The Farthest Eden
02

そして―――俺の受験結果がわかる日がきた。
「日倉、あとで準備室来い」
担任の文川が俺にそう言ってきたのは昼休みに入ってすぐだった。
結果、ってわかってるから、来いって言われてのんきに飯なんて食えない。
有村に「行ってくる」って声かけて、さっさと教室を出ていってた文川の後を追った。
俺の担任の文川は科学教諭で、一日のほとんどを科学準備室で過ごしている。
準備室に辿りついて俺は深呼吸をした。
それは受験の結果を聞くことに対しての緊張と、もう一つは気合入れ。
一応ノックする。たいてい返事はないから、返事を待たずにドアを開けた。
途端に煙さに顔をしかめる。
部屋中に充満してるのは煙草の煙。
どう考えても煙すぎる室内に足を踏み入れると、文川が煙草片手に振りむいた。
「よぉ」
校内禁煙のはずなのに、この準備室だけは例外で特別に煙草が認められてる。
ヘビースモーカーの文川が何度注意を受けても煙草をやめないから、仕方なく準備室限定でっていう条件で吸うのを許可された―――らしい。
「けむ……」
空気まで白んでる部屋の中を歩き、文川のそばにある丸椅子に腰かける。
「……どうだった?」
文川はよく3年の担任を任されたなと思うくらいに適当人間。
でもわりと生徒受けはよく、だいたい敬語半分タメ語半分で話しかけられてた。
煙草を咥えた文川はデスクの上にあった書類を一枚手にとって、俺の前にかざした。
その紙に目を走らせる。
けど内容を把握する前に―――。
「はい、合格」
のんきそうな文川の声が響いた。
「………ま、まじで!?」
「うそだ」
「はぁ?!」
「ジョーダン」
「………」
俺は文川を睨みつけるとその手から書類を奪って目を落とした。
読み進める中で見つけた『合格』の文字。
それを認めて、思わず深いため息がでた。
受かった。
まじだ、って安堵とまだ沸かない実感を噛みしめるように頭に理解させていく。
「オメデトサン」
ふと笑う文川に、俺は「先生、ありがとう!」少しテンション高めに返していた。
それに文川が苦笑しながら煙草をふかして、
「まぁ、そんな心配もしてなかったんじゃねーのか? ほぼ大丈夫な感じだったろ」
「ほぼ、が危ないんだろ」
どっちが教師かわからないようなことを言いあう。
珍しくも文川も担任風吹かせてねぎらいの言葉なんかをかけて来たりもした。
「―――で。どうすんだ?」
受験が終わったんだ、という充足感に安心しきっていると、文川が二本目の煙草に手をつけながら俺を見る。
「家、出んのか?」
「―――」
は、と緩んでいた顔のまま、固まってしまう。
俺が合格した大学は家から電車片道1時間と少し。
頑張れば別に通えない距離じゃない。
だけど俺は前に文川に―――。
「言ってたろ。家、出たいって」
そう、相談したことが一度だけあった。
それはまだ9月。
推薦入試で、と話しは進んでいたけど、迷っていたあの頃、文川と話してて一度だけ言ってしまった。
『俺、家を出たいかも……』
曖昧に呟いたその言葉に対する返事は、その時はなかった。
なのに今、言われて、俺は動揺して顔をひきつらせた。
「あ、うん」
そうだ。
合格して、そして俺は―――家を出ようと思っていた。
「春は引っ越し多いからな。早めに部屋見つけて引っ越し業者押さえろよ」
「………」
「家、出ンだろ?」
普段適当なくせに、なんでこんな時に限って。
「ん……」
「ブラコン妹がよく納得したな」
「―――……」
「ま、俺には関係ねーけど」
全部……"自分で決めた"ことなのに、まだ"迷い"があって、俯く。
「あの、さ」
「あー?」
「あの……」
俺と華奈のことを誰かに言うつもりはない。
だけど、全部を抱えて、全部を解決しようとするには俺のキャパは狭すぎて―――。
「……なんでもない」
だけど、結局、なにも言うことができない。
"合格"して喜んで、だから部屋の空気は明るいはずなのに俺のせいか妙に暗く息苦しい。
「……この部屋煙すぎ」
苦しさを煙草のせいにして、俺はひきつったまま笑顔を浮かべて立ち上がった。
「ありがと、先生」
もう一度、礼を言ってドアのほうへと向かう。
出ていこうとしたとき、文川の声がかかった。
「日倉」
「ん?」
「一応もう少しは担任だし、最後だし? なんかあったら聞いてやるよ」
なんてことなさそうな口調で投げかけられた言葉。
だけどそれはストンと俺の心の奥に響いた。
振り向いて文川を見るけど文川は背を向けてたくさんの吸い殻がつまった灰皿に灰を落として仕事をしはじめていた。
「……サンキュ」
見てないってわかったけど、軽く手を振って準備室を後にした。
昼休みの喧騒が遠くに聞こえる廊下に立ち、出るのはため息がひとつ。
だけど、もう―――決めなければならない。
もう一度出かけたため息を深呼吸に変えて、教室に戻った。





放課後は毎日華奈と一緒に帰るわけじゃない。
だけど今日は入試結果も出たことだし、華奈と一緒に帰るつもりでいた。
「もう、帰った?」
華奈の教室に行けば、少し前にホームルームが終わったばっかりらしいのに華奈はすぐに走って帰ったと未来ちゃんに言われた。
「お兄さん、華奈とケンカでもしました? なんか華奈、様子変だったですよねぇ」
小学校からの親友である未来ちゃんの言葉に、どうしたんだろう、と心配で一杯になる。
「……いや、ケンカはしてない。ちょっと聞いてみるよ、帰ったら。ありがと」
「いえいえ〜」
バイバイと別れ、俺は急いで家に帰った。
自転車だから追いつくかもしれないと思ったのに、結局華奈の姿は見つけられず一人家まで辿りついてしまった。
「ただいま」
玄関を開けると華奈の靴がある。
とりあえずリビングに行ったけど母親の姿も華奈もいなかった。
母さん、買い物にでも行ってるのかな―――。
そんなことを考えたとき、二階で物音がして華奈の部屋に向かった。
でも―――……華奈の部屋に辿りつく前に、俺は脚を止める。
開け放されたドアは俺の部屋で、中から激しい物音がしてた。
「……華奈?」
部屋の前に立ち、中を見て……俺は絶句した。
床に散乱した教科書や雑誌。俺の机の前で、華奈は立ちつくしている。
「……なにしてるんだ、お前」
なにが起こったのかわからずに華奈のほうに歩み寄ろうとした。
だけど、
「……ッ」
肩になにかぶつかってきて立ち止まる。
バサッと音を立てて床に落ちたのは雑誌。
それを見て、俺は、息を飲んだ。
バサバサと、そしてまた数冊、落ちていく。
それはみんな―――俺が買っていた賃貸物件の情報誌。
「か……」
「うそつき」
名前を呼ぼうとした俺の声に、華奈のはじめて聞く冷たい声が重なる。
「え……?」
「うそつき!!」
華奈が振り返って叫ぶ。
俺は、華奈の顔を見て再び絶句した。
顔を歪ませた華奈の目は真っ赤で、涙が幾筋も頬を伝ってる。
「……華奈」
歩み寄って、その身体を抱き締めようとした。
だけど、その手は振り払われて、弾かれた痛みに俺は華奈を呆然と見つめる。
「好きって言ってたの、全部うそだったんだ!!」
「……な。うそじゃない」
「じゃあ、なに!? なんで、家出るの!?」
なんで、って言葉に、なんで、と言葉を返しそうになった。
華奈はすぐに俺の疑問に答える。
「お昼休み、お兄ちゃんに辞書貸してもらいたくって教室行ったら、文っちのとこ行ったって聞いて、準備室に行ったの」
ごくん、と唾を飲み込む音がやけに頭に響いて聞こえる。
違う。
そう、言わなきゃいけない。
「家、出るんでしょ?! 私は、家から通うって思ってたから応援してたのに……出ていくんでしょ!?」
違う。
いや、違わない。
家を出ることは―――迷いながらも、決めたことだ。
なんて華奈に言葉をかければいいのかわからない。
パニックに陥った頭では華奈を落ち着かせる言葉を思いつかせてはくれなくて、俺は俺自身が落ち付きたくて華奈に手を伸ばす。
だけどまた手は振り払われて、だけど腕を掴まれた。
「ね、なんで? ずっと好きってウソだったの?」
「うそじゃない」
「じゃ、なんで家出るの? 私のこと置いてくの?」
「そうじゃない」
「ホントは、私のことなんて好きじゃないんだよ!」
「違うっ」
「じゃあ、なんでっ」
落ち着かせる手立てもないまま、俺は華奈が激情にのまれていくのを戸惑いながら見ることしかできなくて。
「なんでっ」
上擦ったその声が、なんで、と一気に小さくなる。
「なんで―――最後まで、シてくれないの?」
「―――」
華奈の目が酷く哀しげで、傷ついていて、俺は言葉をなくして。
「それは」
「私がいつも、毎晩どんな気持ちがわかる? 抱きあったって最後までは拒否されて。お兄ちゃんは朝まで一緒にいてくれない。途中で出ていく」
それは。
それは……。
「違うんだ」
なんでちゃんと言えないんだろう。
安心させてやらなきゃいけないのに。
俺は本当に、好きなのに。
「ただ、ただ―――……怖くて」
なのに、なのに、俺は言葉を間違えてしまう。
いや、言うべきではないことを言ってしまう。
弱くて、ずるい、言葉を吐いてしまっていた。
「な、に……それ」
華奈の顔が一層歪んで、その目が俺を睨む。
涙にぬれた目はこんな状況なのに綺麗で、こんな状況でなければ見惚れずにはいられない。
だって、好きだから。
だけどいまその言葉は届かなくて。
「私は……お兄ちゃんさえいれば、怖いものなんてない」
―――華奈の、そう言ってしまえる強さが、羨ましくて眩しい。
―――俺の、そう言ってしまえない弱さが、煩わしくて悔しい。
―――ごめん。
何に対するごめんなのか、わからないまま俺の口から滑り落ちたその言葉に、華奈は無言で部屋を走って出ていった。
隣の華奈の部屋のドアが音を立ててしまり、鍵の掛けられた音を、俺はただ立ちつくして聞いていた。
「……くそっ」
好きなのに、不安にさせることしかできない自分に―――心底嫌気がさす。
その場に座り込んで、俺は散らばったものに目を向け、重苦しい息を吐きだした。







その日、華奈は夕食もとらずに部屋にこもりっきりだった。
具合が悪いとそれだけ言って部屋に鍵かけて、それきり。
何度かそのドアをノックしたけど返事はなかった。
そして翌日―――。
「華奈なら用事あるってもう学校行ったわよ」
朝リビングへおりてきた俺に母親がそう言った。
まだ朝の7時すぎ。
用事なんてないってことはわかりきっている。
出てくるのはため息ばかりで、俺は「そう」とだけ返事すると朝食をとった。
いつもなら俺の前には華奈がいるのに今日はいない。
華奈が高校に入ってからは余程じゃないかぎり一緒に登校していたのに―――それも、もしかしたら昨日で終わってしまったのかもしれない。
卒業までの残りわずかな日。
できるだけ……華奈と一緒にいたい、けど。
華奈は話しを聞いてくれるだろうか。
―――……わかってくれるだろうか。
「ごちそうさま」
居てもたってもいられずに朝食を手早く終わらせると急いで準備をして家を出た。
一人で乗る自転車はいつもよりも寒く感じる。
凍てつかせるように肌を掠めていく風に白い息を吐き出しながら学校に向かった。
早く着いた学校はまだ静かで、俺は自分の教室じゃなく華奈の教室へと走る。
なにをどこからどう説明すればいいのかわからないけど、たった一晩華奈に触れないだけで、俺は限界だった。
ぎりぎりと胸が痛む。
走って走って息を乱して華奈のクラスに辿りつく。
「華―――」
ガラッと勢いよくドアを開けた。
けど、振り向いた数人の生徒の中に、華奈はいなかった。
「華奈、まだ来てませんよ?」
俺が華奈の兄だってことはこのクラスはみんな知っているから、一人の女生徒が俺にそう教えてくれた。
「……ありがと」
お礼を言って、廊下に戻る。
もうとっくに着いているはずなのに、いない。
どこに行ったんだろうか。
どうしても華奈に会いたかったから俺はそのまま教室前の窓際に立ち、華奈を待った。
時間が経つにつれて生徒たちも増えていく。なにをしているんだろう、と不審そうな眼差しをみんなから向けられたけど俺はその場に居続けた。
だけど予鈴がなっても華奈は来なくて。
俺は仕方なく自分の教室へと向かった。
そしてそのあと、休み時間のたびに華奈のところへ行ったけど、避けられてるんだろう、いつもいなくて会うことができなかった。
そのまま放課後を迎えて、家に帰った俺に母親が告げたのは華奈が未来ちゃんの家に泊るってことだった。
俺は自分の部屋じゃなく、華奈の部屋に行く。
見慣れたピンクを基調とした女の子らしい室内。
いつも―――、一昨日までは抱き締めあってたベッドに寝転ぶ。
仰向けになって天井を見上げながらポケットからケータイを取り出した。
華奈の名前を表示させ、通話ボタンを押して、コール音が響き出す。
数コールして、繋がる音。
名前を呼び掛け、聞こえてきた機械的な留守を知らせる音声にため息がこぼれた。
「……華奈。俺の話し……聞いて。頼むから」
それだけを留守電に預けて、切った。
ぐらぐらと頭の中の思考が揺れる。
華奈に拒絶されているということだけで、迷う。
家から出なければ、いいのか―――と。
知らずまたため息が出て、目に腕を乗せまぶたを閉じた。
華奈の匂いに溢れた部屋。
昨日の夜なかなか眠ることが出来なかった俺は、いつのまにか眠りに落ちてしまっていた。