The Farthest Eden
03

『尚、華奈とケンカした? 今日も未来ちゃんのところに泊るって言ったわよ。早く仲直りしなさいよ。洋子さんに今度お菓子持っていかないと……』
次の日も華奈と会うことが出来ずに、帰宅したら母さんがそう言った。
洋子さんっていうのは未来ちゃんの母親。
未来ちゃんと華奈は小学生のときからの友達で母親同士も仲良くしていた。
そうして華奈は未来ちゃんの家に二泊もして、その間俺はまったく会えず喋れずで途方にくれていた。
明日からは華奈が出かけてたいと言っていた3連休に入る。
母さんが許すとは思えないけど、もしかしたら華奈は連休中も未来ちゃんちに泊るというかもしれない。
日が経てばたつほどに、このまま華奈との関係が壊れてしまうんじゃないかと不安が募っていく。
だからどうしても今日のうちに華奈を捕まえておきたかった。
休憩時間にあったってたいした時間はとれないから放課後、華奈が帰ってしまう前に引きとめることにした。
もともと俺はもう自由登校の立場だし、華奈が終わるよりさきに待ち伏せしてればいいだけのことだったのだと、いまさら気づいた自分の馬鹿さに呆れてしまう。
そして華奈が必ず通る階段のところで俺は華奈を待った。
授業の終わりを知らせるチャイム。
きっとホームルームが始まっただろう時間。
早く、早く、と気ばかりが急く。
それからどれくらい待ったのか。
教室のあるほうが騒がしくなり、響いてくる足音。
逃げるように急ぐその足音に、緊張が増す。
壁に預けていた背を起こす。
廊下から死角になるところに俺はいた。
だから―――ようやく会った華奈は俺に気づかずに階段を下りようとして―――その手を、掴んだ。
驚いた華奈が振り向いて俺を見て、さらに驚きに目を見開く。
だけどそれは一瞬ですぐに振り払おうとされた。
「離して!!」
叫ぶ華奈を無視して、俺は無理やりその手を引っ張って歩き出す。
「未来ちゃん、ごめん。先帰って?」
一緒に来ていた未来ちゃんに歩きながら伝えると、意外にあっさり頷いてくれた。
「華奈、ちゃんと仲直りしなよ!」
未来ちゃんの言葉になにも返事を返さずに俺から逃れようとする華奈を4階へと連れてった。
華奈のクラスがある校舎の端で階上は空き教室とか音楽室とかが連なってて放課後はほとんど人気がない。
家に帰れば母さんがいるし、外に行けば逃げられるかもしれない。
だからとりあえず話をするために、鍵が開いていた空き教室に華奈を押し込めるようにして入った。
「離してってば!!」
俺の手を振り切ろうとする華奈の手を一瞬離してすぐにその身体を抱きよせた。
柔らかい華奈の身体、甘い匂い。
「やだ!」
抵抗する華奈をきつく抱き締める。
耐えきれなくて気づけばキスしてしまっていた。
きつく閉ざしてる唇に触れるだけのキスを何度も落とす。背中をそっと撫でたらびくんと華奈の身体が震えて唇がほんの少し開いた。
舌をこじ入れて華奈の舌に触れる。
「……んっ」
三日間、華奈に触れていなかった。
だからいつもより性急に、夢中になってしまう。
華奈の漏れる声が頭に響いてくらくらしてしまう。
舌を絡み合わせてるとどんどん熱を帯びていく身体。
それは華奈も同じだと思う。
まだ俺を拒絶するように身体を強張らせてるけど、たまに小さく震えてキスの合間に漏れる声が甘さをますたびに華奈も感じてるってわかるから。
俺はひたすら満足のいくまで華奈の咥内を味わい、唇を離した。
長いキスのせいで顔を赤くし息を乱した華奈と目が合う。
華奈を見たらまたキスしたくなって顔を近づけた。
「……やめてっ」
