 遊がまた声をたてて笑って、そして。
「毎日毎日屋上に好きでもないやつに会いにきたりはしないだろーが」
 その言葉は予想もしていなかった分、さらに水都の涙を溢れさせた。
 胸が苦しくて、暖かい。
 水都は自然に顔を綻ばせた。
 涙をぬぐいながら、満面の笑みを浮かべる。
「…先輩、私に会いに来てたんだ」
 いたずらっぽい口調。
 遊は目を瞬かせて、笑いながら訊いた。
「水都は?」
 水都は涙を止め、遊を見つめる。
 そして零れるような笑顔で、遊に抱きついた。

「私も、大好きな先輩に会いにきてたんだよ」

 一番言いたかった言葉。
 言えないと思っていた言葉。
 
 そんなの知ってるよ、そう遊が水都の耳元で囁いた。
 桜が咲く前にこの屋上とはお別れ。
 でも桜が咲いたあとも、二人は一緒。
 

 ずっと一緒にいようね。







end.[2003/3/27/thu]