だけど華奈の顔が歪んで涙が頬を伝い、俺は固まった。
悲痛な声に、華奈を抱き締めてた手から力が抜ける。
「華奈……」
「な、なんで? なんでこんなことするの?」
「好き……だから」
「嘘っ」
「嘘じゃない」
「お兄ちゃんは……私が好きなんじゃなくって、ただこういうことしたいだけなんじゃないのっ?」
「…………」
驚きすぎて声がでなかった。
違うと首を振る。
「じゃあ、私が可哀想だから好きなふり、してるの?」
「……なんだよ、ふりって」
「お兄ちゃんを好きな私が可哀想で付き合ってるだけなんじゃないの? ほんとは、気持ち悪いって思ってるんでしょ。だから家出るんでしょ」
私のこと置いていくんでしょ。
と、だんだん興奮してきたのか上擦った声で華奈はまくしたてた。
「違う、俺はほんとにお前のことっ」
「じゃあ、家出るなんて言わないでっ! ずっと一緒にいてよ!」
華奈がしがみついてくる。
「離れるなんてヤだっ。お兄ちゃんがいないなんて耐えられないっ。私のこと好きならどこにも行かないでっ」
その身体は声は震えていて、俺は視線を揺らした。
俺の気持ちも揺れる。
俺が家を出ていくことを、華奈がすんなり受け入れるなんてこと思ってはいなかった。
だが涙を見ると、ぐらついてしまう。
「……っ、俺は……」
―――俺だってずっと華奈と一緒にいたい。
その想いが口から―――……出ようとした瞬間、ドアが勢いよく開いた。
「なんだ、お前らか」
入口から俺達を見るのは文川だった。
俺は固まり、華奈の身体は驚きで震える。
「痴話ゲンカ学校ですンなよ、めんどくせーな」
心底うざったそうに文川が言って「幽霊かと思っただろ」なんてぶつぶつ呟いてる。
"痴話げんか"って言葉に、俺はハッと我に返って華奈を引きはがした。
俺達の関係がバレるのは、よくないから。
だから、だけど。
離した瞬間に華奈の顔が傷ついたように歪むのが見えて心臓が痛んだ。
華奈、って呼びかけようとしたけどそれより早く華奈が駆けだす。
文川に勢いよくぶつかりながら教室を出ていってしまった。
呆然と俺はそれを見ていることしかできず、「いってぇな」、と文川は顔をしかめながら背を向け教室から離れていった。
少しして俺は慌てて文川の後を追う。
そしてそういえばこの階には科学室もあるってことに気づいた。
案の定文川は科学室に入っていく。
広い机の上には備品が出されてた。
文川は着いてきた俺をちらり見て、「数チェック中、ひまならお前も付き合え」顎でそう指図してきた。
戸惑いながら文川のほうに向かう。
華奈のことは気になったままだけど、いまはさっきのことを文川に……誰にも言わないようにしてもらわないといけない。
いや、"誤解"だって思ってもらわなきゃいけない、んだろうか。
「個数があってるか確認して丸つけてけ」
クリップボードに止められた用紙を渡される。
それを受け取ったら文川は窓際へと行き、椅子に座ると煙草を取り出した。
「……禁煙」
ぼそり呟けば、文川は片眉を上げて俺を睨む。
「いいんだよ。どうせ3連休だし、臭いなんてすぐ消える」
口に咥えて火をつける様子を、少し呆れて眺めた。
すぐに煙と、匂いが流れてくる。
「……ちゃんと準備室だけで吸えよ」
それでももう一度そう言えば、ため息をつかれた。
「はいはい、わかりましたよ、"先生"」
今度は俺が文川をにらんだ。
"先生"っていうのは俺が合格したのが教育学部で、俺の夢は中学の先生になること、だからだ。
「おら、とっとと数えろ」
ほんとにどうして文川は教師になったんだろうか。
いつもやる気ないし、煙草吸いまくってるし、と不思議でならない。
ため息つきながら仕方なく備品チェックをすることにした。
いつさっきのことを切りだすかを考えながら手を動かしていく。
たまに文川を見ればケータイを弄り煙草をふかしていて―――。
「……文川でもそんな顔するんだ」
気づいたら呟いていた。
あ?、と文川が顔を上げる。
「え、あ、……彼女からのメールだろ?」
たぶん、そうに違いない。
ケータイに目を走らせていた文川の眼差しがいつもの胡乱さと違ってちょっと優しい気がしたから。
だけど俺の言葉が気にいらなかったのか文川は不機嫌そうに眉を寄せる。
「お前らんとこと違ってらぶらぶですが、なにか?」
そのくせわざとらしく、ニヤッと笑って挑発的に文川が言う。
「……っ」
俺はつい視線を逸らした。
「あ、あのさっきのことだけど」
文川は俺と華奈がただの兄妹じゃないって―――確信してる。
「あのさ」
「お前さ」
かぶせるように文川の声が響いて、口を閉じた。
ゆっくりと紫煙を吐き出しながら文川は冷たい目で俺を見た。
「ビビんなら、やめとけば?」
「………は?」
「ビビって、縋られて"決意"揺らぐぐらいならとっととヤめろ。見苦しいから」
胸に鋭いものが突き刺さったように痛い。
一瞬呼吸が止まり、唇が震えた。
「お前が家出るのって、"覚悟"決めたからじゃねーのか」
息を、飲んだ。
なんで―――。
「……あのな、俺、お前の受け持ち3年目なんだけど。つーか、なんだこの腐れ縁」
そう、だ。
文川が新任で入ってきたときと俺が入学したときは同じ。
「一応仕事なんでね、一通りは見てンだよ」
俺でも、と文川は面倒臭そうにため息混じりに煙を吐き出している。
前から気づかれてた?
呆然として、でも不安に文川を見る。
文川は俺の気持ちを察したのか、「ま、馬鹿ばっかだし気づいてんのはいねーだろうけど」と付け足した。
それにホッとし―――……。
「それが、ウゼェんだよ」
とても教師とは思えない文川の冷えた声が響いた。
「……なに?」
「関係がバレるのが怖ぇなら、んな関係とっととヤめろ」
「……は」
「見ててウゼェ。ビビって付き合ってなにが楽しいんだよ」
バカバカしいとでも言いたそうな文川に、怒りが湧きあがってきた。
「しょうがないだろっ。華奈は、俺のっ………妹なんだから」
はじめてはっきりと第三者に言ってしまってた。
だけど、それはすぐに、相変わらず冷たいままの文川の声に返される。
「だから?」
「………関係がバレたら……絶対非難される……華奈に辛い思いはさせたくない」
祝福なんてされることなんてない関係。
もしバレて華奈が傷つくことがあったら、そう考えるだけで心臓が凍る気がする。
「じゃあ、別れろ」
「簡単に言うなよッ」
俺の気持ちも知りもしないでぽんぽんと言葉を投げつけられて苛立つ。
「つーか、非難されるのわかったうえで付き合ってんだろ。それともあれか? 若さゆえの過ちってやつか?」
「ふざけんなよ!!」
「ふざけてねぇよ。だれも公言しろなんてことは言ってないだろーが。だけどな、バレるのが怖いくらいの気持ちならこのさきやってけねーぞ、日倉」
「……っ」
「お前が家を出る――親元を離れるって決めたのは、なんでだよ。ケジメじゃねーのか」
ぐ、っと拳を握りしめた。
ケジメ。
自立するため。
ずっと華奈と一緒にいるため。
俺が、俺が―――強くなるため。
「お前さっきなんて言いかけた? 華奈に詰め寄られて、気持ち崩しかけたんじゃねーのかよ」
それは、図星で俺は顔を俯かせた。
先のことを考えたらこのまま毎夜あんなことを続けていたって、どうしようもない。
秘密は甘くみえて、実際は苦さしかない。
「別に、俺にはお前らのことは関係ないしな。お前がどーしようが関係ねーよ。いいんじゃねーの、まだ若いし? 気の迷いかもしんねーしな」
「……そんなんじゃないって言ってんだろっ」
「何十年か経てば、ンなこともあったなーって感傷に浸るのもいいんじゃねーのか?」
「黙れよっ」
相手は教師だとか、そんなことはもう頭になかった。
「しょーがねーだろ。単純な問題じゃないっ。バレて傷つくのは……俺達だけじゃない」
「だから、決めたんだろ」
「そうだよっ。ちゃんと俺が……」
俺が、父さんと母さんに―――……。
「ならいちいちビビってんじゃねぇよ」
「………」
「俺は欲しいものは絶対諦めない。お前も諦める気がないんだったら覚悟決めろ」
冷たさよりも、真剣さの勝つ文川の声。
普段適当なくせに。
だらけてるくせに。
「……文っちのくせに」
苦々しさと、悔しさとでそう呟けば、鼻で笑われた。
文川は携帯灰皿に煙草をもみ消して二本目をつけていた。
「―――……俺、強くなれるかな」
好き放題言われてムカつくいたけど、俺と華奈のことを知っているっていう事実は少し心を軽くした。
否定されないってことにホッとした。
「さぁ、知るか」
「………」
さっきまで熱かったくせに、一気に気だるそうというより面倒臭そうに煙草を咥える文川。
本当になんで教師になったんだ、と訊いてみたくなった。
口を開こうとしたらドアがノックされて、一人の男子生徒が顔を覗かせた。
「あれ、尚?」
一年のとき同じクラスで、いまも同じクラスの汐井啓が不思議そうに首を傾げながら入ってきた。
「とっくに帰ったと思ってたら文川に捕まってんのか」
啓は笑いながら俺の隣に来る。
「あ、ああ。ちょっとな」
「―――日倉。汐井に備品チェックの渡せ」
文川が俺が持ったままにしていたクリックボードを顎で指した。
「……え。もしかして俺このために呼ばれたわけ?」
啓が心底嫌そうに眉をしかめてる。
文川はこっちを見ることもなく「とっとと数えろ、夜になっちまう」と啓に言ってた。
「……手伝おうか?」
「サンキュ。でも平気。文っち先生はいっつも人使いが荒いからさ、慣れてる」
「確かに」
数えはじめながらなんでもなさそうに啓が笑って、俺も笑う。
「……おい、お前ら」
途端に文川の不機嫌そうな声が飛んできて啓と顔を見合わせて苦笑した。
「じゃ……帰るな」
啓に言って、そしてちらっと文川を見た。
文川は窓の方に身体を向け、机にもたれかかって煙草を吸っている。
「―――先生」
呼びかけるけど文川は無反応だ。
俺は構わずそのまま、続けた。
「俺……ビビりだけど……がんばるよ。―――たぶん」
最後はちょっと冗談で付け足せば「たぶんかよ」と笑う声がした。
それから啓に手を振って科学室を後にした。
廊下はシンとしていて階下に降りてももう生徒たち大半帰ったのか静かだ。
自転車置き場に向かいながらケータイを取り出す。
華奈の番号を表示させたけど、かけることはしなかった。
次にデータフォルダから、ふたりでとった写メを表示させる。
華奈が俺に後ろから笑顔で抱きついてる写メ。
似てない―――ていうのは決して言えない。
一緒に歩いてたらカップルに間違えられたりもするけど、どことなく面影は似ている。
兄妹だから、それは仕方ない。
血のつながりは、否定しない。
だけど俺がそばにいてほしいのは"妹"じゃないから。
だから―――。
華奈のように、文川のように強くは言いきれないかもしれないけれど、覚悟をしなきゃならない。
俺が自分で決めたこと、を。
そしてその日の夜俺は、電話をかけた